月桜







 しん、と静まり返った屯所の、庭の一角。
 月光に照らされ、夜闇に淡く浮かぶ薄紅の花木を見つめながら、ああ、あの月になりたい。あの桜木になりたいな、と、手酌で酒を呑んでいる左之助を、時折、そっと盗み見ながら、千鶴は思う。
 左之助はいつも優しい。
 昔からの知り合いのように接してくれて、千鶴が不安を感じないよう、寂しさを感じないよう、孤独にならないようにと気遣ってくれる。
 左之助自身の気持ちが弱っているというのに、そんなことに気づきもしないで、仲間を気遣い、千鶴を気遣い、挙句に弱った心をそのままにして、ひとりでこっそり桜と月を肴に酒を呑み、またいつもと同じ「明日」を迎えようとしている。
 千鶴には、左之助の心が弱っている理由が判らない。
 想像もつかない。
 けれど左之助が、無意識に、寂しそうに笑う姿を見たくなくて。
 なんとなく眠れない予感がして、本当は土方に良い顔をされていないけれど、眠気がくるまでの気分転換にと、与えられた部屋を抜け出したところで、千鶴は庭でひとり酒を呑んでいる左之助の背中を見つけた。
 もしかしたら昼間の左之助の様子が気になって、無意識にその姿を探していたのかもしれない。
 左之助見つけて、その姿に、根拠もなく千鶴は思ったのだ。
 ああ、あのままじゃ駄目だ、と。
 左之助をひとりにしていてはいけない。
 ひとりにしたくない、と。
 思うと同時に、千鶴は履物を履いて、庭に下りていた。
 まだまだ冷たい春の夜の空気の中に、京の底冷えの寒さの気配が残っているけれど、気にならなかった。左之助の背中の寂しさしか、千鶴には見えていなかった。
 寂しい気持ちになっている自分に気づけないくらい、もっと寂しくなっちゃ駄目なんですよ、と、そんなことを思いながら、無言で杯を重ねている左之助に近づいて、千鶴は声をかけたのだ。
 千鶴の気配に、近づく気配に気づきもしない左之助の余裕のなさを、少しでも早く和らげる手伝いをしたくて。
 声をかけたとたん驚いて振り返った左之助の顔は、千鶴の胸をとても痛ませた。
 いつも強気で優しい人が、少しばかり途方に暮れたような顔で。まるでこの世に独りきり取り残されてしまった人のような、寂しくて仕方がないという顔でいるのだ。
 なのに、そんな自分には気づいていなくて。
 それなのに千鶴の姿を認めたとたん、左之助の表情は、夜更けに出歩いている千鶴を心配するそれに変化して、左之助自身のことより千鶴を優先してくれるその気持ちこそが少し悲しくなって、千鶴は言ったのだ。
 千鶴のことなんかよりも、左之助自身のことを、自分のことを、もっと、もっと心配してください、大事にしてください、と。
 千鶴がそう言うと、左之助は困ったみたいに苦笑して、千鶴をひとりきりの花見の席に誘ってくれた。
 あれからどれくらいの刻が過ぎたのか、千鶴には判らない。
 そろそろ部屋に戻らなくてはいけないだろうと、判っているけれど、左之助の傍を離れがたくて。
 左之助の酒に付き合うこともできず、邪魔をしているんじゃないかと思う気持ちが湧き上がってくるけれど、どうしても離れられない。
 離れたくないと思う。
 けれど、このままじゃ、左之助の傍に居続けることは苦しいとも思うのだ。
 短気な人だと知っているけれど、その反面、誰にでも優しくて、気遣いを忘れない左之助の、桜を見上げる眼差しが。
 桜の花を通して月を見上げる眼差しが、見たこともないくらい柔らかで、優しくて。
 なにを思っているのか、誰を想っているのか、愛しそうで。
 ああ、胸が苦しい、と、千鶴はそっと胸を押さえながら、思う。
 あの月に。あの桜に。
 愛しさで溢れたその眼差しで見つめられる月に、桜に、なりたいと――――心の奥底に、小さく生まれた感情につける名も知らぬまま、千鶴はそう思った。

                                      了

ガルスタ「原田編」のイラストより妄想。千鶴ちゃん視点のつもりの、散文。
調子に乗って、すみません、的仕上がりです。