守りたい人


 欲張りすぎた罰、だろうか。
 暗い闇の中に意識を沈ませる直前、千鶴は、ふとそんなことを考えた。

 身を切るような空気の冷たさが、幾分和らいだように感じられるのは、一日、一日、春が近づいてきているからだろうか。
 縁側に腰掛け、千鶴はぼんやりと空を見上げる。
 見上げた先の、淡い空の色に、ふと泣き出してしまいそうな気持ちになった。
 今日でやっと、十日が過ぎたばかり。
 たったそれだけの時間しか過ぎていないのに、もう心は悲鳴を上げている。
 傍にいたい。一緒にいたい。
 千鶴にはもうそんな資格などないのに、求めてしまう。
 嗚呼、どうして。
 どうして傍にいられないのだろう。
「原田さん……」
 静かに唇に乗せた音が紡いだ名前。
 名前を呼んだだけで、やっぱり泣き出しそうだ、と、千鶴は思う。思うけれど、泣けない。涙は出ない。泣くことすら、もう、諦めた。
 泣いたってどうにもならないのだ、もう。
 涙の代わりに吐き出した白い息が溶けて消える様を、千鶴が黙って見つめていると、背後に人の立つ気配がした。
 その気配に、千鶴は一瞬身震いをする。
 畏怖。恐怖。嫌悪。
 それらの醜い感情が瞬時に広がって、千鶴は唇を噛み締めた。
 他人に対して負の感情を抱くことは、自分を醜くさせるのだとはじめて知ったのは、今千鶴の背後に立った人に係わるようになってからだ。
「――風邪をひいてしまいますよ」
 柔らかく千鶴を労わる声とともに、肩が温かくなる。
 ふと視線をおろせば、体を覆うように羽織が肩に掛けられていた。
「……あり、がとう……、ございます」
 すっぽりと体を覆う羽織を見つめたままで、千鶴は呟くように言った。
 温かく体を包む羽織。
 不意打ちで向けられる山南の優しさに、千鶴はいつも戸惑う。
 この人がなにも――変若水の研究のことも、羅刹のことも言わないでいてくれていたら。そっとしておいてくれていたら、千鶴は新選組を出なくても良かったのに。
 そうしたら、まだ。
(原田さんの傍にいられたかもしれないのに)
 そう思う一方で、山南がみせる優しさに頑なな態度を取り続けていられなくなって、そういえばこの人は本来、案外優しい人だったんだと思い出し、思い出してしまえば、嫌悪も畏怖も恐怖も、醜い感情の何もかもを千鶴は持ち続けていられなくて、ときおり山南に揶揄交じりに指摘されるように、警戒心を失ってしまう。
 山南には警戒をしなくてはいけないと、いつも、いつも、自分自身に言い聞かせているのに、どうして警戒心を失くしてしまうのだろう。
「また、思いだしていたんですか?」
 千鶴の隣に腰を下ろした山南が、そう問いかけてきた。
 千鶴は視界の端で山南を窺うように見つめ、すぐに視線を空へと向けた。
 それから頷く。
「思いだしていました。……まだそんなに日が過ぎたわけでもないのに、思いださない日はありません。あの、山南さん、皆さんは元気なんでしょうか?」
「気になりますか?」
「気になります。……私、お礼も挨拶もしないまま、逃げるように出てきてしまったから」
 千鶴がいると、鬼の襲撃がある。
 今、新選組は大変なときで、鬼と係わっている場合じゃない。余計な戦いはさせられない。これ以上迷惑もかけられない。だから千鶴は新選組を出るのだと、千鶴が出てくるときに出会ってしまった原田左之助にはそう言ったけれど、それはただの言い訳でしかなかった。
 伏見奉行所で千鶴の傷が治ってゆく様を見たときの、原田のあの表情が。それ以降の、千鶴を避ける原田の態度が、千鶴は人と違い鬼なのだと突きつけられているように感じられて。
 違う、原田は組長として考えることがたくさんあるからと、どんなに否定しても、心に染みを作るように広がった疑念は、千鶴の中から消えなかった。
 それどころか、夜の闇に紛れて接触してくる山南の、羅刹も鬼もいつか疎ましがられ、見捨てられるという言葉が、現実味を帯びて千鶴の心を蝕み、不安が広がり、黒い染みは広がりを見せた。
 耐えられないと思った。
 どれだけ伸ばしても、救いを求める腕は空を掻くばかりで、温かな体温に触れることはなく、吐き出したい言葉は、音になる前に飲み込まなくてはいけなくて。
 もし、千鶴の伸ばした手に、声に気づいてもらえたとしても、原田たちから拒絶の言葉を聞きたくなくて。決定的なことを突きつけられたくなくて、塞がらないままの傷口を広げられたくもなくて、不安から逃れるために、千鶴は新選組から逃げ出した。
 逃げ出せたと、思った。
 たったひとりで江戸を出よう。父を探しに――いつか京へ旅をしたときのように。
 そうしようと思いながら、釜屋からもっと離れようとしたときだった。
 山南に見咎められたのは。
 あの瞬間浮かんだ言葉は、ああ、もう逃げられない、だった。
「――雪村君」
「山南さんは」
 互いに声をかけた瞬間がぴたりと一致して、無言で譲り合うように同時に口を噤んだために、奇妙な沈黙が生まれた。
 千鶴は空に目を向けたままでいた。
 山南は、どうしているのだろう。
 視線は感じられない。だから、隣にいる人は千鶴を見てはいないだろう。
 千鶴と同じように空を見ているのか、庭に目を向けているのか。
 俯いてはいないだろうと思いながら、千鶴は視線を動かしてみた。
 そっと動かした視線の先で、山南は少し眩しそうに目を細めて、空を見ていた。
 無防備な微笑が、山南の口元に浮かんでいる。
 それは随分久しぶりに見た、山南の穏やかな表情だった。
 ああ、これでまた、山南を恨む気持ちが消えてしまう。
 千鶴はそう思いながら、そっと視線を外した。
 庭の木に目をやりながらどうしようかと思案する。
 呼びかけたくせに、山南は黙ったままだ。千鶴も山南に声をかけたけれど、どう言葉を続ければ良いのか、分からなくなってしまった。
 聞きたいことはたくさんある。
 言いたいことだって、たくさんあるのだ。
 なのに、なにひとつとして言葉にできない。
 苦痛に似た居た堪れなさを感じて、千鶴がもう部屋に戻ろうと動きかけたときだった。
「原田君は」
「え?」
「原田君は、君がいなくなってからずいぶんと気を落としているようです」
 淡々と伝えられた内容に、千鶴は細く震える息を吐き出した。
「そう、ですか」
 小さな声でそう答え、千鶴は目を閉じる。
 それ以上の言葉は出てこなかった。
 名前を聞くだけで心が軋んで、胸が痛くなる。
 会いたいと思った。
 もう会うことはない。会えないと解っているからこそ、余計に。
 切欠は何であれ、千鶴が自分で決めて新選組を出た。
 もう傍にいられない。係わってはいけないから、関係を断ち切るしかなかった。
 みんなが――原田が傷ついていくのを見たくなかったし、見ていられなかった。余計な負担をかけたくなかった。
 なにより千鶴自身が、新選組に居続けることで人と鬼の違いを思い知り、自分が異質な存在であるという事実に、傷つきたくなかった。その事実を突きつけられたくなかった。
 いつか新選組のみんなに。永倉や左之助たちに見捨てられる日が来ることが、怖かった。
 その結果として、今、千鶴はここに――父と過ごした家にいる。
 ときおり訪れる山南と一緒に。
 下ろした千鶴の髪に山南の指が触れた。
 頬にかかる髪をそっと払いのける指先は、優しげな山南の面差しを裏切るように無骨だ。
 ずっと剣を握ってきた山南の指は、けれど、繊細な仕草でいつも千鶴に触れる。
 大切なものを扱うような丁寧さが、息苦しくて、悲しくなる。
 どうしてそんな風に千鶴を扱い、触れるのだろう。
「山南さんは……」
 近づく気配に、千鶴は無意識に体を強張らせながら、口を開いた。
 千鶴が声をかけた瞬間、山南が小さく笑う気配がした。
 僅かな抵抗は、見透かされている。
 千鶴のかけた声など意に介さないというように、山南の熱い吐息が千鶴の耳元を掠めていく。
 無駄な抵抗と判っていても、それでも千鶴は言葉を続けた。
「どうして、私の体を調べないんですか? なぜ変若水を使わないんですか? 研究をするために私を手に入れたんじゃないんですか?」
「調べているでしょう?」
 矢継ぎ早の質問に、可笑しそうに笑った山南の吐息が千鶴の首筋に触れると同時、ぬるりとした感触が弱い場所を辿る。
「……っ、ぁ」
 殺しきれない微かな声が千鶴の唇から零れた。
 それで十分満足だというように、山南は千鶴から離れる。
 そして、千鶴の顔を覗き込み、言った。
「君がどんな快楽に弱いか。――ねぇ、雪村君、私は君の鬼の力にも興味はありますが、君自身にも興味があるんですよ」
 山南の声は、まるで千鶴を追い詰めるかのように優しかった。
 山南に教え込まれた快楽。これから起こることへの恐怖感と、嫌悪感。それを嘲笑うように、僅かに芽生えだした快楽を得ることへの期待感。それらすべてを凌駕する左之助への思慕。その感情すべてがない交ぜになり、千鶴の瞳を潤ませる。
 じわりと滲み出し、潤んだ瞳の先で、ふと山南が目を細めた。
 どこか悲しそうに――否、哀れむように。
 可哀相に。
 山南の唇が、音を発することなく、そう動いた。
 千鶴は唇を噛み締める。
 そんな哀れみを、山南に向けられたくない。
 今千鶴が意に反した行為を受け入れざるを得ないのも、この状況に身を置いているのも、元を糺せば山南の鬼と羅刹への異常な執着が引き金になった。
 決断をしたのは千鶴だが、そう決断せざるを得なかった切欠を作ったのは、山南だ。
 山南を睨みつけて、手酷く拒絶して、なにか罵る言葉をかけようとして、――そうはできない自分に気づく。
 異質な者同士。
 同胞意識に似た感情を、いつの間にか、千鶴は山南に抱いてしまっている。
 千鶴の心に闇を落とし拡げた山南の存在は、その闇と同じように、深く千鶴の心に浸透していたのかもしれない。
 ああ、だから、逃げられないとあの時思ったのだろうか。
 千鶴は闇に捕まったのだ。
 もう光で埋め尽くされた優しい場所には、行けないだろう。
(原田さん……)
 千鶴の肌に触れる山南の、ひんやりとした指の感触から意識を切り離すように、千鶴は原田のことを思う。
 千鶴が新選組に身を置くことが決まってからずっと、どんなときでも千鶴を気遣い、気にかけてくれていた、優しい人のことを。
 最初は兄のような人だと思い、慕っていた。
 それがだんだんと変化したのはいつだったのか、千鶴には判らない。
 家族や仲間に向ける感情とはまったく違う感情を、いつのまにか原田に抱くようになっていた。
 ずっと傍にいたいと思っていた。叶うなら、ずっと原田の隣にいたいと、そんな大それたことを願った。
(鬼なのに)
 人間じゃない。そんなことは充分判っていたけれど。
 それでも想う気持ちは止められなくて。
(原田さん、原田さん、原田さんっ!)
 会いたい。
 傍にいたい。
 傍にいて欲しい。
 大丈夫だと言って欲しい。
 強く、強く、思う。願う。こんなときは特に。
(どうせ触れられるなら、原田さんが良かったなんて、欲張りかな?)
 山南に与えられる快楽を、どこか乾いた気持ちで追いかけながら、千鶴はそう思う。
(欲張りなのかも……)
 だから罰が当たって、傍にいられなくなったのだ。きっと。
 千鶴の心を少しずつ乾かしていく山南の行為を、遠い出来事のように受け止めながら、千鶴は目を閉じた。
 瞼を閉じれば、闇が広がった。
(そういえば……)
 山南に初めて抱かれたとき、すべてを諦めて、果てのない闇に意識を沈ませたことを、千鶴は思い出した。
 ただ、傍にいたかった。
 傍にいられるだけで良かった。
(原田さん……)
 やはり、欲張りすぎた罰、なのかもしれない。
 千鶴のことを研究材料ぐらいにしか思っていない人に、好きでもない人に抱かれるなんて。
(原田さん)
 きっと、もう、名前も呼べなくなる。
 想うことすら許されなくなる。
 思い出すことも、もしかしたら許されないのかもしれない。
 大きく拡がってゆく闇。
 千鶴を飲み込んで絡め捕った闇に身を委ね、意識を沈み込ませながら、これが最後だからと、千鶴はたったひとりの名を呼んだ。


千鶴→左之。
千鶴家出(?)その後。山南さんと。
でもすごく気の毒な目に遭わせてしまってます。
左之助後悔話なんですが、ここまでして良かったのかな……??