〜花逢瀬

「まーひーろせーんーぱーい?」
 さわさわと葉擦れの音がする山の中を、珠紀は真弘を探しながら歩いていた。
 本日の約束の場所は、なぜか山の中。
 それも、まだ珠紀が足を踏み入れたことのない奥のほうだ。
 真弘に約束の場所を告げられたとき、「絶対に迷います! それにその場所はすぐにわかる所なんですか!?」と抗議をしたけれど、あっけらかんと「大丈夫だ」と根拠のない太鼓判を押された挙句、「迷いそうになったらそのへんにいるカミたちに訊け。教えてくれるから」とまで言われた。
 別の場所で待ち合わせて、一緒に行くという選択は、最初から真弘の中に存在していないようだった。
 入ったことのない山の奥に足を踏み入れてからずっと、珠紀は声を張り上げて真弘を呼んでいるけれど、応えてくれる声はいまだにない。
 穏やかな山の空気。珠紀を歓迎してさえいるカミたちの気配も、そこここに感じられる。とはいえ、不安がまったくないわけではなく……。
 ひんやりと肌寒さを感じさせる空気に、心細さが募った。
「真弘先輩―、どこにいるんですかー?」
 返事くらいしてください、と、泣き出したいような気分で珠紀は言った。
 呑気に啼く鶯の声が、優しく木霊する。
 けれど、やっぱり珠紀の声に応える真弘の声はしなくて。
 だんだん腹が立ってきた珠紀は、このまま帰ってしまおうかと考えた。
 奥へ奥へと進む足を止める。
 立ち止まり、ゆっくりと深呼吸をくり返し、きれいな空気で肺を満たすと、少し気持ちが落ち着いた。
「真弘先輩、どこですか?」
 もう一度声を張り上げた珠紀は、ゆっくりと周囲を見回してみた。
 返る声はなく、真弘の姿も見えない。
 ふと、まだ真弘はここに来ていないのだろうかと思い至った珠紀は、途方に暮れてしまった。
 もし約束した場所にまだ来ていないとしたら。
 真弘が指定した場所が、珠紀にはわからない。辿り着けるかどうか、不安になってきた。
 カミたちに尋ねてみようか。それとも少し戻って真弘を待ってみようか。
 そう思いながら周囲を見回した珠紀の視界を、淡い色が過ぎった。
 ゆっくりと風に乗りながら、ひらり、ひらりと、舞い落ちる花弁。
「……桜?」
 わずかに湿った土の上に落ちた花弁を見つめたあと、珠紀は頭上を振り仰いだ。
 ぐるりと見回してみても、桜の木は見つけられない。
「風に乗ってきた?」
 ならば、もう少し先に進めば桜の木があるのだろうか。
「もしかして真弘先輩、そこにいるのかな?」
 なんとなくそんな気がして、珠紀は奥へ続く道を歩きだした。
 奥へ進むにつれて、清涼な空気が増す。
 滅多に人が足を踏み入れない場所だから、雑多な念が凝らないのだろう。
 そう思いながら歩いていると、目の前に桜の巨木が現れた。
「わぁ!」
 すごい、と、感嘆の溜息を零しながら、珠紀は巨木に近づいた。
 まだ瑞々しさを完全に失っていない幹に触れる。
 山の空気で冷えている幹は、けれど、珠紀の掌に温かな感触を伝えてきた。
 この桜のカミはどこにいるのだろう。
 そう思いながらなんとなく上を見上げたときだった。
「おせぇぞ、珠紀」
 待ちくたびれたと言いたげな真弘の声が、降ってきた。
「真弘先輩?」
「おう! 迷わなかったか?」
 太い枝に腰掛けて、珠紀を見下ろしている真弘の姿を見つけて、珠紀はほっと息をついた。
「迷いはしませんでしたけど!」
「うん? どうしたよ?」
「どこに向かえばいいのか判らなくて、帰ろうかと思いました」
 拗ねた口調で言うと、真弘がぱちぱちと瞬きをした。
「俺、この桜の木のところって言わなかったか?」
「訊いていません。山の奥の方としか、言わなかったじゃないですか」
「あー、そうだったか? 悪ぃ」
 バツが悪そうに頭を掻いて、真弘が「悪かったな」と呟くように謝った。
「もういいですけど……。あの真弘先輩、降りてこない気ですか?」
 枝に座ったままの真弘に尋ねると、返ってきたのは微笑だった。
 降りてくるつもりはないらしい。
 どういうつもりだろうかと珠紀が思っていると、
「珠紀」
 と呼ばれた。
「体の力を抜いておけよ? 風でここまで運んでやるからよ」
「え? ……きゃっ!?」
 真弘に問い返す間もなく、足が地面から離れて、浮遊感が珠紀を襲った。
 足が地面に触れていない、その心許ない感覚。
 真弘の操る風が運んでくれていると解っていても、なんとなく落ち着かない気持ちにはなってしまう。
 真弘の姿が見えたところで、珠紀は手を差し出した。
 苦笑を浮かべた真弘が、珠紀の手を掴んで、引き寄せてくれる。
「そんな不安そうな顔、するな。コントロールを誤るなんて真似、絶対しないからよ」
 そう言いった真弘に手を引かれて、珠紀は彼の隣に降り立った。
「座れるか?」
「あ……はい。たぶん、大丈夫です」
「んじゃ、座れ。いざって時は、俺様の操る風で守ってやるから」
「よろしくお願いします」
 自信たっぷりに言い切る真弘に、珠紀は素直に頭を下げた。
 ゆっくりと枝に座って、まず、頭上を見上げた。
 空の代わりに、薄紅色の景色。
「きれいですね……」
 珠紀が呟くと、
「だろ?」
 と、嬉しそうに真弘が頷いた。
 上を見ても、下を見ても、桜の花景色が広がっている。
 桜の木の下で舞い散る花弁を、咲き誇る花を見ることはあっても、桜の木の枝に座って、桜の花に囲まれるなんて体験、したいと思ってもできることではないだろう。
 少なくとも、都会で育った珠紀は考えたこともないことだった。
「ちょっと時期外れだけど、お花見だ。神社の桜の木も立派だけど、ここも負けてねぇだろ?」
「はい」
 にこりと微笑みながら
「真弘先輩、ありがとうございます」
 と、そう言った。
 怪訝そうな顔で真弘が珠紀を振り返る。
 なぜお礼を言われるのか解らないらしい顔つきの真弘に、珠紀は言う。
「この桜をわたしに見せたくて、今日、ここで約束したんですね」
「あー、ああ。一緒に来たら、途中で種明かししちまいそうだったからよ。驚きが半減しちまうだろ?」
「……それは確かにそうですけど。でも、さっきも言いましたけど。本当に、途中で帰ろうかと思ったんですよ。呼んでも返事はないし、場所はわからないし」
 帰ろうかと考えていたときに、桜の花弁が落ちてきて。真弘がいるのは桜の木のところじゃないかと考えたのだと言えば、真弘の目が柔らかく細められた。
 とても大人びた微笑に、珠紀の鼓動が早鐘を打つ。
 普段、ガキ大将みたいな振る舞いと言動が目立つくせに、不意打ちで、とても大人びた表情をされると、珠紀はどう反応していいのか判らなくなる。
 だからいまも真っ直ぐに真弘を見返せなくなって、珠紀は不自然に思われないよう、そっと視線を外した。
 けれど、真弘のことが気になって、視界の端で様子を窺う。
 珠紀の動揺になど気づいていないだろう真弘が、珠紀から視線を外して、ずっと遠くを見つめていた。
 ずいぶんと穏やかな眼差しだと、珠紀は真弘を盗み見ながら思う。
 真弘が見ているものを知りたいと思うけれど、たんに景色を見ているだけなのか、それとも遠い時間に思いをはせているのかが、珠紀にはそれを知る術がない。
 訊いてみたところで、巧くはぐらかされてしまうのだ。
 真弘ほど単純に見えて、実はとても複雑な人はいないんじゃないだろうかと、珠紀は溜息をそっと吐き出した。
「なぁ、珠紀」
 静かな声音で呼ばれて、珠紀は「はい?」と答えながら真弘の横顔をじっと見つめた。
 大人びた横顔だった。
 どきどきする。
 けれど、珠紀にとって、ふと、真弘を遠くに感じる表情だった。
「なんですか、真弘先輩?」
 珠紀に声をかけたくせに、真弘はなかなか話を切り出そうとしない。
 言い辛いことだろうか、と首を傾げたところで、優しい眼差しが珠紀を見つめた。
 常にない、穏やかな眼差し。
 また珠紀の鼓動が跳ねた。
「一緒に……また、ふたりでここに来ような」
「え?」
「来年も、再来年も、ずっと」
「ずっと……?」
「おう、ずっと」
「ふたりだけ、で?」
 真弘の性格を思えば、みんなで一緒に来て騒ぐほうが好きそうに思えるのに。珠紀とふたりきりというのは、なんだか意外な気がした。
 珠紀の問いかけに、真弘が少しだけ困ったような顔をした。
「……まあ、お前が嫌じゃなかったら、だけどよ」
「嫌じゃないです! 嫌じゃなくって……」
「あー、もしかして、意外だと思ったか?」
 珠紀の疑問を汲み取った真弘の問いかけに、こくりと頷いた。
「みんなで来るのもいいんだけどよ。実はこの場所のこと、誰にも教えたこと、ねぇんだ」
「え、そうなんですか!?」
 こんな立派な桜の木を見つけたなら、得意満面でみんなに自慢して言い触らすだろうと思っていたのに。
「もしかしたら大蛇さんと祐一あたりは知っているかもしれねぇけどな。俺がみんなに教えたことはねぇんだよな」
「どうしてですか?」
「どうしてって……んなの決まってるだろ。俺様のお気に入りの場所だからだよ」
 そんなこともわからないのかよ、と。少し呆れ気味な顔をされて、珠紀は肩を竦める。
 けれど、そんなふうに変な独占欲の強さは、真弘らしいと思う。思う一方で、たぶん、それだけが理由じゃないような気もした。
 単純そうでいて、真弘も大概複雑なところがある。
 でも。
 でも、と、珠紀は思う。
 複雑な真弘の心中は、この際、追及しないでおこう。きっと、いまは知らなくていいことなのだ。
 この桜の木のことを誰にも言わないでいた真弘の気持ちを、いつか、話してくれるそのときまで、聞かずにいよう。
 いまはただ素直に喜べばいい。真弘が未来を見ている、そのことを。
 自然と未来の約束をしてくれることが、嬉しい。
 真弘の中で、未来があたりまえに存在していることが、珠紀には嬉しかった。
 真弘の未来の中に、珠紀の存在が一緒にいるということが、嬉しかった。
 頭上の桜を見上げて、珠紀は息をつく。それからゆっくりと真弘を振り返って、微笑を浮かべた。
「わかりました」
「うん?」
「この場所のことは、真弘先輩とわたしのふたりだけの秘密の場所、ですね? 誰にも言いません。来年も、これからさきもずっと、絶対、一緒にこの場所で、ふたりだけでお花見をしましょうね」
「約束、な?」
「はい。約束しましたからね」
 言って、珠紀は真弘の小指に自分の小指を絡めた。
 真弘が苦笑する。
「子供っぽいなぁ」
 擽ったそうな口調に
「子供だからいいんです!」
 と、そう答えて、珠紀は指切りをする。
「指切った!」
 指を離したとたん、少し寂しい気がした。
 ふと真弘を見ると、真弘も名残惜しそうな表情を浮かべている。
 珠紀と触れ合っていた小指の先を見つめたまま、真弘が言った。
「なぁ、珠紀」
「なんですか?」
「この場所な……」
 いったん言葉を切って、真弘が上を見た。
 珠紀も真弘に習って見上げる。
 そよ風に、桜の花が揺れていた。
 散り始めた花弁が、空を踊るように舞っていた。
「この場所、新緑も綺麗なんだ」
 愛しそうに目を細めて真弘が言う。
 桜の花から真弘に視線を戻して、珠紀は頷いた。
「じゃあ、紅葉もすごく綺麗でしょうから、真弘先輩、新緑も、紅葉も、ふたりで見に来ましょうね」
 珠紀がそう言うと、真弘が珠紀を振り返った。
 とても嬉しそうに笑って、珠紀を見つめる。
 そして……。
「珠紀」
 優しいトーンで名前を呼ばれて。
 珠紀が瞳を閉じると同時に、真弘の温かな唇が、珠紀の唇に重ねられた。

                                 END

桜の花に囲まれている真弘先輩と珠紀が思い浮かんだので、書いてみました(笑)。
普通の話にするはずだったのに、やっぱりどこかシリアスチックになるのは、わたしがシリアス傾向の
話しか書けないからです…(反省)。