いつも賑わっている大通りは、新年を迎えた今日、しんと静まりかえっていた。 商家の表戸はぴったりと閉ざされ、閉ざされた戸の両脇に飾られた門松が、森閑としている通りを、唯一華やかに彩っている。 芯から冷える京の冬の空気は、しかし、不思議と背筋を伸ばさせる。 千鶴は吐き出した息の白が溶ける様を目で追いながら、ぽつりと呟くように言った。 「さすがに静かですね」 言ったとたん、小さく喉の奥で笑う声が耳に聞こえた。 その低く噛み殺すような笑い声に、なにを当たり前のことを言ったのだろうと、恥ずかしさに頬を染めつつ、千鶴はわずかに俯き、歩みを緩める。 歩みを緩めたことで、隣を歩いていた人との間に距離が生まれ、左側の温もりが遠ざかって、自業自得なのに、それを少しだけ淋しいと思っていると、頭の上に触れる大きな掌。最近、すっかり慣れ親しんでしまったその熱と感触。 遠慮など知らないように、けれど、優しく頭を撫でる感触と共に落ちてくるのは、短気だという評判を裏切る、優しく穏やかな声。 「こんなときは不逞浪士たちも大人しく新年を祝って、酒でも飲んでいるんだろうさ。運が良かったな。新年早々参拝客と掏りで賑わっている場所の巡回から、外れてて。初日から大立ち回りは、さすがに遠慮したいからな」 新年早々巡回に当たるなんて不運だと、出かけに散々言っていた左之助が、不満を言っていたことが嘘のように、からりとした口調でそう言った。 頭を撫でていた手が、離れていく。 悪戯めいた口調で言いながら千鶴に笑いかける左之助は、千鶴に歩調を合わせてくれたのだろう。いつの間にか、また、隣を歩いてくれている。 優しい人だな、と、こんなとき特に思う。 千鶴を監視している立場なのに、そんなことを感じさせないように振舞ってくれる。 千鶴が萎縮しないよう、息苦しくないよう、気を遣って、千鶴に合わせてくれる。心を配ってくれる。 短気な性格だと聞いていたけれど、それ以上に思いやりのある人だと千鶴は思う。 一度懐に入れた相手に対しては、芯から突き放せない、案外お人好しな人情家ではないだろうか。 見下ろしてくる優しい瞳を見つめ返すように見上げ、千鶴は微笑むような笑みを浮かべた。 「ちょっとした散歩気分の巡回ですね」 不謹慎だと怒られるだろうかと思いながら、千鶴がそう言うと、左之助は同感だと大きく頷いた。 「参拝客だらけの八坂の巡回組みは、今頃、何回目かの大立ち回りだろうな」 「平助君、大変そう」 「あいつは喜んでいるんじゃねぇか。じっとしていられねぇ奴だからなぁ。組長のくせに、きっと、真っ先に騒動の中に飛び出して行ってるぜ。隊士の連中が振り回されてなきゃいいけどな」 面白がるように言って笑う左之助の言葉に、千鶴は心配になる。 怪我をしなければいいと思っている気持ちが、表情に表れたのだろうか。左之助の掌が、また千鶴の頭に伸ばされた。 千鶴を安心させるように撫でられる。 幼い頃、父が頭を撫でてくれた時のようなくすぐったさとは違う感情が、胸の中に温かく広がる。 不思議な感情だと、千鶴は思う。 今まで一度だって感じたことのなかった感情だった。 いま胸の中に広がっている感情は、いったいなんだろうと思っていると、また左之助の温もりが遠ざかった。 やはり淋しさを感じてしまって、その淋しさの前に、不思議な感情が霧散した。 「心配ねぇよ。平助だって結構な使い手だ。……どうしたって総司や斎藤の影に隠れちまうが、まぁ、同じ年頃に天才肌がふたりもいるんじゃしょうがねぇな」 「平助君も組長ですから、もちろん、大丈夫だと信じています。けれど……」 左之助の言葉に頷きながら、それでも心配は簡単に拭い去れない。 信頼と心配は違うのだ。 平助の無茶は、自分を省みない無茶だ。小さな切り傷を良く負っている。それを知っている千鶴は、年上だと判っていても、ついつい平助が無茶をしていないか、怪我をしていないかと気にかけてしまうのだ。 ずっと年上の男の人、それも武士である平助に対して、とても失礼な心配だと千鶴自身も思うが、こればかりは無意識にしてしまうものだから仕方がない。 平助に向ける心配は、家族に向けるそれにとても似ている。……兄がいたらきっとこんな感情なのかもしれない、と、千鶴は思う。 「千鶴に心配をかけさせるとは、平助もまだまだ未熟だな」 暇なとき、ひよっこに稽古でもつけてやるかな、と、嘯く左之助に、千鶴は困惑の表情を向けた。 左之助が言葉通り本気で平助に稽古をつけるとは思えないが、千鶴が平助の腕を心配していたから、と、左之助なりの言葉で告げて、平助をからかって、それが騒ぎになって、鬼の副長にみんなで叱られるという姿が、簡単に想像できてしまう。 それは大いに困る。 土方の怒声は、本当に、心の臓を縮ませる。 「原田さん……」 本気じゃないですよね、と、思わず縋るように見つめる先で、左之助が苦笑を零した。 三度、頭を撫でられる。 「千鶴は平助の心配ばかりだな?」 「え? そうですか?」 左之助の意外な言葉に、千鶴はきょとんと目を瞬かせる。 「そんなことはないと思いますけど……」 そんなに平助の心配ばかりしているだろうか。 考え込んだ千鶴は、しかし、そんなことはないと思う。 「わたし、平助君の心配だけをしているつもりはありません。ちゃんとみなさまの心配をしていますし、もちろん、原田さんの心配もしていますよ」 平助だけの心配をしていると、そう思われているのだろうか。それは悲しい。そう思いながら告げた言葉に、左之助が困ったように笑った。 「責めているわけじゃねぇんだ。……試すようなこと言って、悪かったな」 「試す……? あの、原田さん、それはどういう意味なんでしょう?」 なにを試されたのだろうか。 左之助の言葉に首を傾げると、左之助の苦笑が深くなった。 「いや、なんでもねぇんだ。聞き流してくれ。――巡回、続けるぞ。さっさと終わらせて、屯所に戻って、熱い茶でも飲んで一息つこうぜ」 京の冬は身に沁みる、と、大げさに体を震わせた左之助が、促すように千鶴の背中を押した。 「原田さん?」 聞き流せといわれたけれど、千鶴としてはなんとなく心に引っかかる言葉だった。だから問いかけるように名前を呼んでみたけれど、左之助は聞こえなかった振りをしているのか、本当に聞こえなかったのか、何も答えてくれなかった。 もう一度呼びかけても、きっと結果は同じだろう。言葉の意味をできればちゃんと教えて欲しいと思ったけれど、千鶴は追求を諦めて、促されるまま、足を進める。 静か過ぎる京の町の中、左之助と千鶴の足音が小さく響く。 離れたところから聞こえてくる足音は、十番組の隊士たちの足音。 千鶴が巡回に同行するようになってから、彼らは組長である左之助の命令で、少しだけ離れて巡回していた。 左之助曰く、わずかな会話から千鶴が女であるということと、変若水のこと、綱道のことなどが隊士たちに知られてはいけないからだ、ということだったが、きっと、隊士たちと千鶴の間にある空気を察してくれてのことなのだろう、と、千鶴は思っている。 そういった細やかな気遣いが、千鶴の心をいつも温かくしてくれているのだと、いつか伝えられたらいいのにと思う。 千鶴の歩調に合わせて巡回を続ける左之助の横顔を、千鶴は盗み見る。 少しだけ退屈そうに、けれど、隙なく周囲に視線を走らせている横顔は、男らしい。 花街の女たちに人気があると聞いたことがあるけれど、なるほど、それも当たり前。納得できると、少しもやもやしているような気持ちで思っていると、 「千鶴」 左之助に名前を呼ばれる。 「はい、なんでしょうか」 「次の俺の非番のときに、土方さんに許可を取ってやるから」 「はい?」 「一緒に行くか、初詣」 「え?」 「その時は、ちゃんと振袖を着てくれよ」 「え? ええっ!? でも!」 女だとばれると困るのではないのか。 戸惑いながら上げた声に、左之助が楽しげな笑い声を上げた。 少しだけ乱暴にくしゃくしゃと、千鶴の髪を掻き混ぜながら、 「そこはちゃんと上手くやってやる。だから、千鶴、楽しみにしてろ。俺も楽しみにしてる」 言いながら千鶴を見つめる瞳は優しくて。 千鶴は、胸の奥が痛いような、温かいような、不思議な感情の広がりをまた感じながら、左之助の瞳を見つめ返した。 千鶴が真っ直ぐ視線を合わせると、左之助の瞳が一層柔らかく細められて、今度は優しく頭を撫でられた。 気恥ずかしいような、嬉しいような戸惑いを千鶴が感じていると、左之助が不意に声を低めた。 「あぁ、でも、他の奴らには千鶴が女の格好をするって内緒な。あと、一緒に出かけるっていうのも。煩いと悪目立ちして、ゆっくり参拝なんてできねぇからな」 ふたりきりで出かけような、と、蕩けそうな甘い声で囁かれて、千鶴は思わず顔を赤らめながら、こくこくと振り子人形のように首を縦に振って頷いた。 その後、約束通り左之助と初詣を済ませた千鶴に、 「振袖着て左之さんと逢引したって、本当かっ!?」 悲壮な顔をした平助が詰め寄って、他の幹部を巻き込んでの大騒ぎになるのは、また別のお話。 了 |
新年創作だけど、新年っぽくないなぁ(涙)