守りたい人
望月の夜まで、あと、数日だなぁ。と、千鶴の家の裏木戸の前に立ちながら、平助はぼんやりとそう思っていた。 あと数日のうちには甲府へと発つ。その前に、千鶴の様子をただ見に来ただけだというのに、羅刹となって以来、変に良くなり過ぎた聴力のおかげで、そこそこ距離は離れているというのに、縁側にいる山南と千鶴の会話は丸聞こえだ。 ずいぶんと久しぶりに、山南の穏やかな声を聞いた。 それに安堵し、嬉しく思い、しかし、平助は盗み聞きをしている気分になりながら、なるべく、会話に意識が向かないようにと月を見つめるけれども、気になって仕方がなかった人物たちの様子を見に来たのだから、気が抜けるより早く、意識はそちらに戻っていってしまう。 ここに辿りついてからずっと、それの繰り返しだ。 困ったなと思いながら、もう一度視線を動かせば、年上の友人の少し苦しそうな表情を見つけて、平助は目を細めた。 「左之さん」 もう帰ろう。そういうつもりでかけた声は、けれど、左之助の遮るような呼びかけに、封じられてしまった。 「平助、お前は本気だったか?」 「へ?」 「千鶴のこと」 唐突な問いかけに素っ頓狂な声を上げれば、左之助が苦笑混じりに千鶴の名前を口にする。 千鶴が新選組を脱走に近い形で出て行き、しかし、その行き先が分からなくなったとき。 千鶴を黙って見逃した左之助に、千鶴を探そうと持ちかけたとき、平助は、「千鶴が戻ったらもう遠慮はしない」と、宣戦布告を叩きつけたことがある。 きっと左之助はその時のことを言っている。 それから、平助がいないときに、左之助ひとりで千鶴が本当にいるのかどうかの確認にここへ来て、うっかり千鶴に声をかけたその時に、千鶴の選択――このまま山南の傍に居続けるという望みを受け入れたことを、平助の意思を聞くこともしなかったこと、それを申し訳なく思いながら、本当にこれで良かったのかと、確認してくれているのだろう。 いまさらそんな気遣いが必要な間柄でもないだろうに、目の前の友人は、こんなときでさえ律儀で、面倒見がいい。 「あー」 返事になりきらない声を発しながら、平助はがりがりと頭を掻く。 「俺は、……うん、本気だったよ」 答えながら、平助は縁側で寛いでいるふたりを見る。 平助の目には、山南の羅刹と鬼への異常な執着などまるでなかったかのように、ふたりは仲睦まじく見える。それが少し、悔しい。 平助はいつだって、千鶴の隣にいたかった。千鶴をずっと笑顔でいさせたかったし、幸せにしてやりたいと思っていた。 平助自身も千鶴の隣で笑っていたかったし、幸せになりたかった。 どうして千鶴の隣にいるのは、自分じゃないんだろう。 どうして山南さんだったんだ。 訊けるなら、千鶴に訊いてみたい。平助はそう思う。 千鶴が左之助を、――平助よりもずっと千鶴の心の近くに近づいていただろう左之助を、一生を共にする相手として選んだのであれば、平助だって、その選択は当然のことだと、もう少し簡単に納得できただろうし、受け入れられただろう。 けれど千鶴が選んだ相手は、平助ではなかったし、左之助でもない、千鶴を怯えさせていた山南だ。 女子の気持ちなど、本当に解らないものだ。 「そうか」 平助の答えに左之助が静かに頷いた。 その静かさに、平助は少しだけ苛立ちに似たもどかしさを感じながら、口を開いた。 「左之さんは? 左之さんだって、千鶴のこと本気だったんだろ?」 何事にも恐ろしく短気な性質の友人が、千鶴に関することなら、人が変わったように辛抱強かったことを思いだしながら平助が問いかけると、左之助が苦く笑った。 「あぁ、まぁな」 自嘲混じりの短い言葉に、平助はむっと頬を歪める。 まだ千鶴に心があるくせに、物分り良く受け入れる友人の気持ちが、平助には解らない。 本気だと頷いたくせに、まるで本気ではなかったかのようなその執着の薄さを、素っ気無さを、理解できない。 「左之さんこそ、本当にいいのかよ? 千鶴のこと、諦められるのか?」 「蒸し返すなよ」 「大事なことだろ。今ここでまた選択を間違ったら、左之さん、きっと一生後悔することに……」 「平助」 静かな、けれど力強い呼びかけに、平助の言葉は遮られた。 有無を言わせない声音に、平助は言葉を奪われるままに唇を閉ざし、噛み締める。 悔しい、と、本気で思う。 平助だって、千鶴のことを諦められていない。もし、耳に届いている会話の端々に、山南の声音に、千鶴を気遣い、思うものが感じられないのなら、すぐにでも山南から奪って、千鶴を取り戻す。そんな気持ちでいるのだから、左之助だって、心の奥底では平助と同じ気持ちでいるだろうに、左之助はそんな素振りも見せない。 大人の余裕か、ただ格好つけているだけなのか、判断がつかない。 数年来の友人なのに、左之助の気持ちが解らない。それも悔しい原因のひとつだ。 「なぁ、平助」 静かな、けれど、苦笑を滲ませた左之助の声に、平助は視線を向けた。 月明かりの下に浮かぶ友人の表情は、やっぱり少し苦しげで、けれど、どこかさっぱりしている印象を受ける。 「……千鶴が、自分で決めたことだ」 「でも、左之さん、千鶴は山南さんに言わされただけかもしれない。脅されて……」 「お前、そんなこと少しも思ってねぇくせに」 「……思って、ないけどさ……」 くつくつと可笑しそうに友人は笑って、平助はむっつりと口を噤んだ。 耳に届くふたりの密やかな会話から、そんな気配は少しも感じられない。 ただ平助の、「そうだったら良かったのに」という願望が、口をついただけだ。 「まぁ、正直、諦めはついてねぇわな。けど、これ以上、千鶴を苦しめる役回りはごめんだ」 「――左之さん、散々、千鶴を苦しめて泣かせたもんなぁ。それもひとりで」 「うるせぇぞ」 「本当のこと言われたからって、睨むことないじゃん」 「平助」 「はいはい」 わずかな殺気を含んだ左之助に本気で睨まれた平助は、けれど、その殺気を軽い口調で流し、肩を竦めて口を閉ざした。 左之助から外した視界の端で、千鶴が穏やかに笑っている。 ああ、悔しい。 平助が得られなかった笑顔を、千鶴は惜しみなく、当たり前に山南に与えている。 「千鶴が……」 「なんだ?」 「左之さんは、千鶴が選んだ一番の幸せを守りたいんだな」 「……お前、俺の言いたいことを先に言うんじゃねぇよ」 「左之さんにばっか、格好つけさせてられねぇじゃん」 「……格好悪いだろうがよ、俺は。好き合ってたかもしれない女に、見事に袖にされたんだぜ。それも自分で、袖にされて当たり前のことをしちまって、離しちゃいけねぇ手を離して、逃がしちまった。自分が情けねぇよ」 はぁ、と、左之助が重苦しい溜息をついた。 後悔の度合いがわかる溜息に、左之助の本気が判る。 「まぁ、だから、千鶴が決めたことを見守ることしかできねぇな。あいつが守りたいと願ったこと、それが守れるように。幸せになれるように」 「うん。そうだな」 左之助の言葉に、平助はこくりと頷く。 望むことは、千鶴が幸せであることだ。 笑ってくれていること。 泣かないように。悲しまないように。千鶴の心を守ってくれるだろうか、今の山南なら。 腕に傷を負い、それ以降、まるで人が変わってしまったようになった挙句、現実から目を逸らすように変若水を飲み、羅刹の力にとり憑かれ、血に狂った山南ではなく、穏やかな――口では厳しいことを言うけれど、本当は物静かな一面があって優しい、……試衛館にいた頃のような山南なら。 平助の見つめる先で、山南が千鶴に自分の羽織を掛けてやっていた。 千鶴がそれにことりと首を傾げて、小さく微笑む。 嬉しそうに、幸せそうに微笑む表情は、けれど決して、山南本人には向けられない。 山南の視界から表情を隠すように、千鶴は笑む。 山南に笑んでいることを知られるのを、まるで怖がっているみたいだ。 そんなことを思いながらふたりを見ていた平助の耳に、左之助の声が聞こえた。 「大丈夫だと思うぜ。今の山南さんなら、千鶴を守ってくれる」 「うん」 平助の心の中を読んだような言葉に、解っている、と、平助は頷く。 見ていれば解る。山南がどれだけ千鶴を大事にしているのか。大事に想っているのか。 千鶴がどれだけ山南を大事に思って、守ろうとしているのか。ただ見ているだけもそれは伝わってくる。 左之助は、千鶴がすべてを忘れたといっていたけれど、たぶん、それは嘘だろう。千鶴なりの決別の――新選組や左之助との別離の方法だったんじゃないかと、平助は見ていて思う。 山南と千鶴の間にどんな会話とやり取りがあったのか、平助には知りようがないし、判りもしない。 なにがあって、千鶴の気持ちが変化したのか、想像もできやしない。 平助に判ることといえば、千鶴はなにも忘れていない、忘れた振りをしているということだ。 たぶん、――推測でしかないけれど、千鶴は山南の傍にいるために、山南を守るために、忘れた振りをしたんじゃないかと、想像する。……否、そう思う。 羅刹となって以降、少しずつ本来の自分を失い、狂気に向かう山南を留めるために。人としての心を守るために。 きっと、千鶴はまだ、左之助を恋しいと思っているだろう。けれど、その気持ちも、いつか山南を愛しいと思う気持ちに、薄れていくのだろう。 だったら、山南とふたりで、幸せになって欲しい。いつでも笑っていて欲しい。 願うことは、もう、それだけだ。 「……平助」 「ん? なに?」 「山南さん、離隊するってよ」 「え!?」 左之助言った言葉に驚いて、平助は振り返った。 酷く真剣な眼差しをした左之助が、じっと視線を投げかけているのは、山南と千鶴のいる場所だ。 視線を向けたまま、左之助が続けて言う。 「羅刹隊は平助に預けて、離隊する。夕べ、土方さんにそう言ったらしい。理由は言わなかったらしいが、山南さんがずいぶん穏やかな目で申し出たから、土方さんはそのまま訳は訊かずに、離隊を了承したってよ」 「それって、山南さんは千鶴とずっと一緒にいるってこと?」 「そういうことだ」 「……なんだよ、それ。俺の知らないところで、全部、勝手に決まっちゃってんじゃんか」 「悪い」 「うーわー、もう、やってられねぇ」 盛大な溜息を零しつつ、平助はがっくりと肩を落とした。 平助ひとりだけが蚊帳の外。それに気づかずに気を揉んで、いろいろ考えていたり、思っていたりしているのに、全部空回りをしているとは、いったいどういうことだろう。 「悪かったよ、平助」 少しだけ困ったような左之助の声に、けれど、素直に頷くのも癪だと思った平助は、もう一度、 「やってられねぇ」 そう呟いて、また、溜息をついた。 それから夜空を見上げる。 望月まで、あと数日。 もう顔を合わせることも、言葉を交わすこともない千鶴は、山南と一緒に月を見るのだろう。 やっぱり山南が羨ましいと思う一方で、早く山南と視線を合わせて、千鶴が笑えるようになればいいと、平助はそう思いながら、祈るような気持ちで瞳を閉じた。 終 |
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
千鶴ちゃん家出イベントから派生した創作、山南さん編(笑)
これにて終了となります。