〜星のかけら


「今年も見えませんでしたね、天の川」

 雲の広がる空を見上げていると、残念そうな溜息が聞こえた。


 夕闇が落ちた浜辺で、望美は久しぶりにひとりで、ぼんやりとしていた。
 夜の闇に溶け込まない雲の色。
 広がる雲は夜空を覆って、すっかり星を隠してしまっている。
 新月――正確には月齢一――の七夕。明るすぎる月の光がないから、天の川が綺麗に見えるだろうと期待していたのに。
 お天気が悪かったら意味がないじゃない、と、ひとりごちた望美が溜息をつこうとした、そのときだった。
「今年も見えませんでしたね、天の川」
 残念そうな溜息つきの、望美以上に落胆した声が聞こえてきた。
「譲くん」
 振り返るより早く望美と肩を並べた幼馴染みの横顔を、見上げる。
「すみません、驚かせてしまいましたか?」
「ううん、平気だよ。なんとなく譲くんが来るような気がしていたから」
 困った色を滲ませた優しい瞳が、望美と視線を合わせた。
「俺が、ですか?」
「うん、譲くんが」
 笑って頷くと、譲が視線を逸らしながら、眼鏡のズレを直す仕草をした。
 照れて、困っているんだと判って、望美は可笑しくなる。
 困らせてしまうのは悪いと思うけれど、照れと困惑を隠すときの表情がかわいいといったら、どんな反応を返すだろう。
 そんなことを思いながら横顔を見つめていると、視線を感じたらしい。譲が怪訝そうに望美を見た。
「先輩? どうしたんですか?」
「どうもしないよ。なぁんにもない、ない」
「本当に?」
「本当に」
 他愛ない掛け合いを数回くり返し、やっと納得した譲が「わかりました」と頷いた。
「仕方のない人だな」と苦笑混じりに呟かれたことには、気づかない振りをした。
 望美から空へと視線を向けて、譲が嘆息している。
 譲も今夜を楽しみにしていたんだな、と望美は譲の横顔をそっと盗み見ながら思った。
京の夜空ほど星がない、望美たちの世界。
 ときおり、それがとても淋しい。
 あの、空一面を埋め尽くすような星空を、懐かしく思う。
 もう一度あの星空を見たいと、望美も思っていた。
 だから、今日、ここに来たのだ。
 人工の光のほとんどない、海辺。
 星が、当たり前に夜空に光る場所。
 それなのに、天気は曇り。
「残念だったね」
「え?」
 望美の言葉に虚を突かれたような顔で、譲が振り返った。
「譲くんも、星空を見に来たんでしょ?」
「……先輩も、ですか?」
「うん。でも、晴れなかったね」
「そうですね。別に七夕に拘らなければ、晴れた日に星空は見えるんですけどね」
「そうだね。でも、やっぱり、七夕の夜に見たいよね、空一面の星」
「ええ」
 静かに頷いた譲が空を見上げて、また溜息をついた。
 落胆を隠しきれない譲の様子に、望美は思案する。
 こんなにもストレートな感情表現をするのは、譲には珍しい。どちらかといえば、普段は、自分の感情は極力押さえ込むタイプなのに。
 譲の様子を窺いつつ、譲の気分を浮上させるような何かがないかな、と考えこんだ望美は、ふと、あるものを思い出した。
 手に持っていた鞄の中から、それを取り出す。
「譲くん」
「はい?」
「手を出して」
「え?」
「手、出して。いいものをあげる」
「いいもの、ですか?」
「うん。ほら、早く!」
 首を傾げる譲を急かし、望美は差し出された譲の掌に、色とりどりのそれらを落とした。
 掌の中にころ、ころ、ころんと落とし込まれたそれを、譲はきょとんと見つめた。
「……金平糖?」
「そう、金平糖。でも、今日は七夕だから、これは星のかけら。ね?」
 そう言って望美が悪戯っぽくウィンクすると、譲の瞳はやわらかく細められた。
「先輩の発想は素敵だな」
「子供っぽい、とか言うんでしょ?」
「そんなこと言いませんよ、兄さんじゃあるまいし」
 拗ねた口調で言った譲の言葉に、それもそうだと望美は思う。
 将臣と違って、譲は人の言葉尻を捉えて、子供っぽい揶揄かいを言うことがない。
 望美と将臣のフォローをし続けてきた結果、譲の精神的な成熟度はかなり高くなっている。
 年齢の割に落ち着いた対応をする譲を見るたびに、申し訳ない気持ちになるのだけれど、助かっているのも本当なので、なかなか、望美と将臣の態度が改まることはない。
 本当に譲には悪いと思うのだけれど……。
「ところで先輩、これ、本当にいただいていいんですか?」
「うん。……譲くん、甘いお菓子は平気だったよね?」
「平気ですよ」
 頷いて、掌の中の星砂糖に目を落とした譲が、ふと首を傾げた。
 そっと望美を窺う眼差しは、もの問いたげだった。
「譲くん?」
 どうしたの、と譲を不思議そうに見つめると、返されたのは苦笑。
「先輩、これ……」
「なぁに?」
「さすがに、一度に全部は食べられないんですが……」
「あ……!」
 譲の掌の中に、星砂糖が小山を作っている。
 片手に持とうと思えば持てなくもないだろうけれど、何粒かは落ちてしまいそうだし、金平糖を手に持ったまま電車に乗るのは、さすがに恥ずかしいだろう。
「ごめんね、譲くん!」
 望美は慌てて鞄の中を探って、ポケットティッシュを取り出した。
 真新しい袋を破って、ティッシュを数枚取り出し、自分の掌に広げて差し出した。
「ちゃんとした袋とかじゃなくてごめんね。これに移しかえて?」
「ありがとうございます」
 望美の掌に移し変えられた金平糖。
 色とりどりの星の形。
 金平糖を星のようだと最初に言った人は、とてもロマンチストな人だったんだ。
 そんなことを考えながら、丁寧に包んだそれを、望美は譲に渡した。
 望美に渡された金平糖入りの包みを、譲はさらに自分のハンカチで丁寧に包み、鞄の中にしまう。
 零れてしまわないようにという配慮なのだろう。
 ささやかなものでも大事に扱ってくれる、そういうさりげない気遣いが嬉しい。
 譲の気遣いに頬を緩めていた望美は、譲が金平糖を食べていないことに気づいた。
 食べてもらうつもりであげたのに、全部、包んでしまった。
 望美は鞄の中から、金平糖の入っている硝子瓶を取り出した。
 自分の掌に、数個を取り出す。
「?」
 きょとんとしている譲に、それを差し出すようにして見せながら、望美は言った。
「これ、食べて、譲くん」
「え? さっきもらいましたよ?」
「うん、あれは、家で食べて。これは一緒に食べよう。ね?」
 そう言ってにっこり笑いながら、望美は一粒を取った。
 指先に摘んだそれを、望美は譲の口元に運ぶ。
「せ……先輩!?」
 ぎょっとした譲が後退った。
 まさか望美が今のような行動に出るとは、思っていなかったのだろう。
 僅かに顔を赤くして、すっかりうろたえてしまっている。
 予想通りの譲の反応に少し笑いながら、望美は、それでも譲の口元から手をのけたりはしなかった。
 いつまでも「幼馴染み」でいようとする譲への、ちょっとした悪戯と、挑発。
「譲くん、これはいらない?」
 小首を傾げながら問いかけると、困ったように寄せられる眉根。
 譲の逡巡と葛藤が、手に取るように判る。
 少し、じれったい。
 望美は大袈裟な溜息をついて、言った。
 摘んだ金平糖を、掌に転がす。
「譲くんがいらないなら、これ、弁慶さんかヒノエくんにあげちゃおうかな? 白龍も甘いお菓子とか好きだし、白龍でもいいかな?」
 時空を越えて、望美たちの世界に来た仲間の名前を出すと、譲の肩が怯えたように揺れた。
 強張った表情に、少しやりすぎたかな、とも思ったけれど、ここで冗談に紛らわしたりはできない。
 悪戯と挑発と、賭け。
 望美の思いと未来がかかっている。
「……先輩」
 押し殺したような声で、譲が望美を呼んだ。
 こんなときでさえ、譲は望美の名前を呼んではくれないんだなぁ、と、望美はこっそり苦笑する。
「先輩、それ、……俺がもらっていいんですか?」
「うん」
「本当に?」
「本当に」
 強く頷くと、譲の瞳が瞠られた。
 信じられない、と、小さく呟いた譲に、望美は言った。
「夢じゃないよ、譲くん。――本当は、譲くん以外の人に食べさせるつもりは、全然ないんだけど、どうする?」
 もう一度問いかけると、譲が気持ちを落ち着けるためにか、大きく息を吸った。
 ゆっくりと息を吐き出した譲の瞳は、見たことがないほど甘い色をしている。
「俺の、なんですよね?」
「うん、譲くんのだよ」
 頷きながら、望美はもう一度金平糖を指で摘んだ。
 ゆっくりと、譲の口元に差し出した、指先。
 痛いほど、望美の胸が高鳴った。
 指先に感じた、一瞬の熱。
 触れた、温度。唇の、柔らかさ。
「……やっぱり、甘いですね」
「うん、甘い、ね」
 聞きなれた、けれど、聞きなれない甘い声に耳を傾け、指先に、全身に感じた譲の熱を、絶対に忘れることはないだろうな、と、望美は譲を抱きしめ返しながら思った。

                              END