ガーネット〜いつか

「いやぁ、原田さん、おひさしゅう」
 久々に島原へ足を向けた原田に、馴染みの芸妓が少し可笑しそうに笑いながら声をかけてきた。
 洗練された無駄のない所作で、芸妓は当たり前の顔をして原田の隣にすっと座った。
「よう。そんなに久しぶりだったか?」
 苦笑を浮かべながら、原田は差し出された徳利に猪口を近づけ、なみなみと注がれた酒を煽るように一気に喉に流し込んだ。
 カッと喉が焼け付くような熱さの後に、ほんのりと甘さを内包した辛さが、口腔内に広がった。
 殺伐とした時勢とは裏腹に、相変わらずいい酒を出す。
 そう思いながら猪口へと注がれた酒を口に含んだ。
 今度は味わうように、口の中で酒を転がして飲むと、品のいい味が口の中に広がる。
 久々に美味い酒を飲んだ。そう思ったところで、芸妓が言うように、確かに島原に足を向けたのは久しぶりだと、原田は思い出した。
「薄情やわぁ。ずいぶんこちらには足を向けてもらえてまへんえ。かれこれ三月になるやろか。永倉さんや藤堂さんは、部下の人を連れてよう来てくれたはるのに、最近は原田さんのお声掛りがのうて、寂しかったわぁ」
 寂しかったというわりには、からからとした笑いを含ませた芸妓の言葉に、原田は軽く肩を竦めた。
「そりゃ悪かったな。最近いろいろと物騒なことで忙しくてよ」
「ああ。京の町は、日に日に血生臭うなっていきますなぁ」
 憂いを含んだ言葉に、原田は「そうだな」と相槌を打つ。
 ここ最近、昼間の巡察でも、薩長浪士との小競り合いが増えてきた。
 死人が出るほどではないが、刃を交える衝突が以前より増して、喧嘩慣れしていない隊士や、実戦慣れしていない若い新参の隊士の中には怪我をするものも多く、それが原因で、酷いときには新参隊士の脱走寸前騒ぎまで起こる始末だ。
 日々のごたごたを思い出して、思わず小さな舌打ちを打つと、芸妓がはっとしたように酒を勧めてきた。
「いややわぁ、うち、しょうもないこと言うてしもうた。せっかく嫌なこと忘れるために来てくれたはるのに、申し訳ないわぁ」
 堪忍してね、と、申し訳なさそうに笑みを浮かべた芸妓に、原田は「気にしてねぇよ」と首を振る。
 勧められるままに杯を重ねていると、ふと、思い出したように芸妓が口を開いた。
「そう言えば、原田さん、最近ご執心の人がいてはるて聞いたんですけど」
「あ?」
「なんや訳ありの若い隊士さん……隊士さんとちごて、どなたかのお子さんやったやろうか。とにかくその子が大事で大事で仕方ないって態度でいてはるて、沖田さんが言うてはったって聞きましたえ。みんなで、いや、原田さん、宗旨替えしはったんやろか、その人のこと好いたはるんやろかって噂してたんです」
「宗旨替え……俺が?」
 芸妓の言葉に、酒を飲む手を止めて、原田はきょとんと芸妓を見返した。
 原田の問いかけに、芸妓はにこりと笑みを浮かべながら頷く。
「原田さん、なかなか靡いてくれはらへんから、もしかして、最初からそうやったんやろか、って言い出す娘もなかにはいるんやけど」
 うち、聞きたいわぁ、と、興味津々に訊ねてくる芸妓をじっと見返し、原田は重々しく息をついた。
 腹の底から吐き出した吐息に、芸妓がくすりと口元を笑わせる。
 完全に面白がっているその様子に、本気で言っているわけではないと判っていても、原田は面白くない。
 確かに組の中には衆道もいるが、原田は違う。
 他人のことに口を出すつもりはないが、原田自身は男より女のほうが断然いい。――最終的に選ぶのは、もちろん、女より酒だが。
 まったく、総司のやつ、よりにもよってなんてこと吹聴しているんだ、と、腹立たしさを隠すことなく離れた場所で酒を飲んでいる同僚を睨むと、すぐに視線に気づいた沖田が、にこりと笑顔を返してきた。
 無邪気を装った、実に邪気に満ち満ちた笑顔に、原田の顔が歪んだ。
 ここでどんな話がされているのか、お見通しらしい。
「原田さん」
 原田の視線を戻すように呼ばれて、原田は芸妓に目を向けた。
 沖田と一緒に面白がっている様子に、もはや溜息しか出ない。けれどこれは話をするまで引き下がらないだろうと腹を括り、原田は猪口を膳の上に戻した。
 芸妓がわずかに身を乗り出す。
 好奇心を隠すつもりもないその仕草に苦笑を零して、原田は口を開く。
「半年ほど前になるか。土方さんが決めて、組で預かった子供がいてな。まあ、なんていうか、こんな兄弟がいたらいいな、って気持ちで構っちゃいるが……、なんだ、俺がそいつに気があるって、総司のやつ、変な噂を吹聴してんのかよ」
 気があるっていうなら、そりゃ総司じゃねぇのか、と、口にしかけて止める。
 近藤と新選組。剣。本当の家族以外はそれらのことしか興味も関心もなかったくせに、千鶴にはやたらと絡む沖田の姿を、何度も見かけた。
 珍しいな。千鶴のことをよほど気に入っているんだな、と、永倉や藤堂と話しをしたくらいだ。
「……そうやねぇ、沖田さんは面白がったはるというか、んー、なんやろ、お気に入りの玩具を取られんように警戒したはる、ってうちは思たけど。原田さんには敵わへんって思てはるんやろうね」
 芸妓の言葉に、原田は目を丸くした。
「総司が俺を牽制するために?」
「うちはそう思ただけ。訳ありの子供さん、女子さんやの?」
 そっと声を潜めて問いかけた芸妓の言葉に、原田は否定も忘れて驚いた顔をしてしまった。
 にこりと芸妓の口元が満足そうに緩んだ。
「当たり? もしかして、沖田さんの隣で居心地悪そうにしてはる、男装したお人がそう?」
 芸妓が楽しそうに目を輝かせてそっと指差したほうへと、原田は目を向けた。
 総司の隣で肩を窄め、小さくなっている千鶴の姿が目に入る。
 渋い顔をしている土方を無視し、沖田は無理矢理千鶴も島原へと連れ出した。
 沖田曰く、
「幹部が一人もいない屯所に千鶴ちゃんをひとりで置いといて、平隊士になにかされたら困るのは、土方さんでしょう」
 そのもっともらしい言葉に、しかし、反論はなかった。
 ただ眉間の皺をいつもよりもさらに深くして、
「だったらてめぇで面倒を見ろ」
 と、沖田に「土方さんの小姓でしょう」と押し付けられる前に、土方は千鶴を沖田に押し付け、渋面のまま歩き出した。
 土方の言葉に「あ〜あ。押し付けられちゃった」と肩を竦めた沖田は、珍しく土方の言葉を守って、ずっと千鶴を傍に置いて飲んでいる。
 その反対側の馴染みの芸妓の存在、きっと沖田との会話に、千鶴は今にも泣き出しそうな顔をしているようだが。
 千鶴の性別をあっさり看破した芸妓に、隠したところで意味はないと原田は頷いた。
「女だってことは、内緒だけどな」
「男の人ばっかりの、それも泣く子も黙る新選組の中でなんて、大変やろうねぇ」
 しみじみと言った芸妓の言葉に、原田は苦く笑った。
 反論する余地がない。
「大変な思いして、挙句に沖田さんに気に入られてはる子、原田さんは放っておけへんやろうねぇ」
「あー、ああ、ま、そうだな」
 芸妓の指摘に原田は頷き、膳に置いた猪口に手を伸ばしたところで、芸妓がふと真剣な口調で言った。
「でも、特別あの子のこと好いてはらへんのやったら、これ以上変に優しくしはらへんほうがいいと思いますえ」
「どうした、急に?」
 珍しく踏み込む芸妓の言葉に、原田は眉根を寄せた。
「いややわ、そない怖い顔、せんといて」
 おどけるように原田の表情の厳しさを指摘して、芸妓は徳利を手にする。
「お酒、注ぎましょか」
「あ、……ああ、頼む」
 ぎこちなく頷いて原田が手に取った猪口に酒を注ぎながら、女は言った。
「原田さんがあの娘さんに構うから、沖田さんはそれを面白く思わはらへん。だからあの娘さんへの構い方が、もっと捻くれはる。すると、あの娘さんはさらに沖田さんに対して苦手意識を育てはるやろ。悪循環とちゃいます? あの娘さんのこと可愛いのは判りますけど、特別やないんやったら、沖田さんの邪魔するようなこと、止めはったほうがええと思いますけど。あの娘さんにも酷なことしたはるんちゃいますの」
「え?」
「さっきから、泣きそうな顔をしてこっち――原田さんの様子を窺ったはりますえ。相変わらず女泣かせな人やねぇ、原田さんは。それとも原田さんの隣に座ってお酌してるうちが、あないな顔、させてるんやろうか」
 にっこりと笑った芸妓は、空になった徳利を脇に避けた。
 新しい徳利を手に取ると、「どうぞ」とさらに酒を勧めてくる。
 注がれるままに酒を飲むが、美味いと感じたはずの酒の味など、原田にはどうに判らなくなっていた。
 芸妓の言葉が、ぐるぐると頭の中を回る。
 原田の横で酌をしている女は、いったい、なにを言い出した。なにを言っているのだろう。
 千鶴を好いていないなら、構うな?
 総司の邪魔をするな?
 千鶴にも、酷だって?
 なんだ、それは。
 沖田が千鶴に向けている感情は、知っている。
 それは面白い玩具以上のもので、きっと、沖田自身はまだ認めていないだろうけれど、本気の想いだ。
 でもそれは沖田のもので――沖田と千鶴の間での問題で、原田とはかかわりがない……はずだ。
 千鶴に酷だっていうのも、原田には良く解らない。
 優しくすることが。当たり前に千鶴と接することが、まるで千鶴に勘違いをさせていると言っているようではないか。
 原田はただ、妹がいたらこんな感じだろうと、沖田に揶揄かわれて困っている千鶴を助けているだけだ。
 父親探しが思うようにできない千鶴の気を、紛らわせてやりたいだけだ。
 思うとおりに動けず、不自由しているはずなのに、文句ひとつ零さずに健気に耐えているあの娘を、笑わせてやりたいと思っているだけだ。
 他意はない。
 千鶴に構うそこに、特別なものなど介入していない。
 どうして好いた惚れたの話になるんだ。
 特別とか、特別じゃないとか、そんなことじゃなく。ただ、原田は千鶴の笑った顔を見ていたいと思う。
 笑っていればいいと思う。
 初めて千鶴が笑った顔を見たときに、年頃の娘らしい、愛嬌のある笑顔だと思った。
 笑顔の似合う娘だと思ったのだ。
 だから、つい、沈んだ顔をしていないかと。溜息をついていないかと。沖田に揶揄かわれて困っていないかと、その姿を探して、手を差し伸べて――。
 空になった猪口を芸妓に差し出そうとした手が、ぎくりと止まった。
 いま、なにを考えていただろう、自分は。
 千鶴の姿を探してしまう理由は、本当に、それだけか?
 千鶴が笑っていればいいのにと思うのは、それは、妹のように思っているからだけ、だろうか。
 千鶴の視界に入っていたいと思っているんじゃないのかと、どこか冷静な部分が問いかける。
 ああ、このまま酒が過ぎれば、悪酔いをしてしまうかもしれない。
 気がつかなくていいことに、気づいてしまうのかもしれない。
 もし気づいてしまったら、きっと、掴まえずにはいられないだろう。
 良い兄貴分の風を装いながら、ずっと傍にいて。誰よりも傍にいて。
 総司から攫ってしまうことになるかもしれない、と、ふとそう思ったときだった。
「あら、こっちも空になってしもうたわ。――どないしはります?」
 空になった徳利を小さく揺らして、芸妓が追加の有無を訊ねてきた。
 原田はぎこちなく芸妓の顔を見やり、首を振る。
「いや、今夜は、もう……」
「そうどすなぁ。今夜はもう、飲まはらへんほうがええかもしれまへんね。もうお帰りにならはったほうが、うちらにもお酒にも親切や思います」
「――そうだな」
 痛烈な皮肉に、人を追い込んだのはどこの誰だろうかと思ったが、苦笑して頷くに留めた。
 杯を重ねすぎた気はしないが、それでも芸妓に乗せられたのは原田だ。
 笑い飛ばせばいいところで、笑い飛ばさなかった。
 それどころか、思考を沈めてしまった。
 自分の招いた失態だ、と、原田は自嘲するしかない。
「土方さんに断って、今日は帰るとするか」
 言いながら立ち上がると、その手を芸妓が掴んで引き止めた。
 急に引っ張られて、ぐらりと体が傾ぐ。
 倒れかけるところを、なんとか踏みとどまり、急に手を引いた芸妓を軽く睨んだ。
「おいおい、危ないだろうが」
「原田さん」
 諌める原田の声を無視して、芸妓が原田を呼んだ。
 その少し硬い声音に眉根を寄せつつ、なんだ、と問いかけると、芸妓はそっと眼差しを動かしつつ、小さな声で言った。
「うちがあの娘さん助けますから」
「は?」
「一緒に連れて帰ってあげはったほうがいいんちゃいますか? 今日は沖田さんもお酒が進みすぎたはるんやろか、えらい絡んで、今にも泣きそうな顔したはりますよ」
 手がつけられへんみたい、と、芸妓の零した一言に、原田は振り返った。
 沖田が酒を飲みながら、千鶴に何かを言っている。
 そのたびに千鶴の体が緊張に強張っていく。
「おい、総司、やめろ」
 土方が声をかけるが、沖田は聞こえない振りを決め込んでいる。
 もともと沖田は、土方のいうことに耳を貸さないところがある。
 それは子供じみた反発心からくるもので、古い知人である原田たち幹部連中も土方自身も承知しているので、またか、と溜息をつくことが多いのだが。
「源さんでも止められないとなりゃ、確かに問題だわな」
 原田は酔いも醒めたとばかりに溜息を零した。
 穏やかな年長者が声をかけても知らない振りとは、よっぽど気に入らないことがあったのか。
 沖田の冗談は笑えない。笑えないどころか、本当に冗談なのか、本気なのか、判断がつかない。
 千鶴の怯えた顔を見る限り、また「斬る」だの「殺さなくちゃ」だのと、物騒なことを言われているのだろう。
 沖田の隣に座っている芸妓が困惑した顔をしながらも、なんとか注意を逸らそうと酒を勧めているが、それを気にかける様子はない。やはりあえて無視をしているのだろう。
 沖田の暴言を止めるために、斎藤や永倉たちもやんわりと制止の言葉をかけているが、酔った振りをして沖田はすべてを聞き流している。
 やめる気はないらしい。
「近藤さんがいりゃ、すぐにでも止めてもらえたんだけどな」
 あいにくと今日は不在だ。
「おい、総司」
 原田も制止の声をかけようとしたところで、
「いややわぁ、一番組の組長さんが、いくら酔うてはるから言うて、若い隊士さんにそんな絡んで。沖田さんのそんな姿見たら、百年の恋もいっぺんに冷めてしまいますわ。なんでそんな不機嫌なんです? もしかして、どこぞの浪士と喧嘩でもしはったんですか?」
 原田の酌をしていた芸妓が、徳利を手に沖田に近寄りながら、揶揄を交えて声をかけた。
 沖田の隣に座っていた芸妓が、ほっと安堵の息をついて、表情を緩める。
 場の空気も少し緩んだ。
 沖田は邪魔されたことに不愉快そうに目を細めているが、芸妓は気にしていない。
 原田は案外沖田と同類か、気があう芸妓なんじゃないかと思った。
「ねぇ、隊士さん。組長さんに絡まれるなんて、生きた心地しませんやろ。――ああ、ほら、沖田さんが絡んではったから、声も出せそうにないくらい、青ぉなってしもたはるわ。ねぇ、土方さん、この隊士さん、もう帰らしてあげはったらどうどすやろ? 今日は原田さんも調子が悪いのかしりまへんけど、うちの相手に飽きた言わはって、帰る、言いださはるんです。久々に顔を見せた思たら、冷たい人やわ。――でも、この隊士さんを連れて帰るにはちょうどええと思うんです」
 どうですやろ、と、否を言わせない笑顔で言い切った芸妓に、原田は仕事柄とはいえ、よく口の回る女だ。おまけにさりげなく原田を悪人に仕立てるところが、憎めない機転だと内心で感心しながら、肩を竦めて鬼の副長の言葉を待った。
 芸妓の意図を察した土方が、小さく頷く。
「そうだな。これ以上総司の悪態と八つ当たりに付き合う義理は、こいつにはねぇ。――左之、帰るってんなら、雪村を連れて帰れ。これは副長命令だ」
「はいよ。――雪村、俺と一緒に帰るか?」
「え……、でも、……いえ、あの、はい! 帰ります!」
 戸惑ったように一瞬座敷を見回した千鶴が、あからさまに「帰った方がいい」と沖田以外のみんなに目線で促され、慌てて立ち上がった。
 すっと沖田の眼差しが剣呑な色を深める。
 余計なことはするな、と、怜悧な視線が原田に向けられた。
 隠すつもりもない敵意を滲ませながら、いつもと変わりなく、穏やかだと思える口調で沖田は言った。
 原田から視線を逸らさないところが、沖田の本気を覗わせる。
 沖田の視線を受け止めながら、原田はおどけて肩を竦めてみせた。
 あの殺気に似たものを、こんなことで受け流せるとは思えないなと、思いながら。
「えー、雪村君が帰るなら、僕も一緒に帰りますよ。左之さんに任せてなにか間違いがあったら困るでしょう?」
「総司、お前は俺たちと帰るんだ」
「冗談でしょう、土方さん。いやですよ」
 にこりと笑顔で拒絶をする沖田に、千鶴の顔が歪んだ。
 千鶴の泣き出しそうな、困ったような顔を見ながら、原田はそっと息をつく。
 近藤をはじめ、もちろん自分を含めて、新選組は不器用者の集まりだと思う。
 気になる女を怯えさせてどうするんだよ、総司。
 そう言いかけて、原田は言葉を飲み込む。
 そんなことを口にして、沖田を煽り、さらに千鶴を困らせてどうするというのだろう。
「我儘を言うな。副長命令だ。お前は後から、俺たちと一緒に帰れ。――だいたい、お前と一緒に帰らせて、それで間違いがあったほうが困るんだよ」
 近藤さんにどう報告すりゃいいんだ、と、土方が重々しく呟いたとたん、沖田が軽く目を見開いた。
「……わかりましたよ」
 渋々頷いて、沖田が座る。
「ふたりとも気をつけて」
 剣呑な色をすっかり消し去って、何事もなかったように沖田がひらりと手を振った。
 その豹変振りに周囲が呆気にとられたのは一瞬で、すぐにいつもの気紛れかと誰もが仕切り直すように、また酒を飲み始めた。
 戸惑ったままの千鶴を手招き、原田は座敷を後にする。
 近藤さんは名前だけで総司を止められる、本当に偉大な人なんだなと、感心する。
 襖を閉める前に、
「沖田さんも、あの若い隊士さんにご執心なん?」
「まさか! 僕は左之さんとは違うよ。揶揄かっていただけだよ」
「なんや、そうなんですか。沖田さんも衆道なんかと、一瞬、驚きましたわ」
 沖田と芸妓のやりとりだとか、永倉の、
「しまった! 左之にいつものさせてから帰せばよかった!」
 という、眉を顰めたくなるような声が聞こえたが、原田は聞かなかったことにして、騒がしい座敷を後にした。


 提灯の灯りを頼りに、静まり返った夜の道を歩く。
 雪駄が砂を踏む微かな音が、夜の中にひどく響いていた。
「――千鶴、ついて来られてるか? 歩くの、早くねぇか?」
 少し後ろを歩いている千鶴に声をかけると、すぐに、
「平気です」
 と、返事が返される。
 島原から八木邸までの僅かな距離と――四半時にも満たない僅かな時間。きっとすぐに八木邸に着くだろう。それなのに原田は、千鶴とふたりだということに緊張していた。
 緊張の理由はひとつ。
 島原の芸妓の言葉で、千鶴を妹のようなではなく、そういう対象――女として意識してしまっている。
 意識して、今までのような軽口が叩けなくて、原田は会話らしい会話を交わしていない。
 ああ、でもずっと黙ったままじゃあ、千鶴を怯えさせてしまうかもしれない。
 そんなことを考えて、さあ、どうすれば千鶴を変に意識しないでいられるだろう、と、思考を進めたところで、原田はその考えに失笑した。
 まったく、女を知らない子供じゃあるまいし。
 新選組十番隊組長としてそこそこの給金を得るようになってから、島原をはじめ、京でも有名な遊里で遊んできた。
 女より酒が目当てのほうが多かったが、いつでも酒だけというわけじゃなく、もちろん、女を抱くこともあった。
 そうだ。
 遊里にはいろいろな事情で働いている女がいる。抱いた女の中には、千鶴と同じような年頃の娘が相手だったこともある。
 それなのに。
 情けないな、と、口元に苦笑を浮かべる。
(芸妓の言葉一つで余裕を失うなんざ、どうかしている。やっぱり酒が過ぎたか……)
 やはり酔っているのかとそう思いながら歩いていると、
「やっぱり綺麗な人にお酌をしてもらっていると、みなさんいつもより雰囲気が柔らかいですね。屯所でご飯を召し上がっているときよりも、もっと楽しそうでした」
 少し後ろを歩いている千鶴が、くすくすと笑いながら言った。
 原田は歩みをさらに緩めて、千鶴を振り返る。
 提灯の灯りに照らされた幼い表情は、いつもと同じ、どこかおっとりとして、沖田の冗談に強張っていたことなどなかったように笑っている。
 原田はほっとしながら、僅かに口角をあげた。
「そりゃ誰だって、綺麗な姐さんに酌をしてもらって飲むのは楽しいわな」
「そうですね。原田さんも、いつもよりずっと楽しそうでした」
 千鶴の言葉に、原田はいつの間にか肩を並べて歩いている少女の顔を、そっと見下ろした。
 そう見えていたのだろうか。……離れた場所に座っていた千鶴には、芸妓と原田の会話など聞こえていなかっただろうから、そう見えたのかもしれない。
 実際、あの酒の席の会話で楽しかったのは、芸妓だけだろう。
 原田など、最初から最後まで、芸妓に面白がられていただけだ。飲んだ酒の旨味だって、味わえたのは最初の何杯かだけで、後のほうは酒を味わうこともできなかった。
 苦々しく眉根を寄せながら、
「そうか?」
 と問いかけると、千鶴はすぐに頷いた。
「はい、とても楽しそうでしたよ」
「そんなに楽しそうだったか?」
「はい。お酒を飲まれるときは、原田さん、いつも嬉しそうに飲まれてましたけれど、今日は嬉しそうだけじゃなくて、楽しそうでした。やっぱり、っていう言い方はおかしいかもしれませんが、男の方は綺麗な人がお好きなんですね。――綺麗な方が羨ましいです」
 歩くたびに揺れる灯り。その陰影のせいで、少女の表情の細かさまでは判らない。
 少女の口にした「羨ましい」と言うその一言が、原田の心に波を作る。
 酔っているせいか、芸妓の言葉があったからか。妙な期待が胸をざわつかせる。
 もしかして少女は、原田に特別なものを抱きはじめているのだろうか、と。
 そう考える自分のばかばかしさに、原田はそっと首を振った。
 いったいなにを考えだしているのだろう、自分は。
 ああ、本当に酔っているのだ、と思う。
 原田にとって千鶴は妹のような存在だ。ただそれだけだ。
 きっと千鶴も同じだろう。
 たったひとりの家族。父親の行方が知れない不安な今、千鶴はその心の不安を埋めるように、原田を兄のように慕ってくれているだけだ。沖田や斎藤たちと違って、原田や藤堂、永倉は、まだ気安く声をかけられる相手。土方相手のように、必要以上に緊張を強いられることもない。だから千鶴の言葉にだって、特別なものはないはずだ。
 千鶴が笑っていればいい。そう思う原田の気持ちにも、特別ななにかなど介在していない。
 そう自身に言い聞かせるように、
「お前だって見目麗しい男とすれ違ったら、思わず足を止めて振り返っちまうだろう? 綺麗なものをみれば、それが物だろうが、人だろうが、眼福だって思う。心がつい浮つく。愛でてみたいと思う。そういうこった」
 ただ単純に、年頃の娘らしく、千鶴が他人の美しさを羨んでいるだけだと受け取った――原田がそう解釈したと思える言葉を、原田は口にした。
 つ、と、隣を歩いている千鶴の歩調が緩む。
「どうした、千鶴?」
 訝しげに呼んで、原田が肩越しに千鶴を振り返ると、まるで原田の視線を避けるように、千鶴が歩みを止めて俯いた。
 千鶴が俯く瞬間、提灯の灯りに一瞬照らされた顔が傷ついたようなそれに思え、原田はとっさに千鶴と正面に向き合い、上体を屈めて、俯いた顔を覗き込んだ。
 紡ぐ言葉が、まだ、足りなかっただろうか。それともあからさまに逃げすぎた言葉だっただろうか。
 ああ、否――逃げるも何も、原田と千鶴の間に男女のそれはないのだ。
 ぐるぐると同じようなことを考えては、否定を繰り返している。
 これは悪酔いをしているとしかいいようがない。
 覗きこんだ視線の先、途方にくれたような顔の少女に、原田は苦笑を零す。
 千鶴自身、どうして歩みを止めてしまったのか。その明確な理由が理解できていない、そんな顔をしていた。
「どうした? なにか気に障るようなことを言っちまったか、俺?」
「……いいえ。すみません、なんでもないんです」
 そう言って歩き出そうとする千鶴の腕を取り、引き止めた原田は、
「なんでもねえって面じゃねえだろう。言ってみな。言いたいことがあるなら、言えばいいんだぜ。変な遠慮は無用だよ」
 千鶴が心情を口に出しやすいようにと促した。
 幼い子供が泣き出す手前のような顔で、千鶴がきゅっと唇を引き結ぶ。
「千鶴?」
 名前を呼ぶと、助けを求めるような眼差しが原田を見つめた。
「原田さん……」
「うん?」
「……遠慮とは違うんです。あの、その……、原田さんの仰っている、綺麗な人や物に目も心も奪われるってこと、解ります。解っているんですけれど――そういうことじゃなくて、違うって、そんな言葉が欲しいんじゃないって思うんですけど……」
 困りきったように、千鶴が一旦、言葉を閉ざした。少しの沈黙の後、小さく息をついてから、千鶴はぽつりと言葉を落とした。
「わたしにもよく解らない……です」
 千鶴自身持て余しているらしい気持ち。それがなにかを追求はせずに、原田は「そうか」と頷いて、
「解らねぇか。だったら仕方ねぇよな。――今すぐ答えを決めようとせずに、解るまで放っておきゃいい。いつかわかる日まで、な」
 そう言って、目を細めた。それから千鶴の頭を撫でる。
 酒に酔った原田には、千鶴への気持ちが家族に向ける思いと同じものなのか、男女のそれなのか判らない。正確な判断など、到底できない。
 わからないのは千鶴と同じだと思った。
 暗闇と提灯の明かりの中で、千鶴の大きな瞳がまたたく。
 きょとんと原田を見返す大きな瞳に、安堵の色のようなものが広がった。
「原田さん」
 と、どこかぎこちなく呼ばれて、原田は微かに首を傾げた。
 仕草だけで言葉の先を促す。
「あの……もう少しだけ、話をしてもいいですか?」
「おう。遠慮すんなって言っただろう?」
 くしゃくしゃと千鶴の前髪を掻き撫でるように頭を撫でながら促すと、困ったように、くすぐったそうに目が細められた。
 あどけなく笑う顔に、原田は心が緩む気持ちを覚える。
「――お座敷で、少し、つまらないと思いました」
「ん?」
「原田さんと芸妓さんが一緒にいるのを見ていて、ちょっとつまらないなって、そう思ったんです」
「家族を取られたと思ったか?」
「家族……」
 ぽつりと、不思議そうに千鶴がくり返した言葉に、原田は頷いた。
「兄貴が取られたような気持ちになって、淋しかったってことだろ?」
「兄様……、ですか?」
 千鶴が細い首を傾げて、戸惑ったようにそう口にした。
 原田は千鶴の頭に手を置いたまま、頷く。
 千鶴は腑に落ちないといった顔をしたまま原田を見つめ返し、「わかりません」と小さく呟いた。
「原田さんの仰るとおりのような気もしますけど、そうじゃないような気もします」
 難しい問題の答えが出せない。そんな顔をしている千鶴に笑って、原田は屈めていた体を伸ばした。
 それからぽんぽんと宥めるように千鶴の頭を撫でて、言う。
「千鶴に好いた相手ができたときに、俺もそんな気持ちを味わうのかねぇ。――ああ、でもな千鶴」
「はい?」
「どんな相手に惚れてもいいが、総司はやめとけよ。あいつは手がかかる」
「沖田さん……ですか? え……、えぇっ!? 惚れるって、それはありえませんよ! わたし、沖田さんには意地悪を言われたりされたりと、ずいぶん嫌われていますから」
 ぶんぶんと勢い良く頭を振って否定する姿に、原田はそっと苦笑した。
 この娘はそうとう鈍いらしい。
 この鈍さでは、ちょっかいをかけて構い倒している総司も、ずいぶん、苦労をしていることだろう。――おまけに努力という努力が、すべて裏目にでてしまっているようだ。
「あー。まあ、総司は土方さんに似て、天邪鬼だからなぁ」
 報われてねぇなぁ、ご愁傷様と思いながら零した言葉に、千鶴が不思議そうに首を傾げた。
 鈍い娘には察することのできない言葉だったかと、また苦笑を浮かべながら、原田は踵を返して歩き出した。
 歩きながら、千鶴の腕を掴んだままだったことに気づいたが、千鶴がなにも言わないので、そのまま気づいていない振りをする。
 手を振り払う気配もなく、大人しく後をついてくる千鶴と一緒に歩きながら、原田は思う。
 いつか。
 いつか答えが出るのだろう。
 出さなければいけなくなるのかもしれない。
 千鶴も、原田も、胸に抱く思いが、相手に向ける想いが、家族としてか、男女としてかわからないと曖昧にできなくなってしまうだろう。
 その時に、千鶴が選ぶ手は誰のものだろう、と、原田は思いを巡らせる。
 総司だろうか。
 見知らぬ誰かだろうか。
 それとも……。
 それでも、きっと、千鶴を大事に思う気持ちに変わりなないだろうと、原田は揺れる提灯の灯りを見つめながら思った。


無駄に長くなりました。
左之千。とかいいながら、手も繋いでませんよ。まだまだこれから。
そんな感じで。

イメージ、タイトルともに華子さんのガーネットで。
最近リピート。