きょとん、と、大きな瞳を瞬かせた後、
「……ええええぇっ!?」
 千鶴は屯所内に響き渡ったのではないかと思えるほど大きな声で、叫んだ。


ひかり


「そんなに大きな声を上げて驚くようなことか?」
 千鶴の声に驚いたというより、幾分呆れた口調で、左之助が溜息混じりに言った。
 左之助の言葉に、千鶴は「でも……!」と反論の声を上げかけたものの、確かに、少しばかり大きな声を上げすぎたかもしれないと反省して、
「すみません」
 小さな声で謝った。
 ぽんぽんとあやすように、左之助が頭を撫でる。その大きな手の平の感触に、千鶴は微かに戸惑った。
 この戸惑いは最近感じるようになったものだ。
 どうにもくすぐったいような、どこかが苦しいような気分になる。
「土方さんがいなくて、よかったな」
 揶揄を混ぜた声がそう言って、千鶴は確かにその通りだと、ほっと胸を撫で下ろす。
 先ほどあげた叫び声は、きっと、屯所内――少なくとも両隣の幹部の人間の部屋には、確実に届いているだろう。
 もし今の大声が運悪く鬼の副長の耳に届いていれば、「うるせぇ! 静かにしろっ!」と、頭の中に響き渡るほどの大声で、怒鳴り込まれているかもしれなかった。
 日々、いろいろなことに忙殺されている副長が、はたして忙しい仕事の合間を縫って、千鶴の大声にわざわざ駆けつけるとは思えないけれど、土方の逆鱗に触れかける自分の間の悪さを、千鶴とて、そろそろ自覚しはじめている。
 左之助の言うとおり、今日は副長が不在で本当によかった、と、千鶴は心底、そう思った。
 ついでにいえば、なにかと千鶴の心の臓を縮み上がらせる一部幹部も不在でよかった、と、胸を撫で下ろしたことは、目の前の幹部にも内緒だ。
 いい加減、聞き慣れたというか、言われ慣れたといえども、毎回毎回「斬るしかないね」と笑顔で言われるのは、勘弁してほしい。
 特に最近は、くだらない世間話を偶然聞いただけでも言われてしまう。からかわれているだけだと思いたいのだけれど、否、十中八九からかわれているだけなのだろうけれど、沖田の場合、その時の気分で言うものだから、本気なのかそうでないのかが千鶴には読めない。判らない。
 そんなことを考えていると、「だからな、千鶴」と、左之助の声が言った。
 千鶴ははっとしながら左之助に視線を戻す。目に映るのは、どこか楽しげな表情。
 一瞬、どうして原田さんはそんなに楽しそうなんですか、と、問いかけそうになった千鶴は、自分が大声を上げる切欠になった原田の言葉を思いだした。
 曰く。
「千鶴の髪を梳いてみたい」
 だ。
 ちなみに原田は今、千鶴を監視しているはずである。
 監視するために来ているくせに、「暇だから話し相手になってくれよ」と、堂々と部屋の中に足を踏み入れるのは、原田と藤堂、それから永倉の三人で、時々、監視対象者である千鶴のほうが、これでいいのかと戸惑うくらいに、三人ともがそれぞれ自由奔放に千鶴の部屋で寛ぎ、好き勝手なことを言い、去って行く。
 そして今回も、用意してもらった鏡の前に座った千鶴に、原田は想像もしていなかったことを言って、千鶴を叫ばせたのである。
「な、いいだろう? 千鶴のために買ってきたんだぜ、それ」
 それ、と言いながら左之助が指差したものに目を落とし、千鶴は困ったように左之助に視線を戻し、また櫛に目を落とした。
 左之助が巡察のついでに千鶴のために購入してきた物は、彫り細工の見事な柘植の櫛だ。
 名のある名工のものではないだろうけれど、腕の良い職人が作った、普段使いにはちょっと勿体無いと思えそうなほどには、良い品だと判る細工。櫛目も細やかで、千鶴の柔らかく細い髪質にはぴったりだろうそれを、不意に、左之助の指が取り上げた。
「あ……」
 慌てて取り返そうとする千鶴だったが、左之助がそれを簡単に許すはずがなかった。
 優しげに目を細めた左之助の表情だが、千鶴の否を許さない雰囲気がある。
 なんとなく反応を面白がられている――ような気がする。……気のせいかもしれないが。
 持ち上げかけた手を、千鶴は諦めたように膝の上に落とした。
 小さく、小さく、嘆息する。
 雑事をこなしている最中に乱れた髪を結い直したかっただけなのに、ここではそんなこともうっかりできないのかと、間の悪さを心の中で嘆きつつ、千鶴は白旗をあげるように、
「…………お願いします」
 と、言った。

 左之助は丁寧な仕草で紐を解き、それから髪を纏めている和紙も、丁寧に取り払った。
 さらり、と、結い上げられていた千鶴の髪が、細い肩や背中に流れ落ち、細い首を隠す。
 千鶴に気取られないようそっと息をつき、左之助は目を細めた。
 白く細い、頸。まだ幼いとわかる頼りなさだ。そして同じように細く頼りない肩。
 ああ、本当にまだまだ子供なんだなと、千鶴の頼りない背中を見つめ、意味もなく苦笑を零しながら、左之助は傍らに置いていた櫛を手に取った。
 さらりと指から零れ逃げそうになる髪に、ゆっくりと櫛を当てて、大切な宝物を扱うように櫛付ける。
 癖のない、艶やかな髪がさらりさらりと指を滑る。その感触を楽しみながら、ああ、柔らかだと左之助はそっと吐息を零した。
 手の平で何度も触れたことのある髪だが、その時は些か乱暴に掻き撫でるばかりで、柔らかな髪質を意識したことはなかった。
 絹糸よりも柔らかな感触に、次に触れる時はもっと丁寧に、優しく撫でなくては、と、思う。
 左之助たち男と違って、女子はいちいちすべてが繊細だ。なにもかもが壊れやすく映る。
 少なくとも、左之助の印象としてはそうだ。
 守るべき対象。
 守りたい対象。
 ああ、そういえば目の前のこの子供も、本当は女子だったと、今さらのように思い出す。
「原田さん?」
 遠慮がちな千鶴の声に呼ばれて、左之助は物思いから我に返った。
 手が止まっていたらしい。
「ん、どうした?」
 ゆっくりと手を動かしながら、左之助は素知らぬ顔で問い返した。
「え……っと、いえ、あの……なんでもありません」
 どうかなさったんですか? と、きっとそう問いかけたかったのだろう千鶴は、しかし、左之助の飄々とした態度に口を噤むことを選んだようだった。
 言葉を濁すようにそう言って、黙り込んだ。
 ちちち、と、外を飛び回る雀の鳴き声が聞こえる。
 穏やかで、のどかな時間だった。
 一歩屯所をでた時から、殺伐とした時間を持つことになるとは思えないほどの長閑さだった。
 丁寧に、丁寧に、左之助は千鶴の髪を櫛づける。
 こののどかで、穏やかで、優しい時間がもっと続けばいいと思いながら、しかし、ずっと髪を梳いているわけにもいかない。
「千鶴」
 梳き終えた。ありがとうな。
 言いながら、櫛を置いて、左之助はそっと千鶴の背後から離れた。
「ありがとうございます、原田さん」
 少し照れた声音で千鶴が言って、それから慌てたように体の向きを変えようとするのを視線で制しながら、左之助は、
「不躾な我儘言って、悪かったな」
 と、いつものように千鶴の頭に手を置いた。
 せっかく綺麗に整えた髪を乱さないよう、撫でる。
 さらさらと、それでいてひんやりとした感触が、手の平に気持ち良く馴染んだ。
「髪、結い上げるんだろ」
「あ、はい」
 左之助の言葉に千鶴が頷いて、差し出した櫛を取った。
 後ろ髪を持ち上げて、器用な手つきで和紙で髪を纏めて、手早く結い上げていく。
「器用なもんだな」
 娘らしい髪型にするよりは簡単なのだろうが。そう思いながらも感心して言えば、
「……ずいぶん楽ですよ。簪も要らないし、ただ、結い上げているだけなので」
 すっかり左之助たちが知っている髪形に結い終えた千鶴が、くるりと体ごと向き直って、言った。
「髪を梳いてくださって、ありがとうございました」
 深々と頭を下げる千鶴に、左之助は苦笑を零す。
「おいおい。礼なんて言うなよ。俺がやりたくてやったんだ」
「それでも、です。男の――武士である方に髪を結わせるなんて」
 恐縮する千鶴の頭を、左之助は優しく撫でた。
「言ったろ。俺が不躾な我儘を言っただけだ。年頃の娘の髪に触れて、悪かったな」
「そんなっ!」
 ふるふると千鶴が頭を振って、左之助の言葉を否定した。
 真っ直ぐな心根の娘の瞳に、心から恐縮している色が浮かんでいるのを見て取って、左之助は苦笑を深くする。
 もう少し肩の力を抜いていればいいのにな。そう思う一方で、それを許していない自分たちの裏事情とやらに、嘆息を禁じえない。
 巻き込まれた千鶴は、本当に間が悪かった。
 巻き込んだ人間の仲間としては、かなり薄情な言い分だとは思うが、そう言うしかない。
 ただ父親の消息を知りたくて京に出てきた娘に、酷なことをしているという思いはある。
 人道に反することをしている後ろめたさを隠すために、ただの娘を拘束して、監視して、自由を奪っている。
 不自由をさせて、申し訳ないなと本気で思っている。――その一方で、だが、幕府から内密にと言われ、任された変若水のこと。そこから生まれた羅刹のこと。秘密を知り、その厄介さを知ってしまったのだから、多少の不自由は我慢しろ。すぐに命を奪われなかっただけ、マシだと思ってくれ。表には出してはいけない秘密に触れた、自分の間の悪さ、運のなさを恨んでくれ、とも思う。
 知ろうと思って知ってしまったわけではない千鶴にしてみれば、とても一方的で、理不尽な言い分だといいたいだろうけれど、左之助たちが今身を置いている世界は、そういうところなのだ。
 血腥く、暗い闇の世界。
 千鶴のようにまっすぐで、純粋な瞳と魂を持った娘には似つかわしくない場所だ。
 ――ああ、だから、だろうか。
 腑に落ちて、左之助は頬を歪めた。
 明るく、光り輝くものを求めて、それをみつけたからこそ、取り込んだのかもしれない、自分たち新選組は。
 斬り捨ててしまえば簡単だったものを、そうしなかった理由は、つまりはそういうことだったのかもしれない。
 壬生狼、人斬り集団と陰口を叩かれ、蔑まされ、闇の中に生きるような人間の集まりだけれど、それでも、完全な闇に飲み込まれないよう心のどこかで足掻いていて、光を求め、手に入れたかったのかもしれない。
 触れていたかったのだ。きれいなものに。その光に。
 手を伸ばせば届く、確かなそれら。
 ふと、千鶴と言う存在が欲しいな、と左之助は明確に思った。
 同時に、自分がそう思っているのだから、他もきっとそう思っているだろうと見当をつける。
 特に要注意なのは、無意識にとはいえ千鶴に良く絡んでいる沖田あたりだろうか。
(平助はあからさまだしな)
 他の連中が自覚しているか、していないかはともかく、どうせまだまだ誰も彼もが色恋に興味はないだろうと悠長に高を括っていては、後悔を招きそうだ。さっさと行動を起こしておくに限る。
 千鶴と言う存在は、まだ、新選組の中で不安定なままだ。だが、不安定なままのいまだからこそ、他を出し抜きやすい。
 言い方は悪いが、千鶴の心につけ入りやすい。
 己と言う存在を刻み込むためには、いつでも手を差し伸べられるように、なにくれとなく傍にいることが一番確実だろう。
 ならば、その一歩をいま踏み出しておけばいい。
 不確かな約束を、確かなものに。
「千鶴」
「はい」
「――前に約束をしたことがあっただろう」
「約束、ですか?」
「ああ。綺麗な着物を着て見せてくれるって」
 あれは千鶴がこの屯所に身を寄せて間もない頃だったな、と、左之助は思い出しながら言った。
「ああ、はい。お約束しましたけど……?」
 いきなり何を言い出したのかと、訝るように千鶴がじっと左之助を見つめていた。
 千鶴の視線をまっすぐ受け止めながら、左之助は言う。
「その時は、当然、髪を結うだろう?」
「え? あ、はい、そうですね」
「その時にまた、髪を梳かせてくれねぇか」
「え?」
「ちゃんと女子の格好をする千鶴の髪を、俺が梳いてみたい」
「は……、ええええええっ!?」
 勢いのまま頷いてくれたらよかったのだが、こんなときばかり冷静に、ちゃんと我に返った千鶴の唇から、本日二度目の叫びが放たれた。
 予想通りの反応だ。
 くつくつと左之助は笑いながら、
「駄目か?」
 押し切れば千鶴が否とは言えないだろうと解っていながら、大きな瞳を覗き込み、そう問いかけた。
 左之助の言葉に呆然と目を見開いている千鶴は、「あの、その」と、どう返事をしていいのか判らないというように、言葉を濁している。
 頷くべきか、断るべきか。
 千鶴はどうしたらいいのかと葛藤していることだろう。
 じっと見つめる左之助の視線に耐えられないのか、次第に、千鶴の視線が彷徨いだした。
「千鶴、駄目か?」
 駄目押しのように返答を強請るつもりで名前を呼んで問いかければ、困惑の色の濃い瞳が左之助を見返した。
「千鶴?」
 困惑に揺れる瞳を、まっすぐに覗き込む。
 幼い瞳だった。
 色恋に慣れていない、駆け引きも知らない、純粋でただまっすぐな瞳が、左之助を見つめていた。
「……原田さんは……」
「ん?」
「……いつもそんな風におっしゃっているんですか?」
「いつも?」
「懇意にされてる方とか……に」
 千鶴の言葉に、左之助は思わずきょとんとしてしまった。
 ぽかんと千鶴を見返していると、余計なことを言ってしまったと思ったのか、千鶴が居た堪れないというように俯いてしまいそうになったから、左之助は慌てて「そんなこと言ったことねぇなぁ」と言いながら、くしゃりと千鶴の頭を撫でた。
 そろそろと千鶴が俯きかけた顔を上げる。
「なんだ? 千鶴には俺が、誰にでもそんなこと言うような男に見えるか?」
「いえ……」
 ふるふると、千鶴の細い首が横に振られた。
「すみません。でも、あまりにも簡単におっしゃられるものですから」
「ああ、軽く聞こえちまったか? そんなつもりはなかったんだが」
 左之助は言いながら、こめかみを掻いた。
 酒目当てだと明言しているが、これは島原通いが誤解を招いているのだろう。
 きっと、新八や平助あたりの言動――左之助自身は思っていないが、島原の芸妓たちに良く好意を寄せられているという話――も、一役を買ってしまっているに違いない。
 参ったな、と、左之助らしくなく弱りきった。
「……俺なんかに髪を梳かれるのは嫌だと千鶴が言うなら、無理強いはしねぇが」
 弱りきったまま左之助がいうと、
「嫌じゃありません!」
 思いのほか強い口調で、千鶴が左之助の言葉を否定した。
 口調の強さに呆気に取られる左之助に、千鶴ははっとなったようだった。思わず上げた否定の声に戸惑い、慌てて口元を手で覆っている。
 思わず否定してしまったらしい様子に、左之助は微苦笑を浮かべた。
 千鶴の口調の強さを聞いてみたい気はしたが、きっと、千鶴自身どうしてかなど解らないだろう。その証拠に、千鶴は自分の口調の強さに驚いた顔をしている。
 ここはあえてそれに触れないと決めて、左之助は有無を言わさず畳み掛けることにした。
 狡いと言われようと、譲れない。
 他者よりも抜きん出るためには、遠慮などしていられない。せっかくの機会を不意にするつもりなど、生憎左之助にはなかった。
「嫌じゃねぇなら、千鶴が本来の格好に戻るときには、俺に髪を梳かせてくれるって、それでいいか?」
「……それはっ!」
「嫌じゃねぇんだろ? それとも、やっぱり本当は嫌か?」
「嫌じゃありませんけれど、……原田さん、狡くないですか? 私が断れないような言い方をされている気がします」
 心持ち眉根を寄せて、千鶴が抗議の声を上げるが、左之助は「そうか? そんなつもりはねぇけどな」と、抗議の言葉を受け流した。
「嫌じゃなくても、千鶴が選べばいいんだぜ? 無理強いはしねぇって言っただろ。断る権利がある。どうする?」
 千鶴が少しでもこたえやすいように、どこか面白がるような口調で促せば、珍しく恨みがましい目つきで、軽く睨まれた。
「……狡いです」
 ぽつりと落とされた恨み言。
「原田さんが気になさらないのであれば、別に、髪を梳いてくださっても構いませんけれど」
 少し怒ったような、拗ねたような口調で、千鶴がそう言った。
 その言葉に、左之助の気持ちがほっと緩む。
 これで、やっと、一歩踏み出せたな、と、そう思った瞬間、
「でも、どうして私の髪を梳きたいなんておっしゃるんですか?」
 心底、不思議そうに問いかけられた左之助は、
「さぁて」
 揶揄めいた口調のまま、言葉を濁した。
「ま、いつか時期がきたらその理由は教えてやるけど。千鶴」
「はい?」
「今の約束は、他のやつには内緒な?」
「内緒、ですか?」
 きょとんと目を瞬いて、千鶴が首を傾げた。
「ああ、内緒だ。ついでに、誰がなにを言おうと、髪を梳かせたり結わせたりはしないように、な」
「誰にも、ですか?」
「そう、誰にも。やっぱりこれは、最初に約束を取り付けた人間の特権だろう?」
「……はぁ。良く解りませんけれど、原田さんがそうおっしゃるのでしたら」
 怪訝そうに首を傾げる千鶴に笑って、左之助は「忘れねぇでくれよ」と念を押しながら、千鶴の柔らかな額を隠す前髪に指を絡めた。


                                     終

視点が分れて申し訳ない話になりました。反省。
そして何気にまたシリアスな話になりました。
もっと、いちゃいちゃさせるはずだったんですけどね。おかしいな?
これはまたリベンジをしたいと思います。はい。
いちゃらぶって難しいなぁ。