〜キミという光と、閉ざされた未来

 柵越しに見下ろした校庭の、一角。
 真弘はそこに、最近、真弘の生活の中にその存在を組み込まれた後輩であり、守るべき対象者となっている珠紀の姿を見つけた。
 口の中で咀嚼していたやきそばパンを嚥下して、視線を横にずらす。
 少し離れた場所で昼食を摂りながら、クロスワードパズルに挑んでいる拓磨に、真弘は声をかけた。
「おい、拓磨」
 一拍置いて、拓磨は面倒そうに顔を上げた。
「なんスか?」
 面倒そうな声音を隠しもせずに問いかける後輩に、真弘は、
「珠紀はどうした?」
 そう訊ねる。
 すると拓磨は屋上をぐるりと見回して、
「いないっすね」
 簡潔に答えた。
 真弘は拓磨の答えに呆れて肩を落とした後で、眉根を寄せながら言った。
「あのな……。珠紀がここにいないのは見りゃ判る。同じクラスだろうが。なんで一緒にここに来ていないんだって聞いてんだよ、俺は」
「……いくらあいつが玉依姫で、俺が守護者でも、休み時間まで拘束できないっすよ。されたくもねぇし。それに昼飯を一緒にって、別にそんな決まりごとはなかったっすよね?」
 言いながら拓磨は同意を求めるように、佑一と慎司へと視線を移した。
「そうですけど……」
「確かに、一緒に昼食を取ると決めたことはないな」
 慎司と佑一が拓磨の言葉に頷くのを見つめ、真弘はさらに眉根を寄せながら、「そうだけどな」と呟き、パンに齧りつく。
 物問いたげな佑一と慎司の視線を感じながら、それに素知らぬフリを決め込んだ真弘は、さきほど珠紀の姿が見えた校庭の一角へと視線を戻した。
 いつもならその場所で昼食を取っている英語教師と女生徒たちの姿は見えず、かわりに珠紀と見知らぬ男子生徒の姿がある。
 不快感が真弘の中に生まれた。
 その不快感の理由を受け入れるわけにはいかない。名前を与えるわけにはいかない。けれど、真弘の顔は自然と顰められた。
「真弘先輩は、珠紀が気になるんすか?」
 真弘の内心の葛藤など知らない拓磨の、そのストレートな問いかけに真弘は、
「気になるって言うか……ただ、あんな危なっかしいやつ、一人で野放しにしていたらまずいんじゃないかと思っただけだ」
 顔を顰めたまま、ぶっきらぼうに答えた。
 三人の苦笑する気配に、真弘の眉間の皺が深くなる。
 照れ隠しだの、天邪鬼だの。そんな風に思っているらしい雰囲気が伝わってくる。
 正直なところ、それを否定できないことも本当なので、あえて反論も否定もしないまま、真弘は不機嫌な顔つきで、残りの昼食を頬張った。



「真弘先輩!」
 夕日色に染まった校舎の中から駆け出してくる姿を、真弘は目を細めて見つめた。
 珠紀の動きにあわせて、彼女の長い髪がさらさらと踊っている。
「待たせてごめんなさい!」
 真弘の前まで走ってきた少女は、申し訳なさそうにいいながら頭を下げた。
「まぁた教室でぼんやりしてたのか? まったく、俺様を待たせるなんて、ほんっとーにいい度胸してるよな、お前。――この科白を俺様は前にも言ったな?」
 確か、珠紀がこの季封村に来て間もない頃だ。
 今みたいなやり取りを交わした時からそんなに時間が過ぎたわけじゃないのに、この村にすっかり馴染んだ少女の様子に、ずいぶんと前のことのように、真弘には思えた。
「……う……、はい」
 言葉に詰まりながらもこくりと頷いた珠紀に、真弘は溜息をついた。
「陽が落ちきる前に帰らないと、大変な目に合うのはお前で、苦労するのは俺たちだって、あと何回言えば覚えてくれるんだろうな、玉依姫?」
 嫌味をこめて言いながら真弘がにこりと笑うと、珠紀の肩がしょんぼりと落ちた。
「ごめんなさい」
 小声で落とされた謝罪に、真弘はそっと嘆息して、
「バカ。本気で言ってるわけじゃねーよ。ほら、帰るぞ、珠紀」
 珠紀を促して歩き出す。
 宇賀谷家へと続く道をさっさと歩き出すと、急いで後を追いかけてくる足音。
 すぐに珠紀が真弘と肩を並べた。
 少し見上げなければいけないのが、悔しい。そう思いながら、真弘はちらりと珠紀の横顔を盗み見る。
 昼休みになにもなかったかのように、いつもと変わらない横顔だった。
 もっとも珠紀は、真弘が昼休みのできごとを見ていたなどと思ってもいないだろうけれど。
(悪趣味な奴っているんだな)
 そう思うと同時に、慎司が前に珠紀に向かって言った、「綺麗ってだけなら、先輩だって綺麗じゃないですか!」という言葉を思い出した。
 あの時は慎司の発言と珠紀の反応のせいで、妙な空気があの場を支配して、なんとなく居心地が悪く思えて、真弘は「趣味が悪い」と慎司の発言を茶化したけれど。
(……きれい、か?)
 珠紀に気づかれないよう、真弘は珠紀の顔を観察した。
 幼馴染の美鶴や、赴任したその日から学校中のマドンナとなっている英語教師、フィオナには及ばないが、珠紀もそれなりに整った顔をしている――ようにも思える。
(――いや、珠紀は美人つーよりも可愛い系……待て! 待て待て、俺!! 可愛いってなんだ!? 俺様の理想はフィオナ先生! こいつを可愛いって思うなんて、おかしいだろ!? 血迷うな、俺!!)
 ぶんぶんと勢い良く頭を振り、真弘はうっかり辿り着いてしまった思考を振り払った。
「真弘先輩?」
 訝しそうな声に、真弘は動きを止める。
「どうしたんですか? お腹が痛いとか?」
 心配そうに珠紀が真弘の顔を覗き込む。
 思いがけず近い距離から覗き込まれて、真弘の体は硬直した。
(不意打ちの接近は、反則だろ!?)
 なにが、どう反則なのか自分でも解らないまま、真弘はそんなことを思う。
「真弘先輩? 大丈夫ですか?」
 心配そうに眉根を寄せた珠紀の顔が、さらに真弘に近づく。
 警戒心皆無の、無防備な珠紀の動きをぼんやりと見ていた真弘は、はっと我に返って、一歩後ずさった。
 ことん、と。珠紀が不思議そうに首を傾げる仕草は、どことなく小動物を思わせた。
 珠紀との距離が開いて、ふっと、真弘の体の緊張が解ける。
「なんでもねーよ!」
 真弘はぶっきらぼうに言い放った。
 間近に感じた彼女の吐息や、微かに香ったシャンプーの残り香に、今さらながら、真弘の顔が火照ってくる。
 赤くなった頬を隠すようにそっぽを向いた真弘は、足早に歩き出した。
「待ってよ、真弘先輩ってば! 本当に平気なんですか? 顔、赤い気がしたんですけど、熱……」
「熱なんてねぇよ! 顔も赤くねぇ! お前の気のせい。いいから、さっさと帰るぞ!」
 珠紀の言葉を遮って怒鳴るように言った真弘の背中に感じる、疑わしそうな視線。
「……そろそろカミたちが活動しはじめる時間だけど、ひとりで帰るか?」
 立ち止まったまま珠紀を振り返り、真弘はにやりと笑みを浮かべて言った
 弾かれたように珠紀が駆け寄ってくる。
 真弘は珠紀と肩を並べて歩き出した。
 少し青褪めたように見える、不安そうな顔に真弘は笑う。
「なぁに、ビビってんだよ。冗談だ、バカ。この真弘先輩様がお前をひとりで帰らせるわけないだろーが」
 真弘がそう言うと、強張っていた珠紀の肩がほっとしたように緊張を解いた。
 安心したせいか、むっと顔を顰めて、唇を尖らせた当代の玉依姫は、
「真弘先輩ならわたしを放って帰りそう」
 いつものように憎まれ口を叩く。
 珠紀の言葉に、真弘は意地悪く口端をつりあげた。
「そういうこと言うか。それなら玉依姫のご希望通り、俺はひとりで帰るか」
「ちょ……! 先輩、酷いです! 意地悪すぎです!」
「あぁ? ちょっと、待て。誰が意地悪だって? 先輩様の親切心を疑ってるのは誰だ、珠紀?」
「疑ってなんていません! 先輩が意地悪なこと言うから! そういうこと言ってばっかりだから、先輩だってきれいな顔立ちしているのに、佑一先輩や慎司くんみたいに、女の子に騒がれないんですよ」
「大きなお世話だ! つーか、俺に綺麗とか言うな。綺麗って形容詞が似合うのは、佑一だろうが! 俺様は格好良いいんだ!」
「……格好良いって、……うわぁ、自分で言いますか……」
 呆れた珠紀の呟きを、真弘は鼻先で笑い飛ばす。
「なにか文句あるか? 俺は事実を言ってるんだけどな?」
 自信たっぷりに胸を反らせて言ったあと、真弘は、
「お前こそ。もう少し可愛げのある性格にならないと、もてないぞ?」
 ニヤリと笑った。
 とたんに珠紀の顔がふくれっ面になる。
 少女は不機嫌な足取りで、真弘を追い越した。
 真弘も人のことは言えないが、珠紀のくるくると変わる表情は見ていて飽きない。
「本当のこと言われたからって、怒るなよ」
 茶化すように言った真弘の言葉を無視して、珠紀はずんずんと歩いて行く。
 意外に華奢な背中を見つめながら、真弘が少しずつ遠ざかって行く珠紀を見ていると、急に、ぴたりと珠紀の足が止まった。
 怒ったような顔のまま、珠紀が真弘を振り返り、
「余計なお世話です!」
 怒った口調で、叫ぶように珠紀が言った。
「わたしのことを好きだって言ってくれる人もいるんです!」
「あー、そりゃあ、かなり物好きな奴だなぁ」
 ゆっくりとした歩調のまま珠紀に歩み寄りながら、真弘はぼそりと呟いた。
 ところでそれは本当か、と続けて言おうとしたところで、真弘は昼間に見た光景を思い出す。
 校庭の一角で珠紀と一緒にいた誰か。
 思い出した瞬間に、ざわりと騒いだものの正体を、真弘は黙殺する。
 到底、受け入れられないもの。
 受け入れてしまえば、冷静ではいられないことを知っている。
 ずっと、ずっと取り繕ってきたもの。培ってきたもの。それらが崩壊してしまうことは、誰にも歓迎されないだろう。
 真弘自身、歓迎したいと思わない。
 あの幼い日に、心は決めてしまったのだ。――違う、そうじゃない。決めるしか道は残されていなかった。
 真弘が自分で選べる未来は、たったひとつだけだった。
 この封鎖された狭い世界で。絶対的存在の言葉に、決定に、逆らうことなど。ただ首を縦に振る以外に、なにひとつとして許されなかった……。
 封印の力を持つ玉依姫が現れたからと言って、それに希望を、光を見出してしまうのは、それに縋るようで真弘は嫌だった。
 いまさら諦めた未来を望むなんて、それは、みっともない気がした。
 ああ、でも、そんなふうに卑屈になる心根が、きっと一番みともなくて、無様だ。
 真弘は緩く息をつく。
 深い場所へと沈みかけた思考を振り切るように、真弘は口を開いた。
「……あー、そう言えば、お前、昼間に呼び出されてたな」
「え?」
「告白されたか?」
「え……ちょ……やだ、真弘先輩、なんで知ってるの!? 見てたんですか!?」
 大きな瞳を見開いて、混乱している声で珠紀が言った。
 真弘は自分の失言に「しまった」と顔を顰める。
 失敗した。見ていたことは黙っていようと思っていたのに、つい、うっかり言ってしまった。
 自分自身でもあまり思い出したくない過去や、未来のことに思考を奪われると、それに囚われすぎてなにもかもが散漫になってしまう。
 がしがしと頭を掻いた真弘は、ここでいつものように茶化したりしたら、なんとなく話が拗れるような気がして、面倒はごめんだと、思いながら口を開いた
「あー、いや、見てたというか……偶然見つけた。……屋上から」
「屋上、から……?」
 真弘の言葉を口の中で反芻するように呟いた珠紀が、「なぁんだ」と言いながら、ほうっと長い安堵の吐息を吐き出した。
「もう、びっくりした。盗み聞きでもされたのかと思っちゃいました。でも考えたら、昼休みはみんな、屋上に集まってますもんね」
「――珠紀」
「はい? なんですか?」
「一度じっくり話し合わなきゃいけねーなぁ、俺たち」
「え、なんでですか?」
「お前、俺にどういう認識持ってるんだ? 誰が盗み聞きなんかするかっ!」
 怒鳴りつけると、珠紀が首を竦める。
 そしてぺろりと悪戯っぽく舌を出して、
「言葉のあやです。本気で言ってるわけ、ないじゃないですか」
 さっきの真弘の言葉を真似るような口調で、言った。そして、おまけとばかりに「真弘先輩のこと信用してますから」と付け加えられてしまった。
 珠紀がどこまで本気で言っているのか判らないけれど、信用していると言われてしまっては、これ以上文句も言えない。
 苛立たしげに舌打ちをした真弘は、軽く珠紀を睨みつけた。
 睨まれている当の珠紀は、真弘の視線を受け止めてにこりと笑っている。
 本当に、大人物だ。
 感心するしかない。
 睨み付けているのも馬鹿馬鹿しくなって、真弘は溜息をひとつ落として視線を外した。
「…………帰るぞ」
 ぶっきらぼうに言い放ち、真弘は歩く速度を速める。
 いつの間にか空の色は宵闇色に変わっている。
 珠紀の家はもうすぐだが、周囲の空気の密度の濃さが気になった。
 そろそろオボレ神やタタリ神が活動を開始しそうだ。
 珠紀の、いまだ完全な覚醒を遂げていない玉依姫の力。それでもその力に惹かれたカミたちが、集まってくる。
 狂ったカミたちに対峙し、常世に還すことに不安はないが、カミに対してまともに対抗できない珠紀を一人で守りきれると豪語できるほど、実は真弘は自分の力に驕っていない。
 仲間たちの前では軽口混じりで豪語するが、本気で、たったひとりで数多の狂ったカミたちをどうこうできるなどと思わない。
 本当の意味で守護者の力を覚醒させていれば、たったひとりで対抗することなど、きっと簡単なことだけれど……。
 ああ、けれど、その日が来るのは、もっとずっと先のことだといい。
 真弘は瞳を伏せる。
 一瞬でもそんなことを考えてしまうのは、認めることができない胸の痛みのせいだろうか。
 それとも、たんに怖がっているからか……。
「真弘先輩?」
 心配そうな珠紀の声に、真弘はゆっくりと目を開いた。
「本当に大丈夫ですか? 体調が悪いんだったら、わたし、ひとりで大丈夫ですよ?」
 すぐそこだし、と、家へと続く石段を指差す珠紀に、真弘は首を振った。
「バカ。近いからって安心すんな。ババ様の結界内に入るまで、気を抜くんじゃねーよ。それでなくても面倒ごとを引き起こすくせに」
「……でも、真弘先輩」
「大丈夫だ。なんでもない」
 真弘がそう言うと、珠紀の顔が悲しそうに歪んだ気がした。
 そっと吐息をついたあと、珠紀が
「じゃあ、あと少し、お願いします」
 丁寧に頭を下げた。
 どこか他人行儀なその仕草に、真弘は寂しいと感じてしまう。
 自分から一線を引くことは平気なのに、誰かから一線を引くような態度を取られるのは、いまだに辛い。
 そのまま自分の存在を忘れ去られてしまうような、そんな強迫観念が働く。
「なんだよ、急に……」
「……別に、意味なんてないですよ。強いて言えば、たまにはちゃんとお願いしておこうかなぁって。先輩、調子良くなさそうなのに、送ってもらうのは悪いなって思うから」
「本当に平気だつってんだろーが。それに、お前を守るのは守護者である俺の役割で義務だからな。だから気にするな。気を使うな。黙って守られてろ、お前は」
「………………はい」
「珠紀?」
 珠紀の表情から元気さが消えて、真弘は少しうろたえる。うろたえつつも、真弘は珠紀に声をかけた。
 真弘が声をかけると、珠紀の顔に微笑が浮かんだ。
 笑っているけれど、珠紀の瞳が傷ついたように曇って見える。そんな気がする。
 真弘がその意味を――珠紀の瞳が曇った理由を知ることになるのは、もっと、ずっと後のことになる。
 どこか寂しさの滲んだ微笑を浮かべたまま、珠紀が言う。
「真弘先輩、家に寄って、休んで行きませんか?」
「あ? なんだ、急に」
「先輩元気ないし、ちょっと疲れてるみたいだし、慰労を兼ねたサービスです。お茶くらいご馳走します」
「ご馳走って……偉そうだな、おい? 淹れるのは美鶴だろうが」
「む。ちゃんとわたしが淹れますよ! 卓さんにおいしいお茶の淹れ方、教えてもらったんです」
「俺は実験台か?」
「失礼な。お茶くらいちゃんと淹れられます! ご飯だって……そりゃ美鶴ちゃんの作ったものに比べれば腕は落ちますけど……、ちゃんと作れるんですから!」
「ふぅん?」
「……信じてないし」
 不貞腐れた珠紀の口調に、真弘は小さく笑った。
「いつか、機会があったらな。お前の作った料理、食べてやるよ」
 真弘がそう言うと、珠紀の顔がぱあっと明るくなった。
 嬉しそうに瞳を輝かせて、
「本当ですか!? 絶対ですよ!? 約束ですからね、先輩!!」
 弾んだ声で言い、真弘の手を取ると、勝手に指きりをし出す。
「おい、こら、待て。珠紀! 勝手に約束にするな。俺の気が向いて、機会があったら、だ! 絶対に食べるとは言ってない……て、聞けよ、俺様の話を!!」
 完全に浮かれている状態の珠紀に、真弘の声は届いていないようだった。
 にこにこと満面の笑みを浮かべて、無邪気に笑っている。
 なにがそんなに嬉しいのか判らないけれど、笑顔を崩さない珠紀を見つめているうちに、真弘は「まあ、いいか」という気持ちになってきた。
 珠紀が笑っているなら、いい。
「いいかげん、帰るぞ。美鶴が心配する」
 すっかり暗くなった空を見上げて、真弘は言った。
「はーい」
 上機嫌な珠紀の、幼さを感じさせる返事に苦笑いを浮かべて、真弘は歩調を速めて歩き出す。
 急いで追いかけてくる珠紀の気配を背中に感じ取りながら、石段の一段目に足をかけた。
「あ、そうだ、真弘先輩」
「ん? なんだよ?」
 いったい何回足を止めさせれば気が済むんだ。
 そんな悪態は心の中で吐いて、真弘は珠紀を振り返った。
「昼間のことですけど」
「昼間?」
「先輩が偶然見た……」
「ああ、あれな。安心しろ。見たのは俺だけ。誰にも言ってねーよ」
「もう、真弘先輩のこと信用しているって言ったのに! そうじゃなくて、わたし、ちゃんと断りましたから」
「は?」
「付き合って欲しいって言われたんですけど、断りましたから」
「――――なんで俺に言うんだ?」
 珠紀に聞きながら、心のどこかが安堵に緩んでしまっている。それを真弘は苦く思う。
 名前をつけてしまってはいけない感情。
 いったい、いつまで気づかないフリをし続けられるだろう。
 いっそのこと、珠紀が誰かを選んでくれたなら、真弘の心は穏やかになるだろうか。
 ふとそう考えて、けれどすぐに、穏やかどころか気が狂いそうになる自分を自覚した。
 どうせ誰か――真弘以外の誰かを珠紀が選ぶのなら、真弘がいなくなってからにして欲しい。
 そうすれば切なさも、気が狂いそうなほどの嫉妬も、真弘は抱かなくてすむのだ。
 珠紀の幸せ。それだけを願って、いなくなることができる。
 真弘に問われた珠紀はそっと目を伏せ、瞬き程度の時間で瞳を開いた。
 そして悪戯っぽい表情で真弘を見つめると、
「だって、先輩に怒られそうじゃないですか。「玉依姫の自覚もないくせに、責任放り出して恋愛なんて、ふざけんな!」って」
「………………よく、解ってんじゃねーか」
 珠紀の答えに肩を竦めて、真弘は石段を登った。
 いっそのこと珠紀が、玉依姫であることも、なにもかも放り出してくれたほうが、真弘の気は楽かもしれなかった。
 期待など抱かずに、ただ、仕方がなかったと諦めるだけですむ。覚悟を決めるだけでいい。
「真弘先輩!」
 二段目に足をかけたところで、また、呼び止められる。
「先輩が見ていたって言うから、知っていて欲しかったんです。ちゃんと断ったこと」
「珠紀?」
 どういう意味だ、と問いかけようとした真弘の傍らを、急ぎ足の珠紀が追い抜いた。
 あっという間に珠紀は真弘の数段上にいて、真弘を見下ろすように足を止めている。
 薄闇で、珠紀の表情は良く判らなかった。
「先輩、家に寄って行ってくれますよね?」
 そう訊ねる珠紀の声が、なんとなく、どことなく不安そうに震えて気がして、真弘は眉を寄せた。
 珠紀が不安そうにしているのは、嫌だった。
 可能な限り、珠紀にはいつでも、どんなときでも、笑っていて欲しい。
 笑っているほうが、いい。珠紀には笑顔のほうが似合うから。
 けれど、そんなことを正直に口にするほど、真弘は素直ではなかった。
 珠紀の傍らまで石段を登る。
 そして、珠紀のすぐ隣で足を止めて、真弘は大仰に溜息をついて見せた。
「しかたねぇな。そんなに俺様と一緒にいたいって言うなら、付き合ってやるよ」
 真弘がそう答えると、嬉しそうな笑顔が返された。

                                 END


「いつか」来る未来のせいで、珠紀への気持ちを認めることができない先輩。
真弘の引く線を、まだ踏み越えられない珠紀。
手を伸ばせば触れあえるけれど、触れてしまうことが怖い距離。
そんな感じで。