守りたい人
少しずつ消えた表情。 淡く浮かんでいた感情さえ、今はもうほとんど失われ、紡がれる音も少なくなった。 落ちてきたと思った。 従順に、山南に身を任せていたから。 なにもかもを受け入れたように、大人しく、腕の中に納まっていたから。 山南の手の中に落ちてきたと思っていたのに。 「……堕ちることよりも、壊れることを選びましたか」 ぼんやりと夜空を見上げる千鶴の姿を見つめながら、淡々と言葉を紡いだつもりが、自分でも思っていた以上に失敗してしまっていたことに気づき、山南は小さな舌打ちを零した。 苛立ちを隠しきれない。 落胆を、抑えきれない。 最初からそうだったけれど、どうして雪村千鶴という存在は、山南の意のままにならないのだろう。 少しずつ、けれど確実に、山南の予定を狂わせていく。 山南は足音を殺したまま廊下を進み、千鶴の背後に近寄った。 「雪村君」 密やかに。まるで囁くように声をかけると、緩慢な動きで千鶴が振り返り、山南を見上げた。 どこか虚ろな眼差しが、ぼんやりと山南を見つめる。 生き生きとした輝きを失った瞳を見つめ返しながら、山南は、 「雪村君」 と、もう一度千鶴を呼んだ。 ことりと千鶴の首が傾けられる。 それから瞬きを二回。 これは問いかけの仕草だ。 話すことすら億劫だというように、千鶴はいまではもう、ほとんど唇を動かさない。 最初は山南に対する抵抗と抗議なのかと思ったが、そういうわけでもなさそうだった。 なにもかもがもう面倒だと、思考すら放棄し、諦めた結果のようだった。 幽かな反応しか返さない千鶴に溜息をつきたい気持ちを堪え、山南はそっと手を差し出した。 千鶴の細い首がさらに傾げられる。 物問いたげに山南を見返す瞳は、けれど、虚ろで。 不意に、山南は悲しいという気持ちに襲われた。 その感情が沸き起こる根源は、解らない。――否、解っているけれど、認めたくないのだ。 欠片ほどしか残っていない矜持が、そう叫んでいる。 認めてしまえば、すべてが瓦解する。 なにもかもを認めて、そして、手放せないのに手放すという選択しか、残されなくなる。 それを恐れている。 「新選組元総長ともあろう私が……」 監視対象。 鬼。 羅刹よりも優れた回復力。力、を有するもの。 実験体。研究対象。 狂わせるもの。 惑わせるもの。 ――心を乱す、女性。 意のままにならぬ相手。 手に入れられない。果敢ない、幻。 いつか失う、……ひと。 思いつく限りの千鶴に対する自分の印象を胸中で並べて、山南は失笑する。 千鶴が屯所を出たときに、落ちてきたと思った。 掴まえたと思った。 このまま彼女も、山南と同じところまで――。堕ちるところまで堕ちて、そして山南と共に生きて行くのだと信じていた。 山南は人とは違う生命を選び取った瞬間から、常に、それまで生きていた世界から一歩離れた世界に在った。 そこは自ら選んだ世界のはずだったけれど、心の奥底に、しこりのように残っていた寂寥感。孤独感。 もうみなとは違うのだという現実。 そこに、鬼という存在が――雪村千鶴という少女の鬼としての存在が介入して、山南は自分勝手に希望を抱いた。 期待をした。 鬼と羅刹。 人とは異なる、似て非なる存在。 同胞とは呼べない、けれど、唯一共存できる存在として、共に生きて行ける存在だと、山南はそう思っていたけれど。 「君は壊れることを望んだのですね」 落ちることよりも。 それは、忘れないためだろうか。 それとも、忘れるために、だろうか。 そこまで深く、強く。 「新選組は……」 山南は静かに音を紡いだ。 賭けるような気持ちで、言う。 「原田君は、もうすぐ、江戸を発ちますよ。向かう先は甲府です」 山南がそう告げても、千鶴に反応はない。 原田の名前を出せば、千鶴からなにがしかの反応を得られると、反応を返すはずだと、山南はそう思っていた。 けれど反応は返らず、一瞬の揺らぎも見えなかった虚ろな瞳。 そこまでして心を閉ざしたのか、と、溜息が零れそうだ。 強く想うがゆえに、これまでのすべてを。これからのすべてを捨てるのか。 そうまでして、すべてを拒絶するのか、と、山南は自嘲めいた笑みを口元に浮かべた。 「もう部屋に戻りなさい。そんな薄着のままでは、風邪をひいてしまいますよ」 寝間着姿のまま、その上になにも羽織っていないことを、今夜もまた注意する。 そして差し出したまま、取られることのない手をさらに伸ばし、山南は膝の上に置かれている千鶴の手を取った。 夜気に冷え切った千鶴の手を、山南は強く握る。 そんな山南の行動に、不思議そうに千鶴が瞬く。それから、そっと視線を下ろして、山南が握った手を見つめた。 山南が立ち上がるように、と、促して千鶴の手を引くと、千鶴もそれを追いかけるように視線を動かした。 「……山南……さん?」 夜の静寂に紛れるようなささやかな声音で。 聞き逃してしまいそうな密やかさで、千鶴がまるで確かめるように山南を呼んだ。 山南は密やかな声音を聞き逃すことなく受け止め、久しぶりに聞いた声にわずかに動揺しながらも、 「どうかしましたか?」 と、平淡な口調で問い返した。 「……星、が……きれいなんです」 「星、ですか? ……ああ、今日は朔の夜ですから、月明かりに邪魔されることなく星を見ることができますね」 千鶴の密やかな声に夜空を見上げた山南は、目を細めた。 そういえば随分と長い間、こんなふうにのんびりとした時間を持っていなかった気がする。 夜に生きることを選んでから、ずっと、夜は狩りのため時間だった。 変若水を飲み、羅刹化した他の面々はどうなのか知らないが、少なくとも山南にはそうだった。 以前のように夜空を見上げることなど。夜空を見上げて月や星を見ることなど、なくなっていた。 変若水というものを知った瞬間から、どれほどのものを失ってしまったのだろう、と、山南はそんなことを考えた。 今の今まで、そんなことを考えたこともなかったのに。 変若水を口にしたことを、後悔したことだってなかったというのに。 千鶴は山南に苦い思いを抱かせる。 山南の心を揺らす天才だ。 「……もう少しだけ、星を見ていていいですか?」 ぽつりと零された言葉に、山南は軽く目を見張った。 千鶴が自分の要求を口にしたのは、たぶん、山南の知る限りではこれが初めてではないだろうか。 とっさに反応できず黙り込んでいると、千鶴の首がことりと傾げられる。 「駄目、でしょうか?」 虚ろな瞳はそのままに訊ねられたそれに、山南は緩く首を振った。 「いえ、構いません。――ですが、そのままでは風邪をひいてしまう。なにか羽織る物を持ってきましょう」 言いながら千鶴の手を離し、山南は千鶴の部屋から羽織を持ってこようと踵を返しかけたが、山南の羽織の裾が引っ張られ、引き止められる。 「雪村君?」 訝しげに振り返ると、視線の先で千鶴がゆっくりと首を横に振った。 今日は随分と反応を返す日だ、と、千鶴を見つめながら山南は思う。 「しかし、風邪を……」 「平気です」 山南の言葉を遮るように、千鶴が言った。 強くない否定の言葉は、逆に、山南の言葉を奪ってしまう。 引き止められるまま動きを止め、言葉すら封じられ、山南は途方にくれて立ち竦んだ。 自分が次にどう動けばいいのか、山南には判らなかった。 ただ静かに、山南は千鶴を見つめた。 千鶴は虚ろな瞳のまま山南を見つめ、それから、また山南の羽織の裾を引いた。 千鶴の行動に戸惑いを隠せないまま、山南は「なんですか?」と、問いかける声が冷たくなりすぎないよう配慮しつつ、声をかけた。 「……少し、だけ」 それだけ言って、千鶴は急に黙り込んだ。 引かれた裾と、千鶴の一言。 判断材料は、それだけ。 間違っていたとしても、これは自分のせいではないと内心で溜息を零しつつ、山南は千鶴の隣に腰掛けた。 夜気に冷えた縁側の廊下の冷たさに、わずかに眉根を寄せる。 そういえば、隣に座る少女も廊下に直接腰掛けている。 座布団も敷いていないのかと腰を浮かしかけたところで、また、握られたままだった裾を引かれた。 なんの言葉もなく、たったひとつの動作だけですべてを伝えようとする少女の横暴さに、山南は苛立たしげな溜息をついた。 怯えたように肩が震えた気がしたが、気づかない振りを決め込む。 「ここにいればいいのでしょう?」 言いながら、山南は隣に座っている少女の体を抱き寄せた。 「座布団も羽織も取りに行かせてもらえない、となれば、暖を取るにはこうするしかないでしょう。一番、手っ取り早い」 抗議の声を上げさせないために先手を打ってそう言うと、山南の腕の中で千鶴がこくりと頷いた。 抵抗もなく、少女はすんなりと山南の腕の中に納まっている。 こんな風に。 いつの頃からか、千鶴はこんなふうに大人しく、当たり前のように山南の腕の中で大人しくなった。 だからだ。 だから落ちてきたのだと、山南は錯覚した。 錯覚してしまった。 千鶴はただ少しずつ心を閉ざし、音を封じ、心を壊し始めただけだったのに。 「――――」 微かな音で、千鶴がなにごとかを呟いたような気がして、山南は抱きしめている少女に視線を落とした。 しかし、少女はただ大人しく星空を見上げるばかりで、それ以上の反応を返さない。 ただぼんやりと星を映す瞳から視線を逸らして、山南も星空を見上げた。 久しぶりに漆黒の夜に光る星を見たせいか、腕の中の温もりのせいか、ただ今夜はそうだったというだけなのか。 血を求める衝動も、乾きも、山南は感じることはなかった。 |
山南さん視点。
千鶴ちゃんがえらいことに。なっております
すみません。シリアス大好きなんですよー。