願紡〜紡ぐ願い〜


 まるで脱け殻。
 そこに、ちゃんといるのに。けれど、心はない。
 虚ろな顔で笑い、話し、たった一人の姿を探して瞳を彷徨わせて―――たった一人で泣く。
 夜の静寂のなか、こっそりと、泣く。
 声を殺して。
 ときおり、我慢しきれずに、名前を音にする。
 切なく、狂おしく、求めて。
「……いったい、いつになったらちゃんと笑ってくれるんだろうね、俺の姫君は」
 思わず零した独り言に、ヒノエは苦く笑った。
「俺の」だなんて、冗談でももう言えない。
 言えば苦しめる。
 言ったヒノエも苦しくなる。
「違うよ」と、あからさまな拒絶を受けてしまうから。
「望美」
 何度も呼んだ名前を、ヒノエは口にした。
 冷えた空気に、紛れてしまう密やかさ。
 応える声は、当然ない。
 ヒノエの、生涯たった一人と思った愛しい女性は、あてがわれた部屋の中で、流れる涙を拭うこともできずに泣いている。
 失われた人を。
 失った人を想って、泣いている。
 死者が甦ることはないと判っているのに、少女はそれを望んでいる。
 求めて、求めて、泣き疲れて……そのうち気を失うように眠りに落ちるのだろう。今夜も、また。
 そして、繰り返される、有川譲のいない日常。
「もし、譲が怨霊として甦ったら……それでもお前は嬉しいんだろうね、望美」
 会えるなら。
 もう一度、望美に向けられていた、あの優しくて甘い笑顔を見られるのなら、望美は喜ぶだろう。
 怨霊だという事実など、関係なく、喜ぶのだろう。
「無理矢理引き離した俺たちを、お前は恨んでいるのかな? 責めたい気持ちでいっぱいなのかな?」
 譲が怨霊として甦り、平家に利用されることを防ぐために望美から引き離し、遺体を埋葬したのだったが、あのときの拒絶の声が――悲痛な声がヒノエはいまでも忘れられないでいる。
 たったひとりの名前だけを、声が嗄れるまで呼び続けていた。
 九郎や朔の言うように、望美の気が済むまで傍にいさせてやりたかった。
 けれど、ヒノエたちのおかれた状況は、それを許していなかった。
 望美もそれは解っていただろう。解っていたから、最終的には「諾」と頷いたのだ。――頷いてくれた。
 本当は嫌だっただろう。頷きたくなかっただろう。
 けれど彼女は、ヒノエたちが望美に願い、望んだ「神子」としての姿を。個人的な感情を押し殺し、白龍の神子として振る舞うことを受け入れた。
――否。そうじゃない。ヒノエたちが受け入れさせた。無理矢理、「神子」であることを強要した。
「春日望美」である前に「白龍の神子」であれと。
 源氏についている兵たちの士気にも関わるからと。
「……恨まれて当然。憎まれて当然、かな……」
 ヒノエたちに本当の笑顔で笑いかけてくれなくなったとしても、それは当たり前だった。
 ひどいことを強要した。
 後悔に、ヒノエの心が押し潰されてしまいそうになる。けれども、押し潰されてしまうわけにはいかない。
 耐えなくてはいけないのだ。
 望美に「耐えろ」と強要したのだから、どんなに自分の心が痛くても、悲鳴を上げそうでも、耐えなくてはいけない。 自分だけを甘やかすわけにはいかない。
 健気にも「白龍の神子」としての役割を果たしている彼女に、不様な姿など見せたくない。見せられない。
「……望美、笑ってくれよ」
 自分のためにとは言わない。
 譲に向ける笑顔でかまわない。
 笑ってほしい。……それが、いまの願いだ。
 きっとヒノエだけでなく、望美の傍にいる全員の願い。たったひとつの。
「笑ってくれるなら、俺はなんでもするよ。お前のために」
 本気の心すら、隠してしまおう。望美の幸せな笑顔が、ヒノエの望むもの。
 ヒノエは吐き出した息が夜の空気に紛れるのを、じっと見つめた。
 ほんの数秒。
 瞬きほどのわずかな時間。
 彼女を求める心を押さえこむには、十分とは言えない短さで、けれどヒノエは自分の心を封じた。
 八葉として。ヒノエとして、望美のためにできることを。
 ふと、ヒノエの脳裏に思い浮かんだものがあった。
「……姫君の大切にしていたもの……」
 望美の胸元にいつの頃からかあった、装飾品。
 半透明の鱗。
「白龍の……逆鱗」
 手に入れた経緯を、望美は決して教えてはくれなかった。
 なんのために持っているのかを、教えてくれることはなかったけれど、だれもが薄々気づいている。
 守りたいものを守るために、彼女はいるのだ。
 たぶん、誰の目から見ても甘い綺麗事なのだろうけれど、望美が願っていること。望んでいることは、大切な人たちの幸せ。
 たった、それだけ。
「逆鱗があれば――元に戻れば、お前は笑ってくれるのかな」
 そして、唯一、絶対の人を取り戻すために、彼女は動くだろう。逆鱗を使って。
 悲しい結末を幸せなものに変えて、ヒノエたちの願いどおりに笑ってくれるだろう。
 愛しい人の傍らで。誰よりもきれいで、幸せな笑顔を浮かべて。
 そして、ヒノエは泣き続ける望美を忘れてしまう。
 悲しいと。淋しいと声を殺して泣く彼女を、忘れてしまうのだろう。
「……烏」
 夜のなか、密やかに、ヒノエは間者の一人を呼んだ。
 ヒノエの耳に届くのは、殺しきれない望美の嗚咽だけだ。
「白龍の逆鱗について、仔細漏らさず調べろ!」
 押し殺した声に応じる声はなく、ただ、かすかに感じられていた気配が消えただけだった。
「……望美」
 大切に、壊れ物を扱うような慎重さで、呼んだ名前。
 掠れた声が呼ぶのは、ヒノエの名前ではなく、望美のために命を懸けたひとりの人間の名前。
「譲…くん…」
 澄んだ冬の空気の刺すような冷たさに、ヒノエは少しだけ表情を歪めて――そっと瞳を閉じた。

                             END