秘密


 ああ、本当に良い夜だ。
 左之助は土方から渡された酒を喉に流し込みながら、思った。
 冴え渡る月を、桜花越しに見上げる贅沢。
 ふとすれば逃してしまう短い時間を、こんな風に過ごせる時を持てたのは、幸運だ。
 なによりも幸運なのは、隣に千鶴がいることだろうか。
 隣で同じように、月明かりに浮かぶ桜の花を見上げている千鶴の存在に、少しずつ埋められていく寂寥。
 気心知れた仲間たちと、酒を呑みながら桜の下で騒ぐのも一興だったが、静かな夜に包まれ、その静寂に倣って黙って呑むのも、案外いいもんだ。
 これが常なら手酌など無粋だと思うだろうが、隣にいるが千鶴ならば、酌をさせるほうが無粋だと、左之助はひとり杯を傾けながら思う。
 自分は大丈夫だから、もっと左之助は左之助自身のことを省みていていいのだと、いきなりそんなことを言ったきり、千鶴は何も言わない。
 きっと世間では、「気が回らない」と評されるかもしれないが、余計な詮索をしないそれが、今夜の左之助には心地良く、また有り難かった。
 左之助自身、ついさっき――千鶴にあんな風に言われるまで、まさか自分の心が弱っているなどと思っていなかったから、色々と聞かれたところで答えられる言葉などなかったし、言葉を持っていたとしても、答えたくなかった。
 直情型人間と言っても、そうそう自分の感情を吐露してばかりもいられない。
 自分の心の弱さを、たまには隠しておきたい。と、そう思うのだ。
 案外、自分にも繊細な一面があったのだと、左之助は僅かに口角を歪める。
 杯を傾けつつ、時折盗み見る千鶴の横顔からは、幼く素直な感動が読み取れた。
 飾らないその正直な反応が、左之助は気に入っていた。
 月夜と桜に魅入られるように、大きな眼をいつもより大きくしている女のことを、左之助は考える。
 よくよく見れば整った器量をしているが、ぱっと見は特に目を引く存在ではない。けれど、危なっかしいほどの一生懸命さや、思わず苦笑を浮かべてしまいたくなるほどの遠慮や気遣いが、何とかしてやりたい、守りたいと思わせる、その魅力。
 時と場合にもよるが、概ね、こちらの事情に立ち入りすぎない。知っても、自ら進んででしゃばらない。それでいて、大人し過ぎない。そして、壬生狼と呼ばれる自分たち幹部に臆することもなく、臆するどころか、幹部相手に頑固に立ち向かう無鉄砲な一面もあって、面白いほど意表を突いてくれる、ある意味一筋縄でいかない女。――少なくとも左之助の千鶴に対する印象はそうなのだが、そんなふうに、なにかがなければ、普段はまるでいないみたいに静かに存在しているくせに、気がつけば心の深いところにまで侵食している、不思議な存在。
 気づけば、左之助はいつでも千鶴のことを考えている。心に留めている。
 それが、運悪く新選組の事情に触れ、巻き込まれた彼女に対する憐憫や同情、罪悪からくる感情なのか、それとももっと違うものなのか、今の左之助にはまだ判断はできないけれど、……認めるほどの確かなものがもてないのだけれど、それでも確かな気持ちは「守りたい」という思い。
 ずいぶん入れ込んでいる。
 杯を重ねながら左之助が苦笑を零したときだった。
 千鶴を盗み見ていた左之助と、突然振り返った千鶴の視線が、月明かりの中で交わった。
 わずかな時の、視線の交わり。
 その瞬間に流れ、左之助と千鶴を包み込んだ空気は、左之助に照れくささを感じさせた。
「どうした? ああ、そろそろ部屋に戻るか?」
 結構な時間、外にいた。いい加減、解放して休ませたほうがいいだろう。
 そう思いながら問いかけると、千鶴の目がきょとりと瞬きをし、小首を傾げ、それからゆっくりと首を横に振った。
「……いえ、あの、そうじゃなくて」
「なんだ?」
「すみません」
 いきなり謝った千鶴が、申し訳なさそうに小さく肩を窄めた。
「お前、なにを謝ってる?」
 わけが判らない。
 謝られるようななにかを、自分は千鶴にされただろうか?
 色々と思い起こすが、さっぱり判らない。思い浮かばない。
 浮かぶのは月と桜。それから、酒。そして傍らの女の無防備に幼い横顔。
 至福の時間。
 不思議に思いながら問いかけた左之助に、千鶴が小さく「すみません」ともう一度謝ってから、
「……お酌もせずに。気が回らなくてすみません」
 少し泣きそうな顔をしながら、千鶴が言った。
 左之助は千鶴の言葉に、傍らの徳利と手の中の猪口を交互に見つめた。
 それから、ふと月と桜を同時に見上げる。
 目に映るのは、絶景。
 視線を千鶴に戻し、左之助は空いている手で千鶴の頭を撫でる。
 普段は結い上げられている髪が今は結われていないせいか、左之助の無骨な指に、千鶴の黒髪がさらりと絡んで零れ落ちた。
 指の透き間から逃げていくその感触を、少し、残念に思う。
 けれど、もう一度指を伸ばしたりはしなかった。
 なんとなく、そうしてしまうと、この時間をぎこちなく壊してしまうような気がしたのだ。
 そちらの方が、よほど勿体無い。
「気にしてねぇよ。手酌で十分だ。余計なことに気を使わなくていい」
「でも……」
 困ったように言い募ろうとする千鶴に、左之助は苦笑を浮かべる。
「俺は肩苦しいのは苦手だから気にしなくていいんだが、千鶴が気にするっていうなら、そうだな……、夜更かしさせて悪ぃけど、もう少しだけ付き合ってくれや」
「そんなことでいいんですか?」
 驚くように言った後、お酌くらいできると思います、と、なおも言い募る千鶴に「手酌でいいんだ」と笑って言い聞かせ、
「付き合ってくれるか?」
 重ねて問いかけると、千鶴はすぐに頷いた。
「はい、もちろんです。お付き合いします」
「すまねぇな」
「いいえ」
 笑って首を振った千鶴が、ふと、視線を上に投げかけた。
 それから。
「本当に、この景色は絶景ですね」
 左之助が最初に誘ったときの言葉を、千鶴が口にした。
 そのまま魅入られたように見続けている千鶴の横顔を、左之助は見つめる。
 桜の花の透き間から月を見る、静かな夜。
 ふたりきりの、宴会。
 埋められてゆく寂寥。
 凪ぐ、心。
 心休まるとは、こういう時間のことをいうのだろう。
 風流などという言葉とは、縁遠いけれど。
 杯の中に緩やかに忍び込んだ桜の花弁の上から、ゆっくりと酒を注ぎこみ、こんな時間がいつでも過ごせる日が早く来ればいいと思いながら、左之助は千鶴が見つめている景色に、視線を向けた。

                                  了

公式創作から派生、第二弾。
今回は左之視点。
ほのぼの。……どうして甘くならないのか(苦笑)。