未来 「主来たれり」 珠紀の静かな声音に、頑なな空気が反応するのが判った。 いまは、もう、この場所に強張る必要などないと頭で解っていても、真弘の体は条件反射で緊張をしてしまう。 珠紀の手が扉にかかり、ゆっくりとそれを開く。 それをじっと見つめながら、頭の片隅で、心の奥底で、逃げ出したいと囁く声がする。声がしている気がする、と、真弘は思う。 それがこの血の中に流れる古のカミ、ヤタガラスの声なのか、自分自身の声なのか、真弘には判断がつけられない、心のうちからの声なのだけれど。 「真弘先輩?」 珠紀がゆっくりと振り返り、首を傾げて真弘を見つめている。 「大丈夫ですか?」 労わるような珠紀の言葉から、少しの不安と心配が感じ取れて、真弘は苦笑した。 不安にさせてどうする。 心配をさせてどうする。 いまさら虚勢を張っても仕方がないと解っていても、珠紀の前ではいつだって、どんな時だって、強気で不敵で、傍若無人、天上天下唯我独尊、俺様でいようと決めたはずなのに。 真弘が不安になると、どうしてだか伝播してしまうそれを敏感に察して、珠紀を不安にさせてしまう。怯えさせてしまう。 ゆっくりと足を踏み出し、真弘は珠紀の傍らに立った。 不本意なことだけれど、いまだに少しだけ目線が上の恋人の瞳を覗き込み、真弘はニヤリと笑った。 「馬鹿。大丈夫に決まってる」 言いながら珠紀の額を指で弾いた。 「痛っ! ……常々思うことですけど」 額を掌で押さえつけ、珠紀が恨みがましい眼差しを真弘に向けている。 「なんだよ?」 「彼女のわたしに対して、扱いが酷くないですか?」 「そうかぁ? 普通だと思うけどな」 「全然! まったく! 普通じゃないですからっ!」 真弘の言葉に憤慨した珠紀が怒鳴り出す。 「だいたい、普通だったら、彼女にデコピンなんてしないですよ!」 「親しくない奴に、それこそしないだろうが、デコピンなんてよ」 「暴力反対。女に手は上げない主義じゃなかったんですか、真弘先輩」 「暴力じゃねーだろうが。愛情表現だ、愛情表現。俺様に愛されているなんて、幸せだな、珠紀?」 「痛い愛情ならいらないです。わたしは優しくされたいです」 むうっと頬を膨らませた珠紀に睨みつけられる。けれど、どこか小動物にも通じる仕草に迫力など感じられなくて、真弘は笑った。 「ばーか。そんな顔で睨まれたって、怖くなんかねぇよ」 かかか、と笑った真弘に、珠紀の頬はますます膨らんだ。 「風船みたいだなぁ」 真弘は言いながら指で珠紀の頬をつつく。 「うー」 「だから、怖くねぇって」 「むぅ」 「むくれるなって。ほら、可愛い顔が台無しになるぞ」 不意打ちでそんなことを言うと、珠紀の頬が真っ赤に染まった。 くるくる変わる表情に、「面白ぇな」とは心の中で呟いて、真弘は蔵の中に足を踏み入れた。 明り取りと風通しを兼ねた小窓から差し込む光が、蔵の中を照らし出す。 「相変わらず埃っぽいなぁ」 年末の大掃除のときに、丁度いいからと蔵の掃除を手伝わされて、それからたいして時間は過ぎていないというのに、本棚に入りきらず床に詰まれたままの書物の上には、うっすらと埃が積もっているようだった。 開け放したままの扉から入り込む風に、埃が踊るのが見える。 「うう、やっぱり定期的に掃除したほうがいいかなぁ」 珠紀の溜息混じりの呟きに、真弘は是と頷いた。 「だな。一ヶ月に一回とかじゃなくて、週に一回掃除したほうが、楽じゃねぇか?」 「先輩、手伝ってくれます?」 「なんで俺なんだよ? 慎司や美鶴がいるだろうが」 「だって、これ以上ふたりに負担をかけるわけにいかないし……」 「だったら自分でしろ、自分で! だいったい、俺になら負担をかけてもいいってのか!?」 「真弘先輩、冷たい。薄情。ここは男らしく「俺に任せろ!」って言うところじゃないんですか?」 真弘の口調を真似るように言った珠紀に、白けた眼差しを返しながら、真弘は言う。 「冗談じゃねぇぞ。誰が言うか」 のせられて頷こうものなら、この蔵の掃除係は真弘に決定されてしまうこと、間違いなしだ。 心底嫌そうに顔を顰めて、真弘は蔵の中をそっと見渡した。 ひんやりとした空気が、体に纏わりつくようだ。 開け放したままの扉から、淀んだ空気は少しずつ出て行っているけれど……。 それでもこの蔵の中の空気は、真弘の肌を粟立たせる。 気持ちを侵蝕する。 陰鬱な空気の中に、真弘を捕らえてしまおうとするように。 幼い頃、ここで真弘に向けられたババ様の言葉が、どうしても思い出されてしまう。 贄になる運命は消えてなくなったのに、それを告げられた事実が真弘を苛むのだ。 この血に色濃く受け継がれているヤタガラスの意識が。この蔵の中に染みこんだ負の空気が、囁く。 忘れるな。 忘れるな。 忘れてはならぬ! ヤタガラス――その血を受け継ぐものは、贄となる者。 その力も、存在も、なにもかもが、いつか訪れる最後の封印に必要となるもの。 安息の時間も、安寧の場所も。 その血が、力が、その身にある限りは訪れない。 それは許されない。 許されてはならぬ。 ……そう、囁きかけてくるのだ。 真弘は目を細めた。 苦痛に耐えるように、奥歯を噛みしめる。 いつの間にか握りこんでいた拳に、更に力が篭った。 爪が掌に食い込み、皮膚を破ろうかというその瞬間、 「真弘先輩?」 この蔵に入ったときのように、珠紀が真弘を呼んだ。 心配を隠さない、声、だった。 「真弘先輩、ごめんなさい」 真弘が意識して掌から力を抜くのと同時に、珠紀が言った。 「な……んだよ、いきなり? お前に謝られる覚えはねぇぞ。……とりあえず今は」 とりあえず、と真弘が言ったとたんに珠紀が渋面を作った。なにか反論したそうに唇が動いて、けれど、話が脱線することに気づいたのか、珠紀はそこには触れずに「ごめんなさい」ともう一度呟いた。 真弘は突然の謝罪に訳がわからず、うろたえる。 謝られる覚えはない。 今にも泣き出しそうな、自責の念でいっぱいの、そんな顔で謝られるようなことをされた覚えも、言われた覚えもなかった。 「なんだよ、急に謝るな。訳がわかんねぇぞ、珠紀?」 真弘が珠紀の顔を覗き込むように見つめると、「だって」と珠紀がすっかり落ち込んだ声音で呟いた。 「わたし、すっかり忘れてたけど……。真弘先輩、ここ、嫌いですよね」 真弘の反応を窺うような珠紀の問いかけに、真弘は肩を竦めた。 「まあ、好きじゃねーな」 「ごめんなさい」 三度目の謝罪に、真弘は苦笑した。 「謝るな。謝らなくていい。お前のせいじゃねぇんだから。それに俺は隣にいるだろうが。生きて、ちゃんとお前の隣にいる……。今、ふたりで一緒にいるんだから、問題ねぇだろ」 謝るなと囁くように言ってから、真弘は珠紀の体を抱き寄せた。 少しだけ乱暴な所作になってしまったのは、照れくささを隠すためだ。 それは珠紀も解っているのか、文句の言葉は言われなかった。 「平気な顔で「もうここにいても大丈夫だ」って、まだ言えるわけじゃねぇけど、必要以上に神経質になって、逃げ回るような場所でもねぇよ」 「うん」 真弘の腕の中で、珠紀が小さく頷いた。 幼い子供のような仕草で頷く珠紀に、真弘は笑みを浮かべた。 ぎゅっと、珠紀を抱きしめなおして、真弘はそういえばと思い出した。 この蔵の中で、はじめて珠紀を抱きしめた。 この場所から。ロゴスに惨敗した事実から。すべてから逃げ出すようにここを立ち去ろうとした真弘の背中に、叩きつけるように浴びせられた珠紀の言葉を封じるために、珠紀を抱きしめた。 あの時、自分はなにを思っていたのだろう。 真弘は、そんなことを思う。 なにも知らない珠紀の言葉を封じるために。ただそれだけのために彼女を抱きしめたのか、ただ触れたかっただけなのか。すべてを吐露してしまいたかったのか、泣きたかったのか。そのすべてだったのか、すべて違ったのか。 あの時、自分がなにを思っていたのか、真弘には思い出せない。 あれはそんなに遠い日のことではないのに、ずいぶんと昔のことのように思える。 それほどまでに真弘の世界は急変した。もちろん、良い意味でだ。 「珠紀」 「はい?」 そっと名前を呼ぶと返る声。 愛しいと思った。 嬉しいと思った。 腕の中の温もりを感じたくて、抱きしめる腕に力を込めた。 「真弘先輩?」 訝しげに呼びかける声に応えず、真弘の頬にかかる珠紀の髪に口づける。 鼻腔を擽るシャンプーの香りは、真弘の使ったことがあるものだ。 祐一の計略にはまって、拓磨とふたりでこの家に滞在させられたときに。 真弘がそんなことを思い出していると、急に、珠紀がクスクスと笑いだした。 「あ? なんだよ、急に笑い出して」 不審そうに真弘が問いかけると、珠紀が照れくさそうに目元を染めて、真弘の腕の中におさまったまま見つめてきた。 「真弘先輩には辛い記憶が残る蔵だけど、わたしは案外そうじゃないなって」 「? 意味がわかんねぇんだけど?」 「怒らないで下さいね?」 そう前置きをして、珠紀が言った。 「不謹慎だけど、わたしとしてはある意味幸せな思い出が詰まっているなって」 「は?」 「ここで、はじめて真弘先輩に抱きしめられたんですよね」 真弘が思い出していたことを、珠紀も思い出していたらしい。 顔を赤くして、けれど真弘から視線は逸らさないまま珠紀が続けて言った。 「それから、ここで真弘先輩が生きることを選んでくれた。……ずっと捕まえられなかった真弘先輩を、やっと捕まえられた場所なんです。だから」 だから、わたしは好きですよ、この場所。 しっかりとした口調で言って、珠紀が笑った。 呆気に取られて珠紀を凝視した真弘は、やがて、くつくつと喉を鳴らすようにして笑い出す。 ああ、まったく、珠紀には敵わない。 そう、思う。 普段はすぐに照れたり、恥ずかしがったりと素直じゃないくせに、ここぞという時には、真っ正直に、照れたり恥ずかしがったりしないで、真っ直ぐな言葉を口にする。 それに何度、救われただろう。 引き止められただろう。 時々、呆れさせたり、腹立たしさを覚えたりもすることもあるけれど。 「真弘先輩、どうして笑ってるんですか!?」 肩を震わせながら笑い続けている真弘に、珠紀が不機嫌そうに唇を尖らせ、抗議を示すように真弘の胸を押しやって、離れた。 珠紀の温もりから遠ざかったことが、寂しく感じられた。 拗ねた表情で睨みつけてくる珠紀を、真弘は眼を細めて見つめる。 「珠紀」 呼びかけると、真弘を睨みつけている眼差しがわずかに緩んだ。 「珠紀」と、もう一度呼んで、抱き寄せる。 抵抗はなかった。 指に触れる髪の感触を楽しむように、真弘はさらさらとしているそれを指先で弄びながら言った。 本当はこんなことをしたり、言ったりするのは自分には似合わないと思うけれど。 「……お前の言うとおりだよな」 「え?」 「陰鬱な思い出ばかりじゃなくなったな、って」 「ええと?」 意味が解りません、と、眉根を寄せているだろう珠紀の顔を思い浮かべながら、真弘は言う。 「生きることを選んだ俺様が……。あーあれだ。大袈裟な言い方をすれば、気持ち的に生まれ変わった俺様とお前がキスした場所だった、と……もがっ!?」 「な、な、なにを言い出しますか、真弘先輩っ!?」 真弘が全部を言い終える前に、完熟トマト並に顔を真っ赤にした珠紀の掌が、真弘の口を覆い、塞いだ。 真弘はニヤニヤと笑って、珠紀を見つめる。 自分からその話題を振っておきながら、動揺している様が可笑しかった。 可笑しくて、愛しくて。 ああ、本当にこんなことを言うなんて自分らしくない。そんなことを考えながら、真弘は珠紀の手首を掴んだ。 細い手首だな、と、自分の手首との違いを、ありきたりな感想で思う。 真弘の唇を覆っていた掌をゆっくりと離させると、真弘は真剣な眼差しで珠紀を捕らえた。 照れくさそうに視線を泳がせていた珠紀の瞳が、落ち着きを取り戻して、真弘を見返した。 異常な因習を異常だと、真っ向から指摘し、弾劾した毅然とした瞳を真弘は覗き込む。 頼りなくありながら、その心根は守護者の誰より――歴代の玉依姫の誰よりもつよくある少女の瞳を、真弘は見つめた。 珠紀が玉依姫でなかったら、きっと、真弘は古の約束どおり、贄となっていたのだろう。 生きることも、未来も、なにもかもを諦めていたままだろう。 けれど、珠紀に出会った。 玉依姫とは思えないほど非力な、けれど、誰もなしえなかった鬼斬丸の破壊を望み、成し遂げた玉依姫。 真弘の、一番大事な存在。 「正直、今でもここが嫌いだ。逃げ出したいくらい、嫌いだ。――だけど、ここが嫌いだってことも、逃げだしたいって気持ちも、俺はさ、受け入れていく。認めて、受け入れて、生きて行く。これから、ずっと」 「真弘先輩……」 「ここでババ様に告げられたこと。怖かったこと。悲しかったこと。恨んだこと。そう言うことも含めた全部の記憶を、忘れたりしねぇよ。ちゃんと抱えて生きて行くから……だから、な、珠紀」 「はい?」 「傍にいろ」 真弘はシンプルに、言葉を唇に乗せた。 「…………全部、ですか?」 真弘の言葉に、是も否も答えることなく、困ったように首を傾げた珠紀が言った。 「珠紀?」 なにを困っているんだろう。真弘は不思議に思いながら、疑問を含んだ声音で呼びかける。 真弘の呼びかけに、躊躇するように視線を彷徨わせた後、珠紀がぽつりと言った。 「全部ってことは、つまり、……あれですよね? 今日のこともってことですよね?」 「あたりまえだろ」 呆れつつ、照れつつ、真弘は頷いた。 たとえば喧嘩をしても、仲直りをしても。なにひとつ取りこぼすことなく、覚えていたいと真弘は思う。 些細な仕草、言葉さえ、忘れずにいたいと思うのだ。 「全部つったら、全部だ! 今日までのことも、これからのことも。珠紀、お前もちゃんと覚えていろよ?」 「えっ!? わたしもなんですか!?」 「あたりまえだ。ちゃんと、全部、覚えてろ」 「……自信、ないんですけど」 「覚えてろ」 念を押すように言って、真弘は珠紀を引き寄せた。 いつか、そう遠くない未来。これから先、この場所に足を踏み入れるたびに思い出すのは、陰鬱な思い出だけじゃないだろう。 真弘の腕の中の珠紀の温かな体温を、存在を、思い出すのだろう。 ゆっくりと、記憶を、優しくて温かなものに塗り替えていくのだ。 珠紀の唇に軽く口づけた真弘は、恥ずかしそうにぎゅっと目を閉じている珠紀の耳元に唇を寄せ、言った。 「好きだ」 その言葉じゃ伝え切れていない気もしたけれど。けれど、まだ、その言葉だけでも十分なのかもしれないと思いながら告げた言葉に返された、笑顔。 珠紀の笑顔に満足そうに笑って、真弘はもう一度、珠紀を抱きしめた。 END |
予定では純情バカップルになるはずだったのにな。
予定は未定の典型かなぁ?
書きたかったのは、蔵の中に入るたびにキスしたことをうっかり思い出して、赤面するふたりだった……。見事に玉砕しました。