黄昏 「しょうがねーか」 確実に訪れた変化。だけど実感なんて、全然ない。そんなものは感じられない。けれど――。 それでも、運命の歯車だとか言うものは回りだした。 真弘の運命を左右するらしい少女と、真弘は出会ってしまった。 屋上の指定席に座り、ぼんやりと空を見つめながら、真弘はぽつり「しょうがねーか」と呟いた。 薄い空色を横切る、黒い影。 鴉だ。 ヤタガラスの眷属。ときには真弘の配下になるもの。 大きな翼を広げ、流れるように悠々と空を飛んでいる姿を見つめ、そっと息をつく。 「しょうがねーよな」 もう一度、ぽつりと小さく真弘は呟いた。 あの鴉のように、自由に空を飛べたら、あるいは、この村から逃げ出すこともできただろうけれど。 逃げられたかもしれないけれど。 それでも、この身に流れる血から、逃れられやしないのだ。 いつかこの血に絡め取られて、掴まってしまう。 諦めの吐息を吐き出した、瞬間だった。 「真弘先輩らしくないですよ、溜息なんて」 揶揄をふくんだ声が、下からかけられた。 屋上の出入り口から真弘を見上げる、玉依姫見習い。 ほんの数日前にこの季封村に来た、当代玉依姫の後継者兼、孫。 真弘が護衛をしなければいけない少女だ。 屈託なく笑い、遠慮のない物言いをするくせに、変なところで天然だ。 この村以外の人間なんて良く知らないけれど、きっと、どこにでもいる、普通の少女だ。 ここで育たなかったために、この村の空気に染まりきっていないところを、真弘は案外気に入っている。 珠紀には、絶対に、「気に入っている」なんて言わないけれど。 「おっせーぞ、珠紀」 たいして待っていないけれど、愚痴めいた文句ぐらい許されるだろうと思って口にした言葉に、珠紀が顔を歪めた。 「お待たせしてすみませんでした!」 噛み付いてくるかと身構えた真弘は、珠紀の謝罪に肩透かしを食らう。 「なんだぁ? やけに素直じゃねぇか? なんか悪いものでも食った……いや、昼飯は美鶴が作ってるから、大丈夫だよな。おまえのクラス、今日は調理実習なかったはずだから、やっぱ、拾い食い……」 「真弘先輩と一緒にしないで下さい! っていうか、どうしてわたしのクラスの時間割を知ってるんですか!?」 「おまえ、俺が拾い食いするようなやつだと思ってんのかよ!? するか、そんなマネ。オレは鴉取真弘様だぞ! 拓磨と一緒にするんじゃねーよ」 「あ、なんだ、拓磨に聞いたんだ」 真弘の反論を見事に聞き流し、挙句、失礼にも「ストーカーかと思いました」と呟かれて、真弘のこめかみがぴくぴくと引き攣った。 「誰がおまえ相手にそんなことするかよっ!」 そう怒鳴るように返して、真弘は珠紀の勘違いを訂正する。 「言っとくけどな、拓磨じゃねぇぞ。自称おまえの親友だっつー、あのおせっかいで煩い女からだ」 「清乃ちゃん?」 素っ頓狂な声を上げた珠紀に頷いて、真弘は言った。 「昼休みも終わるつー時間に、わざわざ俺様の教室に来てよ、おまえのクラスの時間割を言いにきやがった。拓磨は、今日、掃除当番だって?」 「あ、はい。拓磨のスケジュールも把握済みなんですね……」 呆れたように呟かれたそれに、真弘は憮然とした顔つきになった。 別に拓磨の掃除当番日程なんかに興味はない。が、あの珠紀の親友を自称している女が、お節介にもすべてを報告して行くのだ。 おまけに、最後に、 「珠紀ちゃんをお願いしますね!」 と、真弘の手を握らんばかりの勢いで一言付け加えて行った。 真弘の心情などお構いなし。そんなところは、珠紀と似ているかもしれない。 通じるところがあるから、仲が良いのだろう。 周囲には迷惑なコンビだが。 「帰るぞ」 一言言って、真弘は身軽に飛び降りた。 風を操って、衝撃を殺す。 真弘が起こした風に、珠紀の髪が揺れた。 風に乱れた髪を、珠紀が指先で梳き整える。 珠紀は、やっと、真弘の力に慣れたようだった。 真弘が高い場所から飛び降りても、「危ないですよ!」と大騒ぎする回数が減った。 この順応力の高さも、真弘は気に入っている。 くどいようだが、これも絶対に珠紀には言わない。 「拓磨を待たないんですか?」 驚いた声を上げる珠紀に、真弘はうんざりしたように言う。 「おっまえ、まだ俺様に待てって言うのか? 拓磨なんか待っていられるかよ。ほら、帰るぞ。陽が落ちちまうだろーが」 言って、真弘は強引に珠紀の腕を取って歩き出した。 「もー、わかりました。帰りますから、真弘先輩、手の力緩めて下さい。痛いですってば」 言われて、真弘は珠紀の腕を掴む力を緩めた。 ゆっくりと階段を下りていると、 「真弘先輩」 珠紀が声をかけてきた。 真弘は振り向かずに、 「なんだよ?」 と先を促す。 「さっき、「しょうがない」って言ってましたけど……」 「あー、あぁ、聞こえてたか?」 「最初に言っておきますけど、盗み聞きしたわけじゃないですよ。偶然ですから。……でも、結果、盗み聞きみたいになっちゃったのは、すみません」 「気にしねぇよ。あとな、謝んな。後悔するぞ?」 「後悔?」 首を傾げる珠紀に、にやりと肩越しに笑いかける。 「あれだ、「しょうがねぇ」ってのは、ババ様の言いつけだからよ、ちょっと面倒な気もするけど、新しい玉依姫を守るしかねぇなって」 他の守護者にだけは知らされず、鴉取の家の者にだけ告げられた玉依姫からの、密命。 その命を実行するか否かの鍵を握る少女に、真実を告げることはできない。 嘘なら、幼い頃からつきなれている。 だから真弘の口から言葉は、自然と零れた。 祐一や卓にすら気取られない自信があるほどさらりと言えたのは、言ったことがあながち嘘じゃないからだ。 真弘の視界の端で、少女の丸みを帯びた頬が風船のように膨れた。 面白いなと、真弘は思う。 真弘も喜怒哀楽が豊富なほうだが、珠紀も真弘に負けていない。 くるくると変わる表情は、見ていて飽きない。 楽しい。 「わたしなんかが玉依姫ですみませんねぇ?」 嫌味いっぱいに返された言葉に、真弘はからからと笑った。 「おー、自覚があるのか。だったら、早く玉依姫らしくなれよ? 顔の造作は生まれつきだから仕方ねぇけどよ、せーめーて、色気か女らしさは磨いとけ?」 「それ、セクハラ発言ですよ?」 睨まれたけれど、真弘は肩をすくめて受け流す。 ちっとも怖くなんかなかった。 それよりも、なんだか、くすぐったいような気がした。 そのくすぐったさに小さく笑みを浮かべると、それをどう勘違いしたのか、珠紀が更に怒り出す。 「なにを笑っているんですか、真弘先輩!?」 いやらしい、とかなんとか、失礼な発言をされる。 「いやらしいって、おまえな……」 顔を顰めて珠紀を見ると、負けじと睨み返される。 この気の強さは静紀よりも美鶴と通じるところがある。さすが親戚筋だなと思いながら、真弘は促すように珠紀の手を引いた。 「ああ、文句は帰り着いてから、じっくり聞いてやるからよ。早く帰ろうぜ。陽が落ちたら、厄介だろ」 「じっくり聞くなんて嘘じゃないですか。どうせ真弘先輩、わたしを家の中に押し込んだら、さっさと帰っちゃうくせに」 唇を尖らせるようにして珠紀が言い、真弘は「良く判ってんじゃねぇか」と笑った。 「ああ、もうやっぱり」 拗ねたようなその科白に、真弘は目をぱちくりとさせた。 「なんだよ、やっぱり、て」 予想通りだったと言いたげな珠紀の言葉に首を傾げた真弘は、にやりと口端を持ち上げた。 「――ははぁ。つまり、それは俺様に傍に居て欲しいってことか? 俺様が傍に居ないと淋しいか? そーか、そーか、やっと俺様の魅力に気づいたか。しょうがねぇなぁ。珠紀のご希望通り、ずっと一緒に居てやろうか? なんなら、朝まで?」 ニヤニヤ笑いながら真弘が言うと、きょとんと真弘を見返してくる大きな眼差し。 零れ落ちそうな目だな、と、自分の瞳の大きさを棚上げにして真弘が思っていると、珠紀の顔がだんだん赤く染まってきた。 ぱくぱくと金魚のように口を開閉して、 「な、なにを言い出すんですかっ!? そんなわけないでしょう!? 人の心情を捏造しないで下さい!!」 真弘を怒鳴りつける。 「ばーか、冗談に決まってるだろ。おまえ、顔、真っ赤」 べっと舌を出すと、珠紀の顔が別の意味で赤くなる。 もう一度真弘を怒鳴りつけようと口を開いた珠紀の手を、真弘はぐいっと引っ張った。 「からかって悪かったって。ほら、帰るぞ。マジ、陽が暮れる」 少し真剣な顔をして、真弘は窓越しに空を見る。 山の頂を、夕日が赤く染め出していた。 空の色も、だんだん夕日の色に染まりだしている。 ああ、綺麗な色だな。景色も綺麗だ。 真弘がそう思いながら空を見つめていると、珠紀が 「あっさり謝るなんて……真弘先輩、本物ですか? なんか、気持ち悪い。真弘先輩こそ、やっぱりなにか悪いものを拾って食べたんじゃ……」 気味の悪いものを見たような顔で真弘を見つめながら、そう言った。 珠紀を振り返って、真弘は深く息をつく。 「バカ。正真正銘、鴉取真弘先輩様だ。俺様と同じくらい格好いいやつが、いるわけねーだろ。それに、拾い食いなんてしねぇよ。拓磨じゃあるまいし」 「……比較対象は拓磨なんですね。そういえば都合が悪くなったら、全部、拓磨のせいにしてますよね」 「年長者、先輩特権ってね」 「ガキ大将の発想……」 「いいんだよ」 真弘は屈託なく笑って言った。 珠紀が呆れた顔で真弘を見つめて、溜息をついている。 その姿からわずかに視線を逸らして、真弘は心の中でそっと呟く。 いいんだ。だって、今しかそれを許されていない。 我儘を言うことも、傍若無人に振舞うことも。誰かに優しくすることも、友人たちと騒ぐことも、すべてが『今』しか許されていない。 きっと、真弘には未来がない。 永遠に、こない。 バカみたいに虚勢を張っていなかったら、生きていられない。 それに。 真弘は思う。 それに、真弘がいなくなっても、誰も真弘のことを忘れないだろう。 馬鹿なことばかり言って、大騒ぎしていた真弘のことを、誰も忘れないだろう。 忘れないでいて欲しいと、切実に真弘は思う。 確かに生きて、傍にいた真弘のことを。 「ほら、そんなことはどうでもいいだろ。帰るぞ」 言いながら真弘は珠紀の腕を引いた。 珠紀はまだなにかぶつぶつと文句を言っているようだったが、真弘はそれを無視して、靴箱がある生徒用の玄関まで向かった。 朱赤の光に染まっている廊下を、真弘と珠紀は騒ぎながら歩く。 他愛なく、穏やかな時間。 鬼斬丸のことも、封印の贄になることも、全部忘れてしまえそうな時間を、あとどれだけ、こんなふうに過ごせるだろう。 案外気に入っている、この玉依姫と一緒に……。 普通の、当たり前の時間が、もっとずっと続けば良い。そう思う一方で、真弘は、案外気に入っている珠紀の、屈託ない笑顔を守れるなら、贄になっても良いかもしれない、と、そんなことを考えながら、「しょうがないな」と、小さく、小さく呟いた。 END |
出会ってまだ間もないふたり。
そして、真弘先輩の珠紀への気持ちはまだ「好き」ではないです。
いつか「好き」に変化する、好意。そんなところでしょうか。