守りたい人


 どうやれば、守れるだろう。
 どうすれば、守れるだろう。

 いつからか、そんなことばかりを考えていた。

 たった数年しか過ごさなかった京の寒さに、体はすっかり慣れてしまっていたのだろうか。
 江戸の寒さを、たいして感じない。
 もしかしたら寒さも感じられないほど、気持ちが麻痺してしまっているのかもしれない。
 少しずつ、千鶴の中でなにかが崩れていっているから。
 冬の陽射しが降りそそぐ縁側にぼんやりと腰掛けながら、千鶴は遠い空を見つめた。
 数年ぶりの懐かしい我が家に、千鶴は今もひとりきりだ。
 父が帰ってくる様子はなく、誰かが訪ねてくる気配もない。
 父の患者だった人たちも、綱道が診療所を留守にすると知ってからは、ここに足を向けなくなった。
 千鶴の知り合いも、千鶴が江戸に戻っているとは知らないから、訪ねて来ない。
 千鶴を訪ねてくる人がいるとすれば、それは夜だ。
 陽が落ちてから。
 訪ねてくるだろう人のことを考えても、千鶴の体は震えなくなった。
 強い感情――恐怖や憎しみ、畏怖それら負の感情――も、もう、感じなくなった。
 静かに、今を受け止めている。
 受け止められるようになった。
 いつの間にか。
 これはやはり崩れていく何かが原因だろうか。
 それともたんに、今の状況に慣れてしまったせいだろうか。
 それとも……。
 ふと別のことを考えかけて、千鶴は思考を止めた。
 考えたくない。これ以上考えてはいけない。
 だから別のことを考えた。
「慣れとは怖いものだって言ったのは、斎藤さんだったかな……」
 以前言われた言葉を思い出して、千鶴はぽつりと呟く。
 あれは京に着いた頃。――そう、偶然彼ら新選組の秘密に触れ、それを理由に軟禁され、監視を受け始めた頃のことだ。
 大勢の中での食事。右を向いても左を向いても、どこに視線を向けてもご飯の奪い合いをしながらの大騒ぎで、最初の頃は騒々しい食事の風景に呆気に取られるばかりで、ぽかんと呆けている間に千鶴の膳からあらゆる物が奪われて。
 二口三口食べただけで、千鶴の膳は空っぽにされてしまった。
 呆然と空の膳を見下ろす千鶴に、けれど誰も悪びれることもなく、それどころか「自分の飯は自分で守る、それがここでの鉄則だ!」と、胸を張って宣言までされた。
 曰く、自分の膳の中身を守らなかった千鶴が悪い、ということらしい。
 千鶴はすっかり空になった膳を見つめながら、ああ、弱肉強食って恐ろしいな、と、そう思った。
 毎回こんな風景の中で食事をしなくちゃいけないのかと、少しばかりうんざりもしたけれど、二、三日もすればすっかり慣れてしまって。
 自分で食べられる分だけは死守しつつ、食事を無駄にするくらいなら、食べたい人に食べてもらえるほうがいいだろうと、余分だと思うおかずに関しては奪われるに任せ、黙々と箸を進める千鶴の隣にいた人が、不意に気遣う言葉をくれた。
「毎回、騒々しくて悪いなって言ってくれて……。私はそれに「もう慣れましたから」って答えて、そうしたら斎藤さんが……」
「慣れとは怖いものだな」
 と、どこかしみじみとしたような、まったく感情の篭っていないような、判断しづらい音でそう言って、その言葉の後にまたおかずの奪い合いが始まって、喧々囂々。
 その騒がしさが可笑しくて、楽しくて、千鶴は笑ってしまった。
「……楽しかったな」
 ぽつりと千鶴は呟いた。
 大勢の中での食事や、他愛ないやり取りは、ずっとひとりでいる時間が多かった千鶴には新鮮で、楽しいものに感じられた。感じられたけれど、それでも、父の行方を捜すため、という名目上、生命の安全は何とか確保できたけれど、不安なことばかりだった。
 千鶴の無用心な好奇心が招いた結果、父を探すための時間だって、ずいぶんと長く多く、無駄にした。
 いまだってそうだ。
 千鶴は溜息をつきながら、思う。
 父を探しに行くことさえできない。
 ああ、そうじゃなく。この先、千鶴がこの家から出ることはない。きっと許してはもらえないだろう。
 変若水を飲んでから、すっかり変わってしまったあの人は、――山南敬助は、千鶴の自由を許さない。
 千鶴が京の屯所で軟禁状態だったときでも、そうだった。
 お目こぼしすら許さない、そんな生真面目な人だったから。
 だから千鶴の外出を許されるとしたら、それは山南が自由に動ける夜に、一緒に。
 昨夜も、その前も来なかったけれど、今夜は、来るのだろうか。
 ふとそう考えて、千鶴は小さく笑った。
 まるで来ることを待っているような考え方だ。
「……駄目だなぁ」
 自嘲を込めて千鶴は呟いた。
 考えないようにしよう、考えちゃいけない。
 どれだけ言い聞かせても、自分を戒めても、いつのまにか自然と考えている自分に気づく。
 どうすればいいか。
 どうしたらいいか。
 守るために。
 千鶴は俯いて、目を伏せた。
 新選組にいる間に考えていたのは、どうすれば自分は、彼ら新選組の役に立てるだろう。足手まといにならずに済むだろう、そんなことだった。
 千鶴はずっと誰かに守られてばかりで、守られることが当たり前で、自分が誰かを守るなんて、考えたことなどなかった。
 剣の腕は一流の彼らを守るなんて、そんな大それたこと、考えつきもしなかった。
 けれど、最近、千鶴はずっと守ることを考えている。
 少しずつ、少しずつ、歪みに引き摺られていくあの人――山南を、山南の心を、自我を、どうすれば留めておけるだろうかと。
 いつの間にか、一番大切だった人のことよりも、長く、多く、たくさんの時間をかけて考えている。
 考えないようにしよう。そう自分を戒めなければいけないほどに。
 その心の変わりようを、ときおり、自分でも持て余しながら。
 そっと吐息をついて、千鶴は瞼を開いた。
 膝の上で握り締めた両手が、寒さのせいか、握り締めているせいか、色を失っていた。
 手を持ち上げて息を吹きかけると、自分の吐息の温かさが、一瞬、肌を温める。
 けれど、やっぱりそれは一瞬のことで、かじかんだ手は熱を取り戻さない。
 そろそろ陽が落ちる頃だ。
 さっきよりも空気が冷たくなっていることに気づいて、千鶴は縁側から立ち上がった。
 火鉢に火を入れて、温まろう。
 このままでは風邪を引いてしまう。
 思いながら家の中に入ろうとしたとき、だった。

「千鶴っ!」
 懐かしいと思うにはそんなに長い時間は流れておらず、けれど、呼吸が止まりそうなほどの驚きが全身を支配する程度には、長らく聞いていなかった声が、鋭く、切羽詰ったように、それでいてどこか甘く千鶴を呼んだのは。


少しずつの、変化。
それが齎す、結末の瞬間までの、僅かな邂逅。
そんな感じで。