守りたい人
「千鶴っ!」 裏木戸越しに見かけ、姿を見つけても今日は声をかけないと決めていたのに、左之助は思わず声をかけてしまった。 本人を前にして久しぶりに呼んだ名前は、左之助が自分で想像していた以上に甘く響いて。 冬の冷たい空気の中に溶け込んだその音に、ゆっくりと振り返る少女。 いつも高く結い上げられていた髪は下ろされていて、左之助の記憶の中より少女をさらに幼く――それでいて儚く見せた。 ああ、やっと会える。顔を見ることができる。 千鶴が左之助の前から去って、一月。 その間、どういうわけか千鶴の足取りは掴めず、命の安否さえ判らず、左之助は気が狂うような時間をずっと過ごしていた。 待ち望んだ再会だ。 一度、千鶴が去ってからすぐくらいの時期に訪れ、けれどその時は、無人の気配に立ち去った雪村家に、もしかしたら、まさか、と、思いながらも、再び足を向けてみて正解だった。 心だけでなくすべてを支配する勢いで左之助をとらえた千鶴が、もうすぐ左之助を振り返る。 純粋で生き生きと輝いた瞳に、千鶴に出会って以来、当たり前だったように、また左之助を見つめ、笑ってくれる。 そして、左之助も千鶴を見つめよう。 もう、二度と、過ちは犯さない。 向けられる眼差しから、目を逸らしたりしない。 今度こそ、真正面から千鶴の眼差しを受け止め、手を伸ばし、守ってやる。 力が及ばなくとも。千鶴を狙う力に敵わなくとも、守ってみせる。守り方など、その時に考えればいい。 今まで経験してきた斬り合いと、そう大差ない。 なにを、誰を守ればいいのか。 それだけを間違わなければいい。忘れなければいい。もう二度と。 左之助の気持ちは、久しぶりの再会を前にして、舞い上がったように高揚していた。 漆黒の髪をわずかに揺らしながら振り返った少女が左之助を見、だが、なぜかことりと首を傾げる。 まるで見知らぬ人に声をかけられた、そんな仕草だった。 その仕草に違和感を覚えながら、左之助は千鶴を凝視するように見つめていた。 なぜか、もう一度声をかけることは躊躇われた。 拒絶とは違うものが、左之助と千鶴の間にある。 それがなにかはわからない。正体のわからない不安なざわめきが、ただ左之助の心を揺らしている。 左之助の視線の先で、千鶴は不思議そうに瞬きを繰り返し、それから、 「どちらさまですか?」 静かな声音でそう問いかけてきた。 問いかけられた瞬間、左之助の呼吸が一瞬止まる。 今までどんな凄惨な斬り合いに立ち合っても、鬼の副長に怒鳴られても、喧嘩をしても、怪我をしても、切腹をする羽目になった時だって、左之助は血の気が引くなんて思いをしたことなど、一度だってなかった。 それなのに、たった一言で。 「千鶴、……お前、なんの冗談……」 からからに渇いた口の中から絞りだした左之助の声は、みっともないくらいに掠れ、震えていた。 これはなんの余興だろう。 それとも、本気だろうか? 千鶴は、左之助のことを忘れているのだろうか? 忘れた振りをしているんじゃなく? もしもこれが余興でも、振りでもなんでもなく、本当に――千鶴が左之助のことを忘れてしまっているのだとしたら、千鶴から目を逸らし、伸ばされた手を切り捨てるように振り払った左之助への罰、だろうか。 報い、なのだろうか。 「……山南さんに変な薬を飲まされでもした影響、とかじゃねぇんだろうな?」 まさか変若水を? いや、そんなことがあっていいはずはない。そんなことは許されない。そもそも変若水を飲んだ今までの連中に、そんな症状は出ていなかったじゃないか。そう思いながらも、もしかしたら、と、最低な期待を胸に呟いた左之助の言葉に、千鶴が反応した。 「――敬助さまのお知り合いの方、でしょうか?」 あどけなく嬉しそうに笑いながら、左之助に近づいてきた千鶴の唇が紡いだ名前に、左之助はとっさに目を伏せた。 湧き上がるまま荒れ狂った激情を静めるためか、ただ目を伏せたかったのか、現実から逃れるために目を伏せたのか、左之助自身にも、理由は判らなかったけれど。 「あの……?」 怪訝そうな声音に、左之助はゆるりと首を振った。 口元に、表情に浮かびそうになる自嘲をなんとか押し殺し、左之助は言った。 「ああ、俺は山南さんの知り合いで、原田左之助っていう者なんだが、……山南さんは、ここには来てねぇよな?」 山南がいるはずはない。 変若水を飲んで以来、山南に限らず羅刹となった人間はみな、この時間は眠っている。ああ、そうだ。千鶴は太陽の下にいる。眠ってなどいない。だから、変若水を飲まされたわけではない。 太陽がある間は眠り、月が出ている時間が羅刹の活動時間だ。 そんなことは良く承知しているのに、ばかげた問いかけを口にしている自分を内心で嘲笑いながら、左之助は判りきっている千鶴の返答を待った。 「はい。敬助さまは、いらっしゃいません。夜にこちらに寄られることもございますが……、あの、御用がございましたら、直接お勤めの場所に行かれたほうが早いかと存じます」 少しだけ寂しそうに――山南の不在を心底寂しく思っているのだというように表情を曇らせた千鶴に、これは冗談でも余興でもなく本気なんだと、本当に千鶴は左之助のことを忘れてしまい、それどころか山南に想いを寄せているのだと、左之助は目の前の現実に両手を握り締めた。 手の平に食い込む爪の齎す痛みが、どうしてだ、と、千鶴に詰め寄りそうになる気持ちを、かろうじて踏みとどまらせていた。 信じたくはない。けれど左之助を近寄らせない千鶴の雰囲気が、本当に左之助のことを覚えていないのだと知らしめるように教えている。 「……そうか、屯所で姿を見かけなかったから、てっきり……。いや、もしかしたら土方さんと一緒に出ているのかもしれねぇな。――悪かったな、急に押しかけてきて」 緊張と悪酔いしたときのような気分の悪さを思えながら、左之助はなんとか声を絞りだし、滑稽極まりない言葉を口にした。 山南がいないことなど、承知している。 いないと判っている時間だからこそ、左之助はここに来たのだ。 (平助に、怒られるだろうな) ふと左之助は、弟分であり、友人でもある青年を思い出した。 千鶴が戻ってきたら、もう遠慮はしないと言い切った平助の、どうしてだよ、と、怒った顔が思い浮かぶ。 一緒に千鶴を探して、千鶴を連れ戻して、今度こそ守ろうと言った青年は、同じ羅刹である山南の動向を探ってくれていた。 山南は時折、血を求めるため以外に外出しているようだ。きっと千鶴のところへ行っているんじゃないか。根拠はないけれど、と、最近夜間の外出が以前よりも増えた山南の動向を教えてくれた平助に、左之助は以前平助の言っていたことを思い出して、もう一度千鶴の家に行ってみると告げた。 一緒に行くと言った平助に、その時は山南さんも動いている時間だから、と納得させた。 今回は千鶴がいるかいないかを確認するだけで、もしも千鶴が家にいたら。山南さんに監禁されているようだったら、また改めて一緒に行こう。その時に千鶴を助け出して、山南さんと決着をつけよう。 そう言ったのに。 (簡単に千鶴を諦めたなんて言ったら、殴られるどころじゃねぇだろうなぁ) 斬り殺されるかもしれない。 冗談ではなく。 そう思いながら、けれど、左之助は千鶴を連れて屯所に行く気にはなれなかった。 その勇気がないといえば、ない。 左之助のことを覚えていない千鶴を連れて出ても、その後どうすればいいのか、左之助には判らない。どうしたいのかも判らない。 山南に詰め寄ればいいのか。詰ればいいのか。 千鶴に「思い出せ」と、そう言ったところでどうにかなるわけではないだろう。 けれど、もし、左之助を忘れたこと、それが千鶴の意志だったのなら。千鶴が望んだことだったのなら、そして望みどおりに忘れてしまったというのなら、左之助はどうすればいいのだろう。 千鶴が左之助を忘れたいと望んでもおかしくないことを、左之助はしてしまった。 「俺はどうして伸ばされたお前の手を、取ってやれなかったんだろうな」 簡単なことだったというのに。 千鶴が求めていたのは、本当は、守られることではなく、傍にいていいと許されることだった。 いまさら気づいた。 いま、やっと気づいた。 伸ばした手は、もう、間に合わず、大切なものを掴むことはできなかったけれど。 無意識に零れ落ちた言葉は、千鶴に届くことなく冷たい空気に溶けて消える。 「あの……?」 不意に黙り込んだ左之助を、怪訝に思ったのだろう。千鶴がそっと様子を窺うように声をかけてきた。 はっとして、左之助は千鶴を見る。 出会った頃のようなあどけない顔。 くるくると変わる表情が眩しく思えて、離れていたのはたった一月の間だというのに、少し懐かしいと思いながら、左之助は目を細めた。 左之助の最後の記憶の中の千鶴は、いつも目を伏せていた。 笑っていても、無理をしていると判る笑顔で、どこか怯えたように、居心地が悪そうにしていて。 そうさせていたのは左之助だったけれど。 いったいどれだけ千鶴を傷つけ、その心を踏みにじってきたのだろう。 気づけばいつもそうしていたように、左之助は木戸越しに千鶴の頭をそっと撫でた。 硬くなった手の平の皮膚の下で千鶴の体が微かに緊張して、大きな瞳が驚いたように左之助を見つめてきた。 「……あの?」 「悪ぃ」 「いえ……」 さらりとした髪を掻き撫でる手を、左之助は慌てて引っ込めた。 千鶴の髪の感触が残る手を、左之助はぎゅっと握り締める。 握り締めることで、その感触を閉じ込めようとするように。あるいは、再びこの手を伸ばし、もう一度千鶴に触れることを禁じるかのように。 「お訊ねしてもよろしいですか?」 「ん? ああ、なにを?」 「わたしの名前をどうして?」 「山南さんから聞いていて……、いや、悪かったな。いきなり名前を呼ばれて、驚いただろう?」 「はい。でも、気になさらないで下さい」 そう言って千鶴が柔らかく微笑んだ。 その微笑みは少し大人びていて、左之助の記憶の中にはないものだった。 「――屯所に戻ってみるか。もし山南さんが立ち寄ったら……」 この時間にそんなことはありえない。 そう判っていても、最後までこの茶番を続けなければいけないのだろう。 これも左之助自らが蒔いた種の、結果の一つだ。 「はい、敬助様にお伝えいたします」 「ああ、頼む」 「はい。――お気をつけて」 そう言った千鶴が、深々と頭を下げる。 その姿を、左之助はしばらく眺めていた。 不意に、抱きしめたい、と思った。が、それはもう叶えられそうにない。 結局、この木戸を開けて近づくことさえ、できなかった。 左之助のことを忘れた千鶴の空気が、それを許さなかった。 もし、千鶴が振り返るより早く抱きしめていたら。もしかしたら、と、考えても仕方がないことを、左之助は考えた。 「千鶴……」 それでも、別れがたくて。女々しい行為だと自覚しながら、左之助は手を伸ばした。 相手には届かないほどの密やかな声で名前を呼んで、手を伸ばして、抱きしめるかわりに頭を撫でる。 手の平の下で、千鶴の体がびくりと震えた。 ゆっくりと頭を上げた千鶴が、不安そうに左之助を見つめた。 「山南さんを頼むな」 「――はい」 頷いた千鶴を左之助はしばし見つめ、ふっと目を細めて笑いかけた。 少し身を屈めて、視線を合わせる。 「幸せか?」 千鶴の笑顔は、本物だろうか。本当に、心から笑っているだろうか。 左之助のことを忘れたことで、左之助が傷つけてしまった心は、癒えただろうか。癒えたからこそ、笑っているのだろうか。 それを確かめてみたくて問いかけた言葉に、千鶴は大輪の花が咲いたような笑みを浮かべ、 「はい」 と、確りと頷いた。 「そうか」 千鶴の笑顔に頷いて、左之助は頭を撫でていた手を離す。 左之助は屈めていた体を真っ直ぐ伸ばし、千鶴を見ないようにしながら「じゃあな」と言って踵を返した。 |
左之さん千鶴と再会。そして、別離。
後悔しつつも、漢前な左之を書きたかったんですが……。
うう、玉砕。すみません。