Kiss

「あー、もう……どうしようぅ〜」
 机上に広げたままの課題は放置したまま、珠紀は情けない声を上げた。
 卓上カレンダーをちらりと見つめ、溜息を吐き出す。
 それから、また、「どうしよう」と呟いて、珠紀は机の上に突っ伏した。
 夏休みに突入して、早くも二週間。
 去年の夏の悩みなんて、課題の進み具合だけでよかったが、今年はそれよりももっと重大な悩みができてしまった。
 珠紀の初恋の相手であり、恋人でもある真弘の誕生日プレゼント。
 なにを、どんなものを贈れば良いのか、まったく、全然、さっぱり、思いつかないのだ。
 珠紀はお友達としてではないお付き合いも初めてならば、恋人の誕生日を祝うのも初めてだ。
 幸か不幸か学校は夏休み中で、級友たちに相談もできない。
 すこぅし年上の親友は、「珠紀ちゃん自身をプレゼントしなよ!」と、面白がっているとしか思えないことしか言わないし、美鶴に訊ねてみれば、なんだか冷気漂う笑顔で、「鴉取さんになにかを差し上げる必要性を感じません」と、一刀両断された。
 拓磨や祐一、慎司に卓、果ては遼や祖母にまで相談を持ちかけてみたけれど、誰も相談に乗ってくれなかった。
 いや、アドバイスはくれたのだ。
「グラビアアイドルの写真集」
「謙虚さ」
「やきそばパン」
「各局の美人アナウンサー名鑑」
「集中力」
「落ち着き」
「煩くなくなる薬」
 ……などなど。
 異口同音に、彼女として贈るのはどうかと思えるものや、そんなマニアックなものが存在するのかなぁ、とか、それは贈ることもできないものなんじゃ……、というか、季封村で一緒に生きてきたみんなが過去にどうにかしてくれていたら、真弘のあの俺様状態はなかったんじゃないの、とか、疑問ばかりが浮かぶアドバイスを列挙されるばかりで、何の役にも立たなかった……。
 突っ伏した机の上で、珠紀は「どうしよう」と泣き出したい気持ちで、三度目の呟きをもらした。
 が、なにひとつ思い浮かぶものはなく、そして容赦なく時間は進み。
 真弘の誕生日当日になっても、珠紀はなにも準備できていなかった。
 時計を見ても、カレンダーを見ても時間は戻らない。
「どうしよう」
 呟いた珠紀は、溜息どころか顔を引き攣らせるばかりだ。
 もうすぐ家を出る時間。
 ああ、もっと遅い時間に約束をしておけばよかった! と後悔しても後の祭り。
 もっとも、もっと遅い時間に約束をしていたとしても、鬼斬丸を封じている村という特殊事情で閉鎖的だった、山間にある村。街のような洒落た雑貨店やデパートがあるわけでなく。
 気の利いたものが短時間で買えるとはとても思えない。
「うう、時間よ、戻れー」
 泣き出したい気持ちで呟いてみても、もちろん時間は戻らない。
 そんなことで時間が戻ったら、むしろ大変だ。
 そんなこと、判っているけれども、叫んでみたいのが乙女心というものだ。
 必需品しか入っていないバッグを持ち上げ、その軽さに珠紀はやっぱり泣き出したい気持ちになる。
「パン屋さんでやきそばパンでも買うかなぁ」
 いっそのこと、本屋でグラビアアイドル写真集と、美人局アナ名鑑も買って、まとめてプレゼントしようか。
 真弘が好きなものをセットでプレゼントしてやろうと、ほとんど自棄としか思えないことを考えながら珠紀は部屋を出た。
 きっと、もっとマシなものを用意しろとか何とか、最初は文句を言われるだろうけれど、あの真弘のことだ。好きなものを前に、きっと満面の笑みを浮かべるだろうし、美人ばかりの本を見て、鼻の下を伸ばすに違いないのだ。
 ……複雑な心境ながら、けれど、真弘は喜ぶだろうと決め付けて、珠紀は玄関にむかった。
 もしかしたら、真弘はもう神社の階段の下で待っているかもしれない。
 そう思いながら珠紀は家を出る。
「じゃ、美鶴ちゃん、言ってきます」
 玄関まで見送りに出てきてくれた美鶴に手を振ると、
「お気をつけていってらっしゃいませ。日は長くなってまいりましたが、遅くならないよう、珠紀様、お気をつけ下さいね」
 心配の二文字を背負った美鶴が、今にも「お出かけになるのはやめられたほうが……」と言い出しかねない表情で見送ってくれた。
 からからと音を立てる引き戸を閉めて、珠紀は神社の階段に足を向けた。
 夏の午後の陽射しは、容赦なく照りつけてくる。
 むき出しの腕が、じりじりと太陽に焼かれる。
 珠紀は日傘を差して、歩みを進めた。
 階段に差し掛かり、そうっと階段下をのぞき見ると、所在無さげに座り込んでいる真弘の姿が見えた。
「日射病になっちゃうよ、真弘先輩」
 日陰に座らず、わざわざ陽射しの照りつける階段に座って待っているところが、真弘らしいと言えば真弘らしいが。
 珠紀は足早に階段を駆け下りた。
 久しぶりに穿いたフレアスカートの裾が、風を含んでふわりとふくれた。
 スカートの裾を気にして降りながら、
「真弘先輩!」
 そう声をかけると、眩しそうに目を細めながら真弘が振り返り、立ち上がる。
「よう」
 目の前で手を翳し、自らの手で陰を作ってから珠紀を見返した真弘が、にやりと笑った。
 きっと、珍しく女の子らしい服装の珠紀に笑ったのだろうと、珠紀は気恥ずかしさを感じながら思った。
「真弘先輩、誕生日おめでとうございます!」
 真弘の前まで行って足を止め、珠紀は最初にそう言った。
 くすぐったそうに、真弘が笑う。
「ありがとよ」
 照れくささを隠さない口調で真弘が言って、ふと、楽しげに口元を歪めて笑った。
 真弘のその笑いに、珠紀は自分の顔が引き攣るのがわかった。
 ニヤニヤと口元を歪めた真弘が、黙って手を差し出す。
「裏取引に来た悪役みたいな顔してますよ、真弘先輩」
「そうかぁ? 気のせいだろ」
「気のせいじゃないですよ」
「んなこと、どうでもいいから。ほら、珠紀。真弘先輩様に渡すものがあるだろ?」
「あー、ええっと。……あはははは」
 言い淀み、一瞬視線を彷徨わせた珠紀は、乾いた笑い声をなんとか絞りだした。
 とたんに、目の前の真弘の顔が、凶悪に歪められる。
「ほほぅ? いい度胸だな?」
「えーと、真弘先輩、今から一緒になにか買いに行きませんか? 真弘先輩の欲しいもの、あー、予算ないから、高価なものは買えないですけど!」
「忘れるかよ、ふつー」
「忘れていたわけじゃありません!」
 呆れた口調で零された言葉に、珠紀はムッとした声で反論した。
「ちゃんと用意しようと考えていたけれど、……情けないことに、真弘先輩が喜びそうなものとか、欲しそうなものって、思い浮かばなかったんです!」
 言い終えた途端、真弘の欲しいものも判らない自分が本当に情けなく思えて、珠紀が唇を噛みしめた。
 悄然と俯くと、
「ばぁか」
 思いのほか優しい真弘の声が降ってきて、真弘の手が珠紀の頭に乗せられた。
 それから、軽く、わしゃわしゃと髪を撫でられる。
 そうっと窺うように見ると、大人びた瞳で珠紀を見つめる真弘と目が合った。
 子供っぽくプレゼントを強請られると思っていた珠紀は、意外な思いで真弘を見つめた。
「なぁ、珠紀」
 出会って間もない頃。家の縁側で、真夜中に真弘と話をしたときの静かな声音に似た音で、珠紀は真弘に呼びかけられた。
「なんですか?」
「俺はさ、本当に欲しいものは、もうずっと前に、たくさん、たくさん、お前からもらってるんだよな」
「真弘先輩」
 珠紀は、真弘がなにを差して言っているのかわかって、けれど、なんて言って返せばいいのか判らず、ただ真弘の名前を呟くように呼んだ。
 珠紀が真弘にあげられたものなんて、なにひとつなかったと珠紀は思う。
 珠紀は真弘に生きていてほしいと願っただけだ。
 未来を諦めてしまわないで、足掻いて、足掻いて、足掻きぬいて。ずっと一緒に欲しいと願ったに過ぎない。
 そして真弘は珠紀の願いに頷いて、生きる道を選んでくれた。
 だから珠紀は、未来も、真弘が生きていることも、珠紀が真弘に与えたのではなく、真弘が選び、掴み取ったものだと思っている。
「だからさ、これ以上、なにかを欲しがるのは我儘なんだろうよ」
 解っちゃいるんだけどな、と、仕方がなさそうに苦笑を零す真弘の顔は、悲しさを含んでいる。
 ぎゅうっと、珠紀の胸が締め付けられたように痛む。
 たくさんの犠牲を払いながらロゴスを退けて。鬼斬丸を壊して。
 全部が終わったつもりでいたけれど、本当は、終わったわけじゃなくて。なにもかもがはじまったばかりだ。
 それに、ずっと鬼斬丸に縛られて生きてきたこの季封村の人たちの中には、生きている限り消すことのできない、忘れられない傷や、痛みや、悲しみがあって。
 それは、珠紀には想像もできないほど深く、簡単には癒えないものなのだろう。
「真弘先輩」
 珠紀は手に持っていた日傘を折りたたんでバッグの中にしまうと、ぎゅっと真弘を抱きしめた。
「おい、珠紀!? なんだよ、急に!?」
 驚き、慌てた真弘の声を無視して、珠紀は真弘を抱きしめる腕に力を込めた。
 夏の熱を吸い込んだ真弘の体は熱くて、けれど、その熱こそが、真弘が生きて、珠紀の傍にいるということを、強く実感させる。
「ねぇ、真弘先輩。真弘先輩が望むこと。叶えられる限りのことを、わたしは叶えてあげたい。だから、我儘だと思っても、言って」
「甘やかすな、馬鹿」
 珠紀の言葉に、苦笑混じりに真弘が言い返した。
「甘やかします」
 真弘の退路を断つように、珠紀はきっぱりと言った。
「今日は真弘先輩が生まれた日ですよ。甘やかしてなにが悪いんですか?」
「悪くはねぇけどな」
 そう言った真弘が、珠紀の耳元でそっと息を零した。
「下手なこと言うと、俺につけこまれるぞ」
「いいですよ」
「おいおい、待て。ちょっと待て、自分でなにに頷いたか解ってるか、珠紀!?」
 即答すると、真弘が酷く慌てた声を上げた。
 普段から大袈裟な真弘だけど、いまの慌てぶりは、いつも以上に可笑しい。
 真弘に悟られないように小さく笑いながら、珠紀は今度も真弘の声を無視して言った。
「買い忘れたわけじゃないけど、プレゼントを用意できなかったことは事実だし。いいですよ。真弘先輩は、わたしになにを望みますか?」
 抱きしめていた真弘の体を少し離して、珠紀は驚いたままの真弘の瞳を覗き込んだ。
 珠紀が見つめる先で、わずかに、真弘の表情が歪んだ。
 笑おうとして、けれど、笑えずにいる。
 珠紀の言葉を理解して、けれど受け止めかねている。そんな表情だった。
 珠紀は真弘の体を包むように抱きしめて、静かに言った。
「真弘先輩、言ってください。言ってくれなかったら、わたし、誕生日プレゼントを渡せません」
 珠紀の腕に、かすかな震えが伝わってきた。
 それから、噛み殺したような、笑い声。
 くつくつと可笑しそうに、真弘が笑っていた。
 真弘から離れて、珠紀は思わず遠慮なく笑っている顔を覗き込んだ。
 真弘が珠紀を見返して、笑いを噛み殺しきれない口調で言う。
「まったく、相変わらず、頑固で変なやつだな、俺のお姫様は」
「真弘先輩、今って笑うところじゃないですよね?」
「そうなんだけどよ。笑えてくるんだから、しょうがねぇだろ。でも、あー、その、あれだ。ありがとうよ」
 微かに目元を朱に染めた真弘が、照れくさそうに言って、珠紀から視線を外した。
 そして、今度は、珠紀が真弘に抱きしめられた。
 ぶっきらぼうに、けれど、優しさを感じられる腕に抱きしめられる。
「ありきたりだって、自分でも思うんだけどよ」
 ぼそりと真弘が呟いた。
 けれど、呟いたきり、真弘は続きを言わない。
「真弘先輩?」
 続きを促すように呼んでも、真弘は言いだしにくそうにしているばかりで、口を開かない。
 なんだろう。口ごもるなんて、珍しい。真弘らしくない。そんなに言いづらくて頼みにくいことなんだろうか。
 珠紀はそう思いながら、
「真弘せんぱーい?」
 真弘の背中を抱きしめ返しながら呼びかけた。
「あー、いい。やっぱ、いい。何でもねぇ! 今のなし!」
 珠紀の呼びかけに、ひどく焦った真弘の声が返ってきた。
 そっと盗み見た真弘の耳が赤く染まっていて、なんとなく、ああ、そういう「お願い」なのかと見当がつく。
 親友の言葉を思い出して、珠紀の頬が熱を帯びた。
 きっと、すごく。自分の頬も、真弘に負けず劣らず真っ赤になっているに違いない。珠紀はそう思いながら言った。
「駄目です。なんでもないなんて、取り消しはできません」
「あ、そうだ! 欲しいものを考えるから、ちょっと待て。一緒に買いに行くんだよな!?」
「嫌です。待てません。真弘先輩、言いかけたことがあるんですから、それを言ってください」
「や、でもよ……」
 言い淀む真弘に、珠紀は「言ってください」とたたみかけるようにくり返した。
 が、なかなか真弘は口を開かない。何も言わない。
 だんだん、珠紀は焦れてきた。
 急に及び腰になるなんて、真弘らしくない。
 いつもは迷惑なくらい不遜で、強気で、俺様なくせに。
「真弘先輩、十秒以内に言わないと、今年は何もなしですよ」
「はぁ!?」
 素っ頓狂な声を無視して、珠紀はカウントを始めた。
「いーち、にぃーい、さーん、よーん……」
「まて、おい、こら。数えるのが早い! ……あぁ〜〜、ったく、言うからカウントを止めろ!」
 慌てふためいて怒鳴る真弘が可笑しくて、珠紀はくすくすと笑った。
「はーち」と言い終えてから、カウントをやめる。
 疲れたような、安堵のような真弘の溜息が耳元で聞こえた。
「真弘先輩?」
 再度促すように呼ぶと、
「最近生意気さに拍車がかかってる」
 心底嫌そうに真弘が呟いた。
 珠紀は小さく忍び笑いながら、真弘を含めた守護者たちに感化されてしまったのだと言ってやった。
 誰も彼もが遠慮なく、歯に衣着せぬ言い方をするから、すっかりそれに慣れてしまって、言い返すことや反撃ができる程度には耐性ができてしまった。
 珠紀がそう言うと、真弘が舌打ちをして、唸った。
「失敗した」だの「育て方を間違えた」だの「いや、でも、ちょっと生意気なほうがいいしな」だの、好き勝手に呟いている真弘に、珠紀は重ねて問いかけた。
「真弘先輩、プレゼントはなにがいいんですか?」
 珠紀がそう言ったとたん、ぶつぶつと呟いていた真弘がぴたりと口を閉ざした。
 珠紀が抱きしめている真弘の熱が上がる。
 炎天下の中、ずっと抱き合っているままだけれど、不思議と暑さは気にならなかった。
 久しぶりに、ずいぶん長く触れ合っている。そう思ったときだった。
 珠紀の背中に回されていた真弘の腕が、意を決したように珠紀を強く抱きしめ返した。
 急に強く抱きしめられて、珠紀は軽く目を見張った。
 どうしたんですか、と問いかけようと口を開きかけたところで、ぼそぼそと、照れまくった真弘の言葉が届く。
「キスを」
 シンプルに、たったひとこと告げられたそれに、珠紀は自然と目元が緩むのがわかった。
 ぎゅうっと真弘を強く抱きしめ返して、
「目、ちゃんと瞑っててくださいね」
 囁くように言ってから、珠紀は少しだけ真弘から体を離した。
 少し照れが残っている真弘の瞼に、まず、キスをひとつ。
 それから、左右の頬。
 そして。
「真弘先輩、お誕生日おめでとうございます」
 本日二回目のお祝いの言葉を、唇にキスする直前にもう一度告げて、珠紀は真弘にキスをした。
「ありがとう」
 唇を離して、真弘の優しい瞳に見つめられた珠紀が恥ずかしさを感じるより先に、真弘からのキスが、珠紀の唇に何度も落とされた。


                                 END



ありきたりネタ。一日遅れの真弘先輩ハピバ創作。
遅れてごめんなさい。

後日談的に、美鶴を絡めた話が思い浮かんだ。
……別に真弘先輩を苛めたいわけじゃ……(笑)