金魚すくい すくい上げてくれたのは、いつだってたったひとりだけ。 怖い人だって、知っていた。でも同時に、優しい人だってことも、ちゃんとわかっていた。 惹かれていくのに理由なんてなかった。 惹かれる心を止める術は、知らなかった。――たとえ知っていたとしても、止められなかっただろう。止める気なんて、なかっただろうから。 障子の向こうに人が立った気配がした。 コツ、と、控えめに桟を叩く音の後に、低く、周囲を憚るように押し殺した声。 「千鶴、起きているか?」 少し甘めの、けれどしっかりとした男の人の声に名前を呼ばれて、とくりと胸が音を立てる。 誘う声音に呼ばれて、わたしはゆっくりと立ち上がった。 そうっと障子を開いて、深夜に訪れた人を見上げた。 「原田さん」 静か過ぎる夜の中に紛らせるように、名を呼んだ。 とくとくと、心の臓が早くなる。 それを目の前の人に気づかれてしまわないかと心配しながら、もう少しだけ、障子を開いた。 まるで、原田さんを部屋の中に誘うみたいに。 ああ、こんなのはしたない、と、そっと自己嫌悪に陥りながら、でも、それはわたしの心の中だけのことで、原田さんは居候の子供が淋しがっているだけと思っているんだと、それを少し哀しく思いながら自分に言い聞かせてていると、 「どうした?」 心配そうな顔が、わたしの顔を至近距離で覗きこんできた。 あまりの近さに驚いて、硬直したわたしの頭を、原田さんはいつものようにぐしゃぐしゃと撫でる。 「元気ねぇな?」 原田さんが声を出すたび、吐息が唇を掠めていく。 その感触を意識しだすと、駄目だった。だんだんと頬に熱が集まってくる。 ああ、誤魔化しようもないほどこれは赤くなっていると思うと同時、原田さんが苦笑を零して距離を取った。 きっと真っ赤になっているわたしに気づいて、気を遣ってくれたのだろう。 「悪ぃ。近すぎたな」 わたしを揶揄する響きはなく、ただ、本気で悪いと思っている口調で原田さんはわたしに謝った。 「……いえ」 妙齢の男の人と接触したことがないわたしは、原田さんとの距離になれない。 お酒目当てとはいえ、花街に通うことが多い原田さんは、無意識になのか、慣れなのか、とても近い距離で接してくる。 そのたびに、わたしは近すぎる距離に心の臓を壊れそうなほど働かせて、戸惑ってしまう。 どんな仕草で返せばいいのか、まったく判らない。 ただ顔に朱を上らせ、体を硬くして立ち竦んでしまうばかりだ。 「……眠れねぇか?」 気遣いの滲んだ声音に、こくりと頷いた。 眠れません。あなたのことを思い出してばかりで、眠れないんです。 行方不明の父の安否は、もちろん気にかかっている。忘れることはない。けれどそれを上回る気持ちが、育っている。 「そうか。……気晴らしに散歩と連れ出してやりてぇんだけどよ、どうも、土方さんが気づいている風でな」 夜遅くまで仕事をしている副長が、わたしと原田さんの秘密の散歩に気づかないわけがない。それを心のどこかで承知していながら、繰り返してきた夜の散歩を、止める時がきたのだろう。 残念だと思う反面、幾度か許してもらえた息抜きで十分だと、感謝する気持ちもある。 「悪いな」 申し訳なさそうな原田さんの言葉に、わたしは首を振った。 「いいえ。ありがとうございました」 夜の夢はもう終わり。やっぱり少し残念と思いつつぺこりと頭を下げると、原田さんは複雑そうに眉根を寄せた。 花街でも男前だと噂の顔が歪む様は、見ていて胸が痛い。 そんな顔をさせたいわけじゃない。 「十分息抜きをさせて頂きました」 一月に片手で足りるほどの、夜のお散歩は確かにわたしの塞ぎ気味の気分を助けてくれていた。 今でも、そうそう気軽に部屋から出ることもままならない身だけれど、監視つきの身の上にしては、夜の散歩なんて、ずいぶん破格の扱いをしてもらっていたと思う。 「我慢させてばかりだな」 情けなさそうな声でそう言う原田さんに、わたしは笑った。 「みなさまには良くして頂いています」 ここで生活を始めた頃に比べれば、天と地ほどの差がある。 沖田さんは今でも折に触れ、冗談とも本気ともつかない口調で「斬るよ」だの「殺すよ」だのと、面と向かって言ってくるけれど、それもだんだん不必要なほど怯えることもなくなって、慣れてきた。 沖田さんが最近つまらなさそうにわたしを見ているのは、きっと、揶揄かい甲斐がないからかもしれない。 嬉しくないけれど、あれは沖田さんなりの気遣いだったのかもしれない……。これはかなり好意的に見すぎているとは思うけれど。 きっと、これを言ったら、沖田さん以外の人から否定されると思うけど。 「ちょっと話すか」 外に連れ出してやれない代わりに。 原田さんが優しい声でそう言った。 嬉しい。 素直にそう思ったから、わたしは躊躇なく頷いた。 わたしが頷くと、原田さんは片方の障子を大きく開いて、そこに凭れるように座り込んだ。 わたしは原田さんの横顔が見える場所に腰を下ろす。 軽やかな秋虫の鳴き声が響き渡る中で、わたしはしばらくの間原田さんと他愛ない会話を楽しんだ。 あの先が見えない、異常な空気が蔓延している中、わたしを未来が見える場所まですくい上げてくれたのは原田さんだった。 本当は怖い人だって、知っていた。でも同時に、とても優しい人だってことも、ちゃんとわかっていた。知っていた。 惹かれていくのに理由なんてなかった。 惹かれる心を止める術は、知らなかった。――たとえ知っていたとしても、止められなかっただろう。止める気なんて、なかっただろうから。 好きという気持ちを解放させてくれた優しい人は、わたしを一人きりの世界からすくい上げてくれた。 だから心を込めて、 「ありがとうございます」 感謝の言葉をあなたに贈る。 愛しい気持ちと共に。 終 |
10万Hit小説第五弾。
左之千です。
タイトルは麻衣子さんの曲から。
なんとなく。この曲好きだったんで。
しまった。翡翠したくなった(笑)。