守りたい人


 声をかけられて振り返った先、当たり前のように絡んだ視線。
 今までまっすぐに見ていられたはずの瞳を、まっすぐに見返すことができなくて、すぐに逸らした視線の端で、泣き出しそうに歪んだ幼さの残る表情。
 言葉を求め、縋るような眼差しが、逃げ出すために背を向けた左之助に、突き刺さってきた。
 それを痛いほど感じながら、左之助は、千鶴の求めているものをすべて振り切るように、足早に歩き出す。
 門を曲がる偶然を装って、千鶴に悟られないよう一瞬投げかけた視線の先で、少女が小さくて華奢な肩を落として項垂れていた。
 ふと、なんの脈絡もなく、絶望という言葉が左之助の脳裏に浮かぶ。
 今すぐにでも少女の元へと駆け戻り、強く抱き締めたくなる衝動を押さえ込み、少女から逃げる自分を卑怯だと内心で罵りながらも、それでもなにも見なかった振りをして、左之助は夜の闇の中へ歩き出した。
 それがなによりも強い後悔の始まりだと気づけずに。




 障子越しに、朝の光が差し込んできた。
 世界を照らす光に気づいて、左之助はぼんやりとした表情のまま、顔を上げる。
 薄い紙を通して部屋を照らす光に目を細め、夜が明けたのかと、働くことをやめたような思考の隅で左之助は思う。
 仲間というよりは、まるで妹のように思いながら守ってきた少女――雪村千鶴が、左之助たち新選組のもとから去って、早くも七日が過ぎた。
 この手をすり抜けるように出て行った少女。その少女の足取りが、なぜか掴めない。
 屯所を出た少女の向かう先は、父親と一緒に過ごしていた家しかないだろうと思ったから、以前、千鶴の家を訪ねたことのある平助に場所を聞き、一度その家に足を運んでみたが、人の気配はまったくなく、千鶴は家に戻らなかったようだった。
 千鶴はまた江戸を出たのかもしれない。
 元々消息を絶った父親を探しに、少女は遠い京までひとりで旅をしてきたのだ。父親を探しにまた旅に出たのだと十分に考えられるし、そう考えるほうが自然だ。
 そう思う一方で、左之助の心の中に不安が広がっていた。
 江戸を出た少女は、では、今度はどこへ向かったのだろう。そして、今、どこにいるのだろう。無事でいるのだろうか。生きているだろうか。
 執拗に少女を狙っていた鬼たちに捕まってはいないだろうか、と、そんな事ばかりが、左之助の脳裏を占める。
 千鶴が左之助の制止を振り切るように屯所を出たのは、深夜だ。
 家に立ち寄ることなく、僅かの路銀しか持たず、そのまま旅に出られるとは思えない。
 しかも、いまは日本中が戦の真っ最中だ。
 千鶴が旅に出たときと、情勢が違う。彼女自身の事情も変わった。
 男の身なりをしているからといって、安全とはいえない。
 新選組を離れ、ひとりになった彼女を、鬼たちが放っておくとは考えられない。
 きっと無事でいるだろう。大丈夫だろうと信じたい気持ちと同じ強さで、もしかしたら、と、最悪の想像をしてしまうのは、やはりそちらの可能性が高いからだろう。
 朝の光に埋め尽くされていく部屋を見るともなしに見つめながら、左之助は溜息を零す。
「やっぱり、どんな手段を使っても止めるべきだったな」
 悔恨が左之助の中に広がっていく。
 出て行こうとする千鶴を止め切れなかったのは、物言いたげな少女を避け続けていた後ろめたさがあったからだ。
 左之助が視線を逸らすたび、逃げ出すたびに、今にも泣き出しそうに歪んでいた顔を思い出す。
 屈託なく、無邪気に笑っていた少女が、笑顔を浮かべなくなった。
 いつだってまっすぐだった瞳が、怯えるように伏せられ、逸らされるようになった。
 伏見奉行所から逃げるように撤退をした、あの夜。
 対等だと思っていた鬼に、まるで弄ばれるようにして左之助が負けた、あの夜。
 あの日から少しずつズレが生じ、狂いはじめた。
 少女との間に、左之助は作ってはいけない距離を作ってしまった。
 あの圧倒的な鬼の力から、千鶴を守るにはどうすればいいだろう。それを考えるたび、己の無力さを思い知らされた瞬間を思い出し、自分の情けなさに歯噛みし、千鶴に合わせる顔がないからと避け続け、逃げ続けた結果、千鶴の笑顔を日に日に失わせ、まっすぐだった瞳が地を見つめるように仕向けてしまった。
 追い詰めた自覚があった。だから千鶴が左之助の手を拒んだとき、もう追い詰めるような真似はしないでおこうと思ったのだ。
 千鶴が出て行きたいと言うのなら、出て行かせてやればいい。副長には後からなんとでも言えばいいだろう。
 いつかそう約束したように、どんなことをしてでも、千鶴の離隊を絶対に認めさせてやる。
 そう思いながら、ひどく思いつめた顔をしていた千鶴の背中を、闇の中に見送った。
 こんなにも後悔する羽目になるとは思わずに。
 もう一度深い溜息をついたときだった。
「左之さん」
 障子越しに声をかけられる。
 遠慮がちに声をかけてきたのは、平助だ。
「どうした、平助。お前、もう休む時間だろう?」
 羅刹となった平助は、陽の光の下での活動が苦手となったせいで、陽が昇ると同時に体を休め、眠るようになったのだが。
「別にすぐ休まなくっても、平気だよ。それより左之さん、ちょっといい?」
「ああ。入ってこいよ」
 躊躇を含んだ問いかけに、今さら遠慮をするような仲ではないのにおかしな奴だと思いながら、左之助は平助を部屋に呼び入れた。
 静かに障子が開かれて、やはり遠慮がちな表情の平助が顔を見せる。
「どうした?」
 そろりと部屋の中を見回した平助の行動を訝しく思いながら、左之助はそう問いかけた。
「あー、新八っつぁんはいねぇ……よな?」
「ああ、いねぇが……。なんだ、新八に用だったのか?」
「んー、じゃなくて。いないなら丁度いいかなぁって思ってさ」
 平助のその言葉に、千鶴のことで話があるのだろうと見当をつける。
 案の定平助は、胡坐をかいて座るなり、「千鶴のことだけどさ」と切りだした。
「行かせて良かったのかな、って思って……」
 言い難そうに言葉尻を途切らせた平助を、左之助は静かに見返す。
 平助の性格と、もともと年齢が近かったせいもあるのだろう。平助は千鶴のことを出会った頃からとても気にかけていたし、気に入ってもいた。
 軟禁という形で新選組の中に加わった少女を、妹のように可愛がっていたのだ。
 千鶴を行かせたことに対して、土方は溜息交じりにではあったけれどすぐに了承した。が、平助は最後まで不満を口にしていた。
 これ以上戦に巻き込むのはよくないし、留まれば留まったで、千鶴に対して強硬な手段を執る輩もいるだろうから、と、暗に山南の暴走を示唆しつつ説得したとき、平助は頷いた。頷きはしたけれど、やはり納得はできていないのだろう。
 夜が明けきる前、千鶴が使っていた部屋のあたりを淋しそうに見つめている平助の姿を、ここ数日だけで何度か見かけたことがある。
「千鶴がいないと調子がでねぇか?」
 からかうようにわざとらしく問いかければ、平助の瞳が淋しそうに伏せられた。
「調子が出ないっていうか、まあ、……素直に淋しい、かな。――けど、それは左之さんだって同じだろ」
 平助に問われて、左之助の鼓動が一瞬、乱れる。
 けれど平静を装い、左之助はわざとらしい口調のまま
「俺が、か?」
 問い返すようにそう言うと、こくりと頷きが返された。
 真剣な平助の面持ちに、左之助の表情も真剣なそれになる。
「京を出たあたりからずっと、左之さんの付き合いが悪いって、新八っつぁんが愚痴っぽく言ってたけど、千鶴がいなくなってから、さらに悪くなったって……。言われてみれば、左之さん、最近ほとんど酒を飲んでねぇな。新八っつぁんに付き合って、外に出ることもねぇなって。なあ、左之さん、ちゃんと寝てねぇだろ」
 左之助の顔をじっと凝視する視線に、誤魔化しなど通用しないだろうと溜息をつきたい気持ちになりつつ、左之助は頷いた。
 千鶴の背中を押して以来、左之助はまともな睡眠など取れていない。
 けれどそれを悟られたくはなかったし、要らぬ世話を焼かれたくもなく、詮索もされたくなかったから、部屋の灯りは消していたし、極力、気配を殺してもいた。
 夜に活動する平助には、きっとすぐに看破されるだろうとは思っていたが、案の定だ。
 もしかしたら、完全に気配を断ったことが裏目に出たのかもしれないと、左之助は内心で苦笑した。
「まぁ、寝られねぇわな」
 ぐしゃぐしゃと髪を掻き毟り、視線を遠くに投げかけるものの、目に映るのは朝の光に照らされた自室の壁だ。
 旗本のためにと用意された場所であっても、ところどころ目立たない汚れはある。
 その汚れをなんなく見つめながら、ふと視線を動かした、部屋の隅。
 千鶴がいそうな気がしたのは、もちろん、錯覚だ。
 ずっと、あの日から。
 左之助が千鶴を避けるようになってから、千鶴は誰といても、どんなときでも、部屋の隅にいたように思う。
 誰の視界にも入らないよう、そっと。
 まるで自分の存在を消してしまうように。
 そうさせてしまったのは自分だと、無意識に握った手に力が入った。
 平助が深い溜息を零して、左之助ははっと平助を見遣る。
「そんなに後悔するくらいなら、なんで、千鶴を遠ざけちゃったんだよ。どうして出て行かせたりしたんだ、左之さん」
 責める口調でそう言った平助に、左之助は返す言葉が見つからない。
 苦りきった表情で、ただ、平助を見つめ返すばかりだ。
 平助はなにも言わないままの左之助に苛立ちながら、言葉を重ねた。
「千鶴はずっと、左之さんに助けを求めてた」
「ああ、知っている」
 左之助は静かな声音で頷く。
 千鶴の視線を、ずっと背中に、横顔に、感じていた。物言いたげな顔で左之助を見ていた。けれど、千鶴にかける言葉を見出せず、左之助は避けることしかできなかった。
 もしもいま千鶴がこの場にいたとしても、左之助はやっぱり千鶴を避けて、千鶴から逃げることしかできないだろう。
 守るといいながら、あの鬼の強さからどうやって千鶴を守れるのか、いまだその方法すら判らない自分が情けない。
「左之さんは、このままだと山南さんが暴走して、千鶴を無理矢理羅刹隊に入れるかもしれないし、実験体として扱うかもしれないって、そう俺に言ったけど……」
 平助が言い淀むように言葉を切り、それから表情を歪めて唇を噛み締めていた。
 まるで、無力な自分を嫌悪しているような表情だった。
「平助?」
 どうした、と、静かな声音で続きを促すと、
「なぁ、左之さん。山南さんはあの日――伏見奉行所で銃傷が治った千鶴の、……鬼としての回復力を知ってからずっと、千鶴に接触してた」
 続けられた言葉に、左之助は目を見張った。
「なに?」
「気づいていなかっただろ。ずっと、千鶴と距離をとってたもんな」
 責める響きを持つ言葉に、左之助は息を詰めた。
「いつか――人ならざる自分たち羅刹は、人に追われる身になる。鬼である千鶴も、同じように追われる。疎ましく思われる。だから、協力をするという名目で、羅刹隊に来ればいい。羅刹隊の人間は誰も千鶴を疎ましがることはないし、歓迎するって。千鶴の居場所は羅刹隊にこそあるって、毎晩、毎晩、それを聞かされてたんだ、千鶴は」
「平助、お前、それを黙って見過ごしていたのか!?」
 問いかけた声は、自然と低くなった。
 平助を責められる立場ではないのに、つい口調がきつくなったのは、山南が千鶴に接触していたことに気づいていなかった自分自身への苛立ちが、八つ当たりとして平助に向かったからだ。
 平助は左之助の八つ当たりを受け流し、首を振った。
「まさか! できる限りの邪魔はしたぜ。でも、隙をつかれるんだ。気がついたら、山南さん、千鶴の傍にいるんだもんな」
 平助の言葉を、左之助は呆然と聞いていた。
 千鶴は、どんな気持ちで山南の言葉を聞いていたのだろう。
 ずっと、それを。――山南から羅刹隊へ勧誘されていることを言いたかったのか。助けを求めていたのか。
 他の誰でもない、左之助に。
 ずっと少女を無視して、逃げて、傷つけていたというのに、他の誰かではなく左之助を頼ろうとしてくれていた。
 それなのに、左之助は張りぼての強さでしかない矜持を守ることに必死になって、千鶴の視線から逃げてばかりで。
 心細く、不安な思いをさせてしまっていたのか。
 きっと山南の勧誘は、執拗だったはずだ。それにずっとひとりで――耐えていたのか。
 山南の羅刹への執着ぶりは異常で、他者に不快な気持ちすら抱かせる。
 少なくとも左之助は、そう感じている。
 そして、不運なことに副長が不在の今、山南を押さえつける者がいない。
 平助の助けや、きっと斎藤あたりも救いの手を伸ばしていただろうとは思うが、それらは一時凌ぎでしかなかっただろう。
 山南への牽制にもなっていなかったはずだ。
 守ると豪語した左之助自身も、千鶴から背を向けていた。
 孤立無援の状態に近い千鶴ひとりでは、どうすることもできなかっただろう。
 おまけに山南の言葉で疑心暗鬼になっていたのだとしたら。
「そりゃ、出て行くって選択しかないわな」
 左之助は自嘲の笑みを零した。
 千鶴は羅刹への協力に頷かない。変若水の改良にも否定的だ。
 けれども山南の勧誘は執拗で、逃げることもできない。相談したくとも、相談できる相手がいない。
 ならば千鶴には、新選組を出て行くという選択肢しか、残されていなかった。
 そしてその選択肢しか残さなかったのは、左之助自身だ。
 どうして、と、左之助は拳を握り締める。
 どうして千鶴から目を逸らしてしまったのか、と、今さらながらに後悔が湧き上がってくる。
 物問いたげな少女から逃げずに、なにかあったのかと訊いてやればよかった。
 千鶴の背中を見送った日のことを、左之助は思い出す。
 言いたいことを言おうとして、けれど何も語らないまま、きゅっと閉じられた唇。
 なにもかもを諦めたような顔をしていた。
 嫌になったのか、誰かとなにかあったのか。そう矢継ぎ早に問いかけても、千鶴はただ首を横に振るばかりで、左之助には何も判らなかった。
 ただ一言、「すみません、見逃してください」と頭を下げて、無理矢理だと判る笑顔を精一杯浮かべて。
 千鶴へと伸ばした左之助の手に怯えるように、少女は体を引いて、夜の闇の中へ駆け出した。
 拒絶するように身を引かれた事実に呆然となった左之助の、その一瞬の隙をついて。
 追いかけることができず、闇の中に千鶴を見送り、出て行くと決めたのなら、その意思を尊重して行かせてやればいい、と、そう納得してしまった過去の自分を、左之助は内心で罵る。
 平助の話を聞いて後悔はさらに強くなり、やはり、どんな手段を用いてでも止めればよかった、と思う。
 嫌な想像と予感だけが、心の内に広がってゆくのを、左之助は感じていた。
「左之さん」
 物思いに沈んでいた左之助を、平助が呼ぶ。
 呼びかける平助の声は、左之助を気遣う音をしていた。
 呼ばれた左之助は、はっとする。
 ああ、そういえば、平助と話をしていたと思い出して、緩慢な動きで視線を移し、心配げな平助の顔に左之助は笑いかけ、平助に心配されてちゃ、十番組組長も焼きがまわったと言われるな、と、冗談めいて言うと、平助は呆れたように肩を竦めた。それから不意に真面目な顔つきに戻って、
「なぁ、左之さん。もう一度千鶴を探そう。俺、仲間を疑いたくないけど、山南さんが千鶴の居場所を知っている気がするんだ」
 千鶴の足取りを掴めないのは、彼女がすでに江戸を出たからでも、鬼が彼女を攫ったからでもなく、山南が彼女をどこかに隠しているのではないか。
 平助はそう言った。
「――そうかも知れねぇな」
 平助の言葉を聞いてしばらく考え込んでいた左之助は、頷く。
 鬼たちよりも、山南が関わっている可能性が一番高いように思えた。
 根拠はない。ただの勘だ。
 それでもその勘を信じるべきだと、左之助の心が叫んでいる。命じている。
 動け、と。
「今動かねぇと、さらに無様なだけ、だな」
 千鶴を見つけて、逃げずに向き合おう。拒まれても、信じてくれるまで何度でも手を伸ばして。いなくなるな、ここに――傍にいろ、と、今度こそちゃんと言ってやろう。
 傷つけて、泣かせてしまったことを許してくれなくても、左之助のことを信じてくれなくても、もう大丈夫だから、と。二度と同じ失敗はしないと誓って、それから……。
「平助、山南さんの行動には、今まで以上に気をつけてくれ」
「おう! 任せてくれよ!」
 ニッと不敵な笑みを浮かべ、平助が頷いた。それから、ふと悪戯を思いついたような顔になって、楽しそうに目を細める。
「左之さん」
「うん? なんだ?」
「千鶴が戻ってきたら、俺、今度は遠慮しないから」
「あ?」
「左之さんには負けないってことだよ。――きっと、山南さんも手段を選ばなくなると思うから、覚悟しておきなよ」
「――平助、お前、誰に向かって宣戦布告してるか、解ってるか?」
 不機嫌に言うと、平助は、
「千鶴を泣かせた左之さんに、宣戦布告」
 しれっとした顔でそう答えた。
「このやろう」
 拳骨の一発でもくれてやろうと身を乗り出した左之助から、平助は素早く距離をとって、立ち上がる。
「左之さん」
「なんだよ?」
「今度こそ、ちゃんと、千鶴を守ってやろうな」
 もう泣かさないように。
 傷つけてしまわないように。
 平助の言葉に込められた誓いのような思いに、左之助は力強く頷いた。
 もう、二度と、同じ過ちを繰り返さないようにしようと、心に決めて。

左之ルートから派生させてみました。
今さら感、いっぱい(苦笑)。
でも左之ルートで、もし本当に千鶴が出て行く選択があったら、
そりゃ、もう、左之は後悔しただろうと!!
むしろ後悔しろよっ!!と。
風間Ver.も、実は書きたい。