〜約束桜


「原田さん?」
 三番組の巡察に同行していた千鶴は、通りに見知った人の姿を見かけた気がして足を止め、首を傾げた。
「雪村?」
 隣を歩いていたはずの千鶴が足を止めたことに気づいた斎藤が、千鶴と同じように足を止めて振り返り、訝しげに声をかけてくる。
 斎藤の声に、千鶴は見かけた姿を探すように彷徨わせていた視線を、斎藤へと向けた。
「なにか? 綱道さんを見つけたのか?」
 静かな声の問いかけに、千鶴はふるふると首を横に振った。
「いえ、父様じゃないんです。……原田さんを見かけたような気がして」
 一瞬、左之助の名前を出すことを躊躇った千鶴は、しかし、隠すことでもないと思い直し、左之助がいたと思われる通りへと視線を向けながら、そう言った。
「左之? ああ、今日は非番だ」
 町をぶらついているんだろう、と、興味も関心もない温度の声でそう言って、斎藤が再び歩き出す。
 その背中に慌ててついて行きながら、千鶴は、ふともう一度、左之助を見かけたあたりに視線を向けた。
(あそこの道は、どこへ向かう道だったっけ?)
 覚えてしまえば単純だと、みんなに口を揃えて言われるけれど、京の通りはどこも同じように見えて、それがまた千鶴には複雑で、なかなか覚えられない。
 巡察に同行しているといっても、本当について歩いているだけで、行方不明の綱道を探しながらとなると、通りを覚える余裕もない。
 我ながら情けないことだと、内心で溜息をつきながら、千鶴はどんどん先を行く斎藤の背中を追いかけるために、足を速めた。


 大騒ぎの夕飯の時間はあっという間に過ぎ去って、夜番の巡察にはさすがに同行を認められていない千鶴は、与えられた部屋に戻って、ぼんやりとしていた。
 必要最低限のものだけを手に、江戸から京まで旅をして、辿り着いたその日のうちに新選組の屯所に軟禁された千鶴には、暇を潰すものがない。
 気軽に屯所内を歩くな、とは、鬼の副長からの厳命で、いまだ些細なことすら自らの命の危険に繋がる身としては、うっかりその命令を破るわけにもいかず、ただ無為に時間を持て余す。
 こんなことになると判っていたなら、暇を潰すことのできる書物を一冊でも持ってくればよかった、と、後悔したところで後の祭り。
 与えられたこの部屋でできることといえば、父の安否に思いを馳せること。自分のこれからに思いを馳せること。それから溜息を零すことくらいだ。
 父の行方や、自分のこれからを考えると、どうしても先に暗い想像が浮かんでくる。
 無事だろうか。元気だろうか。酷い扱いを受けていないだろうか。ちゃんと食事は与えられているだろうか。――生きているだろうか。千鶴自身はいつまでここに軟禁されているのだろう。本当に父は見つけられるだろうか? 会えるだろうか? これからどうなるのだろう。
 見つけられる。会える。そしてふたりで江戸に戻るのだ。
 気鬱になるそうな想像が頭を占めるたびに、大丈夫だと言い聞かせるのだけれど、なかなか上手くいかない。
 見つけられない。会えない。その焦燥に気持ちが負けかけてしまう。心が挫けそうになる。
 何もすることもないひとりの瞬間は、だから、嫌いなのだ。
 ああ、でも、駄目だ。こんなことじゃ――悪い想像ばかりしていちゃ駄目だ。もっと明るい未来を。父と再会を喜んでいる未来を考えなくちゃと思いながらも、溜息を零してしまったときだった。
「千鶴ちゃん、ちょっといいか?」
 障子越しにかけられた声に、千鶴はいつの間にか俯いていた顔を上げた。
 障子に映った影とその声で、訪れてきた人を知る。
「原田さん? ええ、はい、どうぞ」
 何の用事だろうと思いながら立ち上がり、千鶴は障子を開け、原田を招き入れた。
 部屋に入ってきた左之助が、申し訳なさそうに言いながら苦笑を零す。
「寛いでたところに、悪いな」
「いいえ。……することもなくてぼんやりしていただけですから」
「そうか」
「はい。――あ、どうぞ」
 千鶴は左之助に座をすすめ、自らも座ろうと思ったところで、その動きを止めた。
「あ……」
「どうした?」
 進められるままに座った左之助が、不思議そうに千鶴を見上げてくる。
 普段見上げるばかりの人を、心持ちとはいえ見下ろすのはなかなかに新鮮な気持ちだなぁ、と、そんなことをこっそり考えながら、千鶴は、
「お茶を頂いてきましょうか?」
 そう訊ねた。
「――いや、そんな気遣いしなくてもいい。つーか、あれだ。俺が持ってきてやらなきゃいけなかったな。悪ぃな。気づかなくて」
 ちょっと気が急いていたからな、と、苦笑する風に頬を歪めて笑った左之助が、「気にしなくていいから、座れ」と言ってくれたのに甘えて、千鶴は左之助の向かいに座った。
 千鶴が座ると同時に、左之助がおもむろに懐に手を入れる。
 その動きを目で追いながら、千鶴は、なんだろう? と、小さく首を傾げた。
 左之助が懐から取り出したのは、緩くなにかを包んだような形の手拭いだった。
 きょとんとそれを見つめる千鶴の視線の先で、左之助の太い指が手拭いを開いていく。
 なんだろうという好奇心に、千鶴はその動きをじっと見つめていた。
 白い手拭いが開かれて、それがそのまま千鶴に差し出される。
 手拭いの上に乗せられた、白にも見える淡紅色。
「桜の、花……」
「あぁ、土産……つーには元手がかかっていなくて、安上がりだけどな。ゆっくり花見なんざできそうにねぇだろうから、まぁ、なんだ。これで我慢してくれや」
 照れくさそうに言いながら、左之助がさらに千鶴に向かって差し出したそれを、千鶴はゆっくりと伸ばした手で受け取った。
「ありがとうございます」
 不意打ちの優しさに、お礼を言う声が震えそうになる。
 うっかり自分で自分の心を追い詰めていたときに差し出される優しさは、いつも以上に心に沁みて、泣きたくなる。
 泣きたい気持ちを堪えなくちゃいけない。そう思っていると、大きな手の平が頭の上に乗せられた。
 じんわりと伝わってくる、人の熱。
 特になにを言うでもなく、ただ、幼い子供をあやすのと同じように触れてくる手の平に、千鶴はふっと微笑を浮かべた。
 もう少し、この手の平に甘えていたい。甘えていてもいいだろうか。
 なんとなく、左之助はそれを許してくれそうな気がしたから、千鶴は勝手に甘えることに決めて、頭の上の左之助の熱をそのままに口を開いた。
「……きれい、ですね」
 花を壊してしまわないよう、慎重に持ち帰ってくれたのだろう。
 小振りの花は、花弁を散らすことなく元の形を保ったままだ。
 ふっと心が緩む。
 感じたままを言葉にすると、嬉しそうに左之助が頷いてくれた。
「ああ、きれいだろう。……さすがに枝を折るわけにはいかねぇからな」
「……十分です。枝を折って持ち帰られたら、逆に困ります。花が可哀そうですよ。桜は繊細だから、枝を折っちゃ駄目なんです」
「ああ、判ってるから、花だけだろ。それだって風に吹かれて落ちてたやつ……っと、無粋すぎたな、これは」
 余計なことを言ってしまったかと顔を顰める左之助に、千鶴は緩く首を横に振った。
「いいえ。そういうので、本当に、十分なんです。ありがとうございます」
 にこりと微笑むと、左之助の目が細められた。
 優しく緩んだ左之助の目元に、千鶴は笑顔を深める。
 頭を撫でていた手の平が、もう大丈夫だろうというように、ぽんと軽く千鶴をあやして、離れていく。
 少しだけ。本当に少しだけ、それを淋しいと思いながら、けれど口に出さずにさらに笑った千鶴に、左之助が、「来年は」と言った。
「はい?」
「来年は、一緒に行けたらいいな、花見」
「はい。その時は、是非、ご一緒させて下さい」
 明日のこともわからないけれど、ささやかな約束くらい交わしても許されるだろう。
 いま交わした約束の温かさがあれば、ふと忍び込む闇に心が侵食されることもないような気がして、千鶴は満面の笑みを浮かべた。

                                     了

旬のものは、旬のうちに。
薄暗くてすみませ……っ。
おまけに左之が偽者くさいっすね。
重ね重ねっ!!(土下座)