ヒレン ああ、まただ。 痛む箇所を押さえて、譲は誰にも気づかれないよう、ぎゅっと目を閉じた。 一歩、二歩。 緊張の只中にありながらも騒がしい一団から少し離れて立ち止まり、譲は内側から裂かれてしまいそうな痛みを、そうしてやり過ごす。 すでに儀式めいたその方法が、ただの気休めでしかないことを譲はよく知っていた。 立ち止まり、ゆっくりと息を吐き出しながら開いた視線の先には、楽しそうに笑う幼馴染。 久しぶりに再会した譲の兄の将臣に、嬉しそうに話しかける、その姿。 見慣れた光景ではあるけれど、痛みを訴えかける心は、そんな光景は見慣れてなどいないと訴えかける。 そうだ。見慣れるはずがない。納得もできない。痛みだって消えてくれない。 ずっと傍にいたのは譲も同じ。 この、過去なのか過去のパラレルワールドなのか、判断もつかない異世界に飛ばされてきてからも、ずっと傍にいた。 一緒にいた時間や出会った順番などが、イコール、相手をより強く思っていることになるとは思わないし、思っていないけれど。 (ずっと傍にいたんだ、俺も) 将臣と条件は変わらないはずだと、譲は思う。 開きすぎた距離を埋めるように、譲は歩き出す。 歩き出しながら、ふと思った。 自分でも馬鹿なことだと思いながら、それでも、思いついた仮定。その内容を考えずにはいられない。 このまま。誰も気づいていない今のうちに、そっと離れてしまったら。姿を消してしまったら、この痛みを感じることはなくなるのだろうか。 少しくらいは、譲のことを案じてくれるだろうか、彼女は。 将臣のからかいに子供っぽい仕草で頬を膨らませ、望美がそのままそっぽを向いた。すると、まるでその瞬間を待ち構えていたようなタイミングで、ヒノエが望美に声をかける。 すっかりヒノエの軽口のペースに乗せられた幼馴染の姿に、将臣が仕方なさそうな表情で肩を竦めている。 ずっと、ずっと、見続けた光景。 世界が変わっても、人間が変わらなければ、目にする光景も変わらないのだと実感する。 「有川先輩と春日先輩って、本当にお似合いだよな」 不意に譲の耳に、クラスメイトの言葉が甦った。 学校中の誰もがそう思うほど、二人が一緒に居る姿は自然で当たり前だった。 痛みを隠し、誤魔化しながら、譲は何度その言葉を聞いただろうか。 そして、これから、何度聞き続けることになるのだろう。 「譲殿? どうかしたの?」 心配そうな声をかけられて、譲は慌てて声の主を振り返った。 「ああ、すみません、なんでもないんです」 いつの間に傍にきていたのか、望美の対、黒龍の神子である朔がいた。 綺麗な顔を心配そうに歪めて、譲を見つめている。 譲を見る朔の瞳の中に浮かぶ感情は、姉が弟を心配する類のもので、少なからず荒んでいた譲の気持ちは落ち着きを取り戻した。 「気分が悪いのなら……」 「いえ、大丈夫です」 「でも、顔色が少し悪いわ」 「ありがとうございます。本当に大丈夫ですよ。少し遅れてしまいましたね、急ぎましょう。おいて行かれてしまう」 譲と朔が立ち止まっていることに気づきもしないで、騒がしい一団は、どんどん歩いて行ってしまっている。 「薄情な人たちだなぁ」 思わず零れた譲の一言に、朔が苦笑混じりに「本当に」と同意した。 少しだけ急ぎ足で仲間たちを追いかけながら、朔は譲に釘を刺した。 隣を歩く譲は、いろいろなことを自分の中に溜め込みすぎているように、朔には思えて仕方がない。 譲と敦盛を除く、他の八葉たちの個性が強すぎると言うか、強烈過ぎるだけ、とも言えるが……。 「譲殿、体調が悪いのなら無理はしないで」 「はい、分かってます。ちゃんと言いますよ。心配してくださって、ありがとうございます」 礼儀正しく言った譲に、朔は苦笑する。 もともとの性格のためなのだろうけれど、半年以上も一緒に居て、この他人行儀はいただけない。 「譲殿、もう少し打ち解けた話し方をしてくれると嬉しいわ」 「いえ、でも……」 「弟に遠慮をされているようで、淋しいのよ?」 茶目っ気を含ませて、朔は言った。 困惑気味に朔を見返していた譲は、肩の力を抜くように息をついて、微かに笑った。 頷いて、言う。 「じゃあ、あなたも、俺を呼ぶときに『殿』はつけないで下さい。慣れていないから、落ち着かない」 「そう? でも……」 朔はそっと前を行く集団に視線を投げかけた。 ヒノエの軽口――最近は本気も含まれているように朔には思える――に、顔を真っ赤にしている望美の姿がある。 譲と幼馴染だという彼女が呼び捨てていない名を、はたして朔が呼び捨てて良いものだろうか? 頷くことを躊躇っていると、「かまいませんから」と重ねて言われ、朔は躊躇いを残しながらも頷いた。 打ち解けた話し方をと言ったのは朔だ。ここで呼べないと断るのもおかしいだろう。 望美が変な勘違いをしなければいいけれど、そう思いながら、朔は言った。 「わたしのことも、朔って呼んでくれてかまわないから」 「でも、景時さんに叱られてしまいそうだな」 「わたしたちは望美のために集った仲間よ。兄上だって、その辺は理解していると思うわ。それに、わたしは尼僧だもの」 そう言った朔の言葉に譲は頷いた。 「尼僧だから」と言う朔の表情の翳りが気になったが、そこは譲の踏み込むべきことではないだろうと判断して、譲は朔を促して歩き出した。 薄情な仲間たちは、ずいぶん先を歩いていた。 都会では聞くことも少なくなった虫の音を聞きながら、譲は夜空の星を見上げていた。 月明かりが明るいせいか、見える星はいつもよりも少ないが、それでも譲がいた世界よりも、圧倒的に星の数は多い。 人工的な光が、自然の光を消していたのだと、実感する。 秋の風は少し肌寒く。 長く外にいると体調を崩してしまうかもしれないと、譲は宿に戻ろうと踵を返した。 寝不足でかすかに痛むこめかみを、指で解しながら歩き出す。 朔の気遣いに、なんとなくリラックスできたような気がするから、今夜くらいはちゃんと眠れるかもしれない。 かすかな期待をしながら宿への道を戻っていると、宿の入り口に見知った人物を見つけて、譲は足を止めた。 「……春日先輩?」 所在無さげに入り口に立ち、しきりと周囲を見回している。 なにをしているんだろうと思いながら、譲は望美の傍に走り寄った。 いくら宿の前とはいえ、治安の良くない時だ。 性質の悪い輩や怨霊が現れないとは言いきれない。まして望美は女性だ。なにかがあってからでは、取り返しがつかない。 「春日先輩!」 声をかけて近づくと、望美が譲を振り返った。 暗がりの中、それでも望美がほっと息をついたのが判った。 「先輩、こんな夜更けにひとりでいたら、危ないですよ!」 無用心を注意すると、望美が顔を顰めて譲を見上げた。 怒った顔で、口を開く。 「その言葉、そのまま譲くんに返すね。譲くんだって危ないんだから、ひとりで外に出ちゃダメだよ?」 「でも、俺は男ですよ」 「それ、ちょっと男女差別っぽい……」 「それは屁理屈ですよ。先輩は女性なんだから」 「譲くんの言い方も、屁理屈。男女関係なく危ないんだから、ひとりで外に出たりしないで。……心配だよ」 心底心配したのだという顔でそう言われてしまえば、譲は降参するしかない。 昔から望美の心配そうな表情や、泣き出しそうな顔には弱い。……どんな表情にも弱い、というのが本当のところだけれど。 譲は早々に白旗を掲げて、「すみません」と謝った。 「宿に入りましょう。風が冷たい。風邪を引いてしまいますよ。先輩が風邪を引いてしまったら、白龍たちが大騒ぎだ」 「譲くんが風邪を引いても、みんな大騒ぎすると思うよ。口にはしないと思うけど、将臣くんなんか、おろおろしそう」 「まさか。そんなことありませんよ。それに俺は鍛えてますから、風邪なんか引きません」 望美の言葉を否定して、譲は宿の中へと望美を押しやった。 常にない強引な譲の態度に、望美は不思議そうに首を傾げた。 「譲くん、どうかした?」 「こんな夜更けに俺と一緒にいるところを見られたら、面倒でしょう? 早く部屋に戻ったほうがいいですよ?」 「譲くん? 面倒って……?」 「ほら、先輩、早く寝ないと。また寝坊しますよ? それに、きっと朔が心配してます」 「え?」 望美は譲の言葉に虚を突かれた。 聞き慣れていながら、それでいて聞き慣れていない言葉を聞いたように、望美は譲を見つめた。が、譲は望美の様子に気づきもしないで、部屋に戻ってくださいと繰り返し急かすばかりだ。 立ち止まったままの望美を訝しく見やった譲は、もう一度望美の背を部屋のほうへと押しやると、 「おやすみなさい、春日先輩」 そう言って、望美の部屋と反対の部屋に入った。 静かに閉じられる仕切り戸を見つめ、望美は「おやすみなさい」と、もう届かない言葉を口にした。 しばらく廊下に佇んでいた望美は、もやもやとした気持ちを抱えたまま、部屋に戻った。 望美が部屋の戻ると、格子戸の傍らに朔がぼんやりと座り込んでいた。 物思いに耽っているのか、望美が入ってきたことにも気づいていない。 声をかけようかどうか迷った望美だったが、部屋の空気が冷えてきていることに気づいて、声をかけることにした。 朔が体調を崩したら、やっぱり、みんなが心配する。望美が、ではなくて、誰が体調を崩しても心配をする。 それは当然のことだ。 望美だけが特別ではないのだ。みんなが、一緒にいる皆が、特別なのだから。 今さらながらに譲の言い分を否定して、明日の朝一番にもう一度そう言おうと決め、望美は朔に声をかけた。 「朔、風邪を引いちゃうよ?」 「え……? あ、あら、望美。おかえりなさい」 「ただいま。疲れているの? 朔、ぼんやりしてた」 「考えごとをしていただけよ。それよりも望美、譲殿と話はできたの?」 「え……っと、それが、風邪を引くからって、話をする前に部屋に戻されちゃった」 「そう。仕方ないわね。話は明日ね」 「うん、そうだね」 頷いて、望美は寝る支度をすると、寝具の中に潜りこんだ。 気持ちよさに、すぐに睡魔が訪れる。 「おやすみ、朔」 「おやすみなさい、望美」 夢現に、朔の溜息が聞こえた。 「まったく、譲は本当に不器用ね」 溜息と共に届いたそれに、望美の胸がひどく痛んだ。 珍しく早くに目が覚めた望美は、宿の庭に降り、整えられた小さな庭園を眺めていた。 京にある梶原邸。望美はその庭を不意に思い出した。 もうずいぶんと長い間、望美はその庭を見ていない。 梶原邸の庭先には、譲が望美のために植えてくれた花がある。朔がその花を見て、「綺麗ね」と顔を綻ばしたことを思い出すと、急に胸が痛んだ。 痛みの原因が、解るようで解らないもどかしさ。 「譲」と朔の唇が親しげに呼んだ名前を、望美は呼び捨てたことがない。譲が「朔」と親しげに呼んだのを聞いた昨夜以降、ざわざわと胸が騒いで、落ち着かない。 思い出すだけで痛む胸。 胸の痛みに耐えながら、咲いていた花たちに思いを馳せていると、すぐ隣から唐突に声が聞こえた。 「おはよう、姫君。ご機嫌麗しく」 恭しい仕草で望美の手を取り、その甲に口づけたヒノエは、いつものように反応を返さない望美を見つめて、眉根を寄せた。 「ご機嫌は麗しくないようだね」 沈んだ顔の望美を慰めるように、ヒノエは俯きがちの頭を撫でた。 「望美」 滅多に呼ばない名前を呼ばれて、望美はヒノエを見上げた。 陽に焼けて色素の薄くなったヒノエの髪が、朝日を受け、赤茶色に輝いていた。 珍しく、優しく瞳を和ませて、ヒノエは望美を見た。 「何があったのか判らないけど、ちゃんと気持ちが落ち着いたら、いつものように顔を上げて、背筋を伸ばして、しっかり前を向いて笑いなよ。おまえは笑っている顔が、一番、魅力的だからさ」 そう言って、ヒノエは望美の髪の一房を指に絡め、口づけた。 そのまま指の力を緩めると、するりと髪が逃げるように指から離れる。 名残惜しげにそれを見つめていたヒノエは、望美の視線を感じて、目を合わせた。 とたんに望美の頬が赤く染まって、慌てて視線が逸らされる。 「もう、ヒノエくん、からかわないで」 「からかってなんていないよ」 いつもの調子に近い望美の反応に笑って、ヒノエは望美の長い髪を指で梳いた。 我が物顔で望美の髪を梳く、ヒノエの整った指。 望美はどことなく嬉しそうなヒノエの顔と、指を、交互に見つめる。 なんとなく気恥ずかしくて、どんな反応を返せばいいのか判らず、おまけに制止のタイミングも掴めない。望美は硬直したように身じろぎもできず、立ち尽くしていた。 「おはようございます、先輩」 背後から譲の声が聞こえて、望美は硬直から解放され、はっと振り返った。 無表情とも言える顔で、譲が望美とヒノエを見ている。 なんとなく居心地が悪い思いをしながら、望美は譲の名前を呟くように呼んだ。 唇に馴染んだ呼び方。それ以外の呼び方を、望美は音にできない。したことがない。 後から思えば、なにかが変わってしまうことを、無意識のうちに感じ取っていたのかもしれなかった。 「譲くん……」 「無粋だね、譲。こういうときは遠慮して、声をかけないものだぜ」 「ヒノエも、おはよう」 ヒノエの非難をさらりと無視して、譲は踵を返した。 そのまま、部屋のほうへと戻って行く。 望美と視線を合わせない、拒絶を漂わせる譲の背中を、見送るように見つめていた望美は、譲に近づく人物に肩を揺らした。 無意識に唇を噛み締める。 ざわつきが増した。 とっさに、「嫌だ、見たくない」と思った心理に、望美は愕然とした。 今まで一度だって、そんな風に思ったことなどなかったのに。 「おはよう、譲」 「ああ、おはようございます、朔」 足を止めた譲は、愛想良く朔に挨拶を返している。 望美の良く知っている、柔らかく、優しい空気を纏って朔と話をしている姿に、望美の胸の痛みが激しくなる。 「譲と景時の妹姫、いつのまにあんなに仲が良くなったんだろうね」 ヒノエの言葉に胸の痛みが増す。 そうだ、いつの間に、ふたりは名前を呼び捨てで呼び合う仲になったのだろう。 望美は、ふたりがどんな経緯で、いつから敬称をつけずに名を呼び合うようになったのかを、知らない。 いつも一緒にいるのに。こんなに近くにいるのに、なにも知らない。 それに、譲のあの優しい表情。 一度も望美には向けられなかった、あの表情。 どうして朔には向けるのだろう。 痛みが増して、望美は無意識に左胸を押さえた。 着物に皺が寄るのもかまわず、握り締める。 こんな痛み、いままで、一度だって味わったことがない。 「譲は姫君だけが特別だと思っていたんだけど」 ヒノエの言葉に、望美はそっと顔を上げた。 そうだ、いつだって、譲は望美の傍にいた。どんなときも望美のことを一番に考えて、優先してくれて、望美はそれらを当然のように享受していた。 譲が望美以外の誰かに心を砕くことなど、考えたこともない。 望美以外の人に、あの優しい顔を向けることなんて、一度だって考えたことはなかった。 傲慢にも、すべてが望美のためにあるものだと思っていた。 いつか譲に、望美以外の特別ができることなど考えたこともなかったのだ。 望美はふと級友たちとの会話を思い出した。 「有川くんの弟の譲くん、だっけ? 目立たないけど、いいよね」 「彼、人気があるよ。競争率高いって」 「え、そうなの?」 「望美、有川兄弟のファンから、かなり羨ましがられてるよー?」 「ええ!?」 「幼馴染って、いいポジションだもんねぇ」 「今でも家族ぐるみのお付き合いでしょ?」 「うん」 「イイ男が傍にふたりいて、おまけに両方から大事にされてて、それが周囲から恨まれるじゃなくて羨ましがられる、って、なかなかないよー?」 「果報者」 「本当、幼馴染って得だよね」 からかい半分に言った級友たちの言葉は、あの時は実感が持てなかったけれど、今なら、羨ましがられていると言った彼女たちの言葉が、理解できた。 望美に向けられていたすべては、他の誰も与えられなかったものだ。望美にだけ、与えられていたもの。 望美以外の誰にも向けられず、望美にだけ向けられていた特別だったのだ。それを、強く実感してしまった。 突き刺すような痛みが広がって、望美は顔を顰めた。 「姫君?」 ヒノエが心配そうに望美の顔を覗き込む。 見かけたときから、望美の様子はおかしい。 いまも顔色がない。 その理由に、ヒノエはちらりと視線を送った。 どんな話をしているのか、ここまでは聞こえないけれど、楽しそうな朔と譲の姿がある。 そっと、苦笑を零した。 ずっと望美と一緒に生きてきた譲を羨ましいと思った一瞬もあったけれど、自分の心にも気づけないほど近すぎる関係も、案外、不便だと思う。 自覚した感情に、どんな名前をつければいいのか、望美はきっと戸惑うだろう。 認めることができずに、否定するかもしれない。 望むもの。欲しいものは、ちゃんと解っているのに……。 手を伸ばせば、すぐに届いて、手に入れることができるのに。 望美の世界の人間は、自分の気持ちを表現するのに不器用だとヒノエは思った。 「気分でも悪い? 休んだほうがいいんじゃないか? 疲れが出たのかもしれない」 ヒノエは言うと同時に、望美の体を抱き上げた。 「きゃ……ちょ、ヒノエくん!?」 体が浮いたと思う間もなく、間近にヒノエの顔。 いつになく真剣な表情に、望美は「降ろして」というはずだった言葉を、飲み込んだ。 「姫君が心配なんだよ」 はっとするほど憂いを含んだ声に、望美はなにも言えなくなってしまった。 最近ヒノエの口調から、冗談めいたものが消えている気がする。 反論を封じられた望美は、大人しく、ヒノエに抱き上げられたまま、部屋へと戻る羽目になった。 部屋へと戻る途中、強い視線を感じた気がして、望美はそっと目を動かした。 心配そうに駆け寄ってくる朔の、肩越し。見たこともないほど怖い顔をした譲と、一瞬、目が合った。けれど、絡んだはずの視線はすぐに逸らされて。 痛む、胸奥。 望美はぎゅっと目を閉じた。 胸の痛みに耐えるために。 それだけでなく、逃れるために。 譲の強い――まるで射るように強い視線に、耐えられなかった。 心臓も、呼吸も、本気で止まった。 それほどに衝撃的な出来事だった。 朔の「ちゃんと寝ないと駄目よ」というお小言を、肩を竦めてやり過ごそうとしていた譲は、望美の小さな悲鳴に驚いて、そちらに視線を向けると、淡い紅色に頬を染めた望美が、ヒノエの腕の中にいた。 軽々と望美の体を横抱きに抱きかかえ、ヒノエが望美と朔の泊まっている部屋のほうへと歩き出している。 警戒心が薄いせいか、望美は無防備すぎて隙を突かれやすく、弁慶やヒノエが紡ぎ出す、軽薄そうな口調のなかに慎重に包み隠された、そうとは判らぬ本気の科白に、すっかり翻弄されてしまっている。 望美が譲の傍を離れ、特定の――譲以外の誰かの傍らで笑うなど、考えただけでも黒く濁った嫉妬心が生まれてくるが、それでも、傷つかずにいて欲しいと思う気持ちは本物だ。だからこそ、警戒心を持って欲しいと諫めるけれど、その努力はなかなか報われない。 抑えきれない苛立ちを抱えたまま凝視していると、視線を感じたらしい望美と目が合った。 純粋な瞳に、譲に対しての怯えのようなものが浮かぶ。 自分がどんな顔をしているのか、充分に自覚している譲は、望美のまっすぐな視線に耐え切れずに、目を逸らしてしまった。 逸らした視界の端で、ヒノエが眉を顰めて譲を一瞥した気がしたが、譲はかまわずにその場を立ち去った。 一秒だって、見たくない。 見ていたくない。 他の誰かの腕の中にいる、彼女の姿など。 望美を想い続けている気持ちを、いまだ言葉にできない自分の弱さを棚に上げて、嫉妬心だけは人一倍強い自分を、譲は嘲笑した。 「不器用ね、譲は」 そんな言葉と共に、いつの間にか譲の後を追って来ていた朔が、譲と肩を並べた。 「……先輩は?」 「気になるのなら、自分で様子を見に行ってらっしゃい」 「――そう、ですね。落ち着いたら」 動揺が鎮まっていないのだと言外に告げると、溜息が返された。 呆れているのだろうなと予想して、譲はそのまま黙り込む。 目の前に広がる木々が、風に揺れる。 見るともなしに眺めていると、人が近づく気配。 気配を読むことにも、ずいぶん慣れた。けれどこんなときは、気配を読めるようになったことが厭わしいと思う。 振り返らないまま、譲は朔にしたのと同じ質問を、背後に立った人物にした。 「……先輩は?」 「気になるなら、自分で見に行きな」 朔と同じことを返されて、譲は顔を歪める。 できるならそうしている。そう反論しそうになるのを、なんとか押さえ込んだ。 気遣わしげな朔の視線を感じた譲は、朔に向き直ると、笑いかけた。 他人には、こんなにも簡単に笑いかけられるのに、どうして一番大事な愛しい人には笑いかけることができないのだろう。 不器用、と朔は言うけれど、そうじゃない気がする。 我儘な子供と同じだ。 自分を振り向いて欲しくて。気にして欲しくて仕方がない子供と同じだと、譲は自嘲する。 こんな我儘な気持ちを知ったら、彼女は譲から離れて行ってしまうことだろう。 「朔、すみませんが先輩についていてあげてください。きっと、心細い思いをしていると思うので」 譲がそう言うと、朔とヒノエが揃って溜息をついた。 どうしようもないなとでも言いたげに、視線を交し合っている。 「なんです?」 怪訝な顔でふたりを見つめ返すと、ヒノエが大袈裟に溜息をついて見せた。 心底呆れたと言いたげなそれに、譲はむっと顔を歪ませる。 「なんだよ、ヒノエ」 喧嘩腰に近い譲の言い方に、ヒノエは肩を竦めた。 かわし方もあしらい方も心得ている、ヒノエらしい仕草だった。 「姫君が心細い思いをしていると思うなら、譲が傍にいればいい。朔姫に頼むことじゃないね」 「……俺が傍にいたら、先輩は休めないだろう?」 「そんなことはないと思うけどね」 どんな根拠と確信があって、ヒノエがそう言うのか譲には判らない。 譲の脳裏に、さきほどの望美の怯えたような表情が浮かんだ。 ヒノエが言うように譲が傍に行けば、望美は優しい人だから、きっと、なにごともなかったように接してくれるだろう。 そしていつものように、「心配かけてごめんね、譲くん」と、申し訳なさそうに、逆に謝ってくれるだろう。怯えて、怖がっている心をひた隠しにして。 「朔かヒノエが傍にいるほうが、きっと、先輩は落ち着くと思う。俺は先輩に気を使わせてしまうだけだから」 「譲」 大袈裟な溜息をひとつ零して、ヒノエは目を細めた。 どうやら、譲の返答はお気に召さなかったようだ。 ヒノエも望美のことを好きになっているくせに、なぜ譲の後押しをするような態度を取るのだろう。 譲はそれが不思議で仕方がない。 「降りるつもりなら、遠慮はしないよ?」 「ヒノエ殿」 「…………」 「譲が望美を大事に、大切に想っていることを知っているから、俺はまだ冗談に紛らわしているけど、もし、譲が本気で望美のことを諦めるっていうのなら、もう遠慮はしない」 「…………」 諫める朔の声を無視して言ったヒノエを黙って見返しながら、ずいぶん傲慢な言い方だと譲は思った。 まるで、いつでも望美を攫って行けるような、自信たっぷりの口ぶりは、たんに譲に遠慮をしているだけだと、恩着せがましい言い方に聞こえる。 神経を逆撫でされて、腹が立って。 諦めるつもりはない。渡さない。 言いたい言葉はある。なのに、なに一つ言葉にはならなかった。 ただ黙って、睨みつけるようにヒノエを見つめていた譲は、やがて目を伏せて視線を逸らした。 そんな仕草は負けを認めるようで嫌だったけれど、仕方がない。 小さく、本当に小さく、ヒノエが笑った。 たいして歳は変わらないのに、ヒノエの精神年齢は、譲のそれよりもはるかに成熟している。 きっと、手のかかる奴だと思われているだろうと思うと、情けなさ倍増だ。 「姫君によろしく」 譲が踵を返すと同時に、揶揄を含んだ声が背中に投げかけられた。 譲は肩越しにヒノエと、少しだけ困ったような、心配そうな顔で見ている朔を振り返った。 譲を見ているふたりと、視線が合う。 朔は、柔らかく、譲に微笑みかけた。 楽しげに口角を吊り上げているヒノエの瞳は、揶揄っぽい表情を裏切るように、穏やかで優しい。 本気で見守るつもりなのだと解る。 自分だって本気のくせに、と内心で毒づきながらも、譲はヒノエの厚意に甘えることに決めた。 押し出された背中。 とりあえず、一歩を踏み出してみようかと譲は思う。 まだ、秘めた想いを言葉にすることはできないだろうけれど、誰よりも優しく望美に笑いかけることはできるはずだ。 以前のように。 以前よりも、もっと、優しく。 秘めた恋が齎す痛みは、なくならないだろうけれど。 |