守りたい人


「千鶴っ!」
 ずっと聞きたくて仕方がなかった声を聞いたときに。
 ずっと待ち望んでいた声を聞いたときに。
 声の主を振り返るまでの、わずかな時間の中で、千鶴の覚悟は決まった。
 本当は、ずっと前に決まっていたのかもしれなかった。
 その覚悟を受け入れる切欠を待っていただけで。
 いつもそうしてもらっていたように、背中を押してもらえる瞬間を待っていた。
 そして、その瞬間が、いま訪れた。
 動揺や迷い、躊躇がなかったと言えば嘘になる。けれど千鶴は、ゆっくり息を吸い込み、吐き出して、振り返った。
「どちらさまですか?」
 そう左之助に向かって問いかけた声は、自分でも思っていた以上に冷静で、驚きに目を見張った左之助の表情から、ああ、上手くいったんだ。ちゃんと欺くことはできたんだと、千鶴はほっとした。
 ほっとしてしまった自分に、少しばかり寂しさを覚えたけれど、もう後戻りはできない。
 これからはわずかな失敗も許されない。些細な仕草で、ついた嘘に気づかれてしまうかもしれない。
 左之助に気づかれるわけにはいかない。千鶴は確かに選んでしまったのだから。
 あの日、新選組を出ると決めたときと同じように、自分で、自分のいる場所を。
 甘く、優しく呼んでくれる人じゃない人を。少しずつ歪んでいこうとする人の傍を、千鶴は選んだのだ。
 左之助のことや今までのことを忘れた振り、という、ずい分卑怯な手段を用いて。
 もしかしたら、山南に抱いている千鶴の感情は、左之助に向けていた感情とは違い、ただの同情かもしれないし、千鶴自身、なにか勘違いをしているだけなのかもしれない。――たとえば、そう、人ではない者同士が、互いの存在を慰めにして、寂しさや孤独感を埋めるため、逃れるために身を寄せ合っているだけのような。それは想いとは違って、ただの思いなのかもしれなくて。
 それでも決めた。
 どんな形の思いでもいい。ずっと、山南の傍にいる。
 恨む気持ちや、憎む気持ち、そんな負の感情をすべて昇華して。
 淡く色づいた左之助への気持ち、それすらも過去のものへと変えてしまえるくらいに、強い決意で。
 敬助様、と、今まで一度だって呼んだことのない、口にしたこともない山南の名前を言葉という形にした瞬間、千鶴はふと心が軽くなった気がした。
 きっと、山南の名前を呼んだ瞬間に、千鶴がそれまでのすべてを捨てて、今この瞬間からはじまるすべてを受け入れたからだ。解き放たれたからだ。
 そう思った。
 そして、すべてを忘れた振りをしているこの方法が、山南にも有効なら。
 きっと、ずっとなんて骨が折れることかもしれないけれど、すべてを忘れた振りをして、狂った振りをして、壊れた振りをして。もしもそんなことで山南すら騙せるなら、歪みに引き摺られていく山南を、引き止めることができるんじゃないか、山南の人の部分を、壊れゆこうとする心を、千鶴が守ることもできるんじゃないか、そう思った。
 山南は土方と違う厳しさを持っている人だけれど、新選組の幹部の人たちみんながそうだったように、不器用だけれどやっぱり優しい人だ。
 きっと山南も左之助と同じように、知人が崩れていく様を目の当たりにして、放っておける人ではないだろう。
 少なくとも千鶴の存在が新選組にとって邪魔になってしまうその瞬間までは、山南も千鶴を見放したりしないだろう。
 千鶴は嘘をつくことは不得手だけれど、山南と山南の心を守るための嘘ならつける気がした。
 あの優しかった頃の山南を取り戻せるなら、欺いてみせる。
 現に左之助を欺けているのだから、きっと、山南も欺けるだろう。
 たった一月で、こんなにも簡単に心変わりをしてしまう自分の薄情さを、千鶴は内心で嘲笑う。
 左之助を、守りたかったのは本当だ。
 千鶴を背に庇って、鬼の力に怪我を負う姿を見たくなかった。傷ついて欲しくなかった。――拒絶されてしまうと怯える心と同じくらいに、そう思っていた。
 本当は、左之助の傍を離れたくはなかったけれど。叶うなら、傍にいたかったけれど、千鶴が離れることで左之助が傷つかなくてすむなら、余計な怪我をすることがなくなるなら、離れるくらいなんでもないと思った。
 新選組十番隊組長として生きている左之助に、それ以外の余計なものを背負わせてはいけない。
 千鶴の姿を見る瞬間の左之助の表情に、苦しめて、縛り付けているのだと悟った。
 気づいてしまった以上、新選組組長として生きている人を、千鶴の事情に巻き込んでいいわけがなかった。
 それは、山南に対しても当て嵌められることだけれど、山南は「鬼」としての千鶴を必要としているから、いざというとき、左之助と違って、千鶴を切り捨てるだけの余裕を持っているんじゃないかと思う。
 それはそれで寂しいと思うけれど、それは千鶴のただの我儘だ。
 山南のことを守りたいと思う千鶴の、勝手でしかない。
 だいたい、山南と千鶴は互いに想いを交し合った仲ではない。
 山南がどういうつもりだったのか判らないけれど、肌を合わせたことは何度かある。それでもそこに甘いものはなく、合意ではなかったのだから、当然そんなものがあるわけもなかった。
 羅刹となってから、少しずつ人から遠ざかっていこうとする山南を、守りたいと思うようになった切欠がなんだったのか、どうしてだったのか、今も千鶴にはわからない。そのわけを知ろうとも思わない。
 そもそも自分の心変わりすら、千鶴は想像したこともなかった。
 ずっと左之助だけを想って、山南を恨み、憎みながら生きていくしかないのだと思っていた。それなのに……。
 千鶴の頭を撫でる左之助の無骨な手の平に、心が少し揺れたけれど、決意は変わらなかった。
 左之助に山南さんを頼むと言われて、千鶴は即座に頷いた。
 必ず、山南を守ろうと思った。
 もしそんな風に思っている千鶴の気持ちを知られてしまうことがあったとしたら、新選組元総長を務めていた山南を守るなどと驕りすぎだ、と、厳しかった土方あたりには、そう言われてしまうかもしれない。山南にだって、あなたに守ってもらうほど堕ちてはいませんよ、と、それくらいの嫌味を言われてしまうだろう。千鶴自身、実際、自分はなにを驕っているのかと、思う。
 そう思いながら、それでも、新選組のことを考え、思いすぎるが故に狂気へと向かう山南を引き留め、守れるのは、もう自分しかいないのだと千鶴は思っていた。
 否、……思いたいだけなのかもしれない。
 他の誰かでは、もう、山南を止められない、と。
 そう思わなければ、千鶴が自らの意志で山南の傍にいる理由がなくなってしまうから。
 傍にいる理由を用意してしまうくらいには、千鶴にとって山南は大切で。守りたい人で。
 そんなものを用意しないと傍にいられないほど、千鶴と山南の係わりは曖昧で、脆い。
 どうして。なぜ、すべてを賭けても守りたいほど傍にいたい人は、目の前の人じゃなかったんだろう。
 泣きたいような気持ちで、千鶴は思う。
 あのまま左之助の傍にいることができたなら、甘い夢を見られただろうか。
 もしも千鶴が鬼ではなく、ただの、異質な力も持たない普通の女の子だったなら、いまも左之助の傍にいられたかもしれない。
 今さら考えても仕方がないことを考えてしまうのは、想いを告げることができなかった未練が少しばかりあるからかもしれない、と、千鶴は内心で苦笑を零した。
 左之助が千鶴を探してくれていた。そして見つけてくれた。手を伸ばしてくれた。目を逸らすことなく、以前のように真っ直ぐに、千鶴の姿を優しい瞳に映してくれている。
 ずっと、ずっと、そうしてくれたら嬉しいと思っていたことが、今、実現している。
 なんて嬉しいことだろう。それだけで十分だと思える。
 千鶴の心は、もう、左之助じゃない人の隣を選んでいる。望んでしまっている。
 今さら想いを言葉にしても、それは自己満足でしかない。言葉にする機会だって、ついさっき、自ら捨てた。
 疎まれたくなかった。嫌われたくなかった。なにより目を逸らし、背を向けられてしまったことが悲しく、怖かった。
 千鶴は鬼。人間とは違う。だから仲間じゃない。仲間にはできない。新選組のみんなに、誰より、左之助にそんな事実を突きつけられるのが怖くて、千鶴が傍にいなければ、もう他の鬼に狙われ、傷つけられることもない。それがみんなを守ることになるからと、それを言い訳にして逃げ出したけれど、左之助は、千鶴が考えていた以上に、千鶴のことを思ってくれていたのだろう。
 とても優しくて仲間思いだから、千鶴が新選組を出る切欠を作ってしまったことに責任を感じて、探してくれていたのだろう。
 左之助は千鶴のことを大切な仲間だと、そう思ってくれていた。
 ひとりの女として、左之助への淡い想いを告げたかった。仲間としてではなく、ひとりの女として見て欲しかった。求められたかった。けれど、探してくれていた。見つけてくれた。千鶴を真っ直ぐに見てくれている。それだけで十分、千鶴の心は満たされた。満足だ。
 捜してくださって、見つけてくださって、ありがとうございます。
 言葉にはできない思いをすべて、千鶴は、
「幸せか?」
 そう問われた言葉への返事に込めた。

千鶴視点です。
思いがけない方向に、結果が出ました。というか、出しました。
誤解が解けないままだったら、きっとこんな展開だってありえたかも、な、if.
次でラストになります。