静謐

 冷たい空気に、珠紀は体を震わせた。
 木々の間から射す光は温かそうなのに、山の中の空気はひんやりと冷たい。
 冷たいけれど、最初にここを訪れた一年前の、恐怖を感じる冷たさとは違うことが安心をくれる。
 静かな山の中、のんびりと一歩足を踏み出すごとに、靴の下で、枯れた葉を踏みしめる音がしていた。
(もう少し、だよね)
 記憶に残る風景を確かめるように、珠紀は足を止めて周囲を見回した。
 同じような木々がひしめく森の中。
 目印になるようなものもない。けれど、珠紀の中の記憶と力が、目指す場所が近いことを教えてくれる。
 近づくごとに増す、神聖な空気。
 対極にある負の力は、まったく感じられない。
 それに深く安堵した自分に苦笑する。
 当たり前だ。
 苦い気持ちで珠紀は思う。
 あの恐怖の力は、もうどこにも残っていない。
 力を宿した刀は壊した。
 刀に宿った強すぎる思念は、浄化した。
 この山の中に漂う空気は、どこまでも静謐で、神聖だった。
 本来刀に宿っていた、美しい力そのものが、この場所を満たしているような気がするほどに。
 カミの不在のこの場を、まるで守護するように力が満ちている。
 珠紀はゆっくりと息を吸い込んだ。
 肺の中を、新鮮な空気が満たしていく。
 深く吸い込んだ息を、珠紀はゆっくり吐き出した。
 そして、また、歩き出す。
 さっきよりも、もっとのんびりとした足取りで。
「もう、少し」
 神気にも似た空気が濃くなった。
 それから、木々の匂いに混じって届く、水の匂い。
 目的地はすぐそこだ。
 逸る気持ちを抑えるように、珠紀は足を踏み出す。
 一歩、一歩。また、一歩。
 傍から見れば、きっと警戒しているように見えるだろう慎重さで歩みを進める。
 もしかしたら、珠紀は心のどこかで警戒していたのかもしれない。
 ひとりでここに来るのは、はじめてだ。
 鬼斬丸の影響がなくなったからといっても、どんな危険があるか判らない。
 一年前に比べれば、それなりに力をつけ、カミたちへの報告を済ませ、正式に玉依姫となったけれど、力はまだまだ未熟だ。
 神たちの集う場所、その近くに行くときは、必ず守護者を供に。そう静紀や美鶴たちに、口をすっぱくして言われている。
 玉依姫としての力が強くなればなるほど、静紀や美鶴たちの言うことが良く判る。にもかかわらず、珠紀は今日、言いつけを破って、ひとりで山に入った。
 鬼斬丸が封じられていた、その場所へ。
 木々を抜ける前に、一箇所だけ、開けた世界が目に飛び込んできた。
 どくん、と、珠紀の鼓動が跳ね上がる。
 どきどきと、いやおうなしに鼓動が早まった。
 自然と息を殺すように呼吸しながら、珠紀は森を抜けた。
 そろりとした足取りで、沼地に向かう。
 澄んだ水面を覗き込むように、珠紀は沼の淵で足を止めた。
 水面に、自分の顔が映る。
 肩から滑り落ちた長い髪が頬にかかって、邪魔だ。
 髪留めもゴムも持ってきていないことを、少しだけ、後悔した。
 珠紀は佇んだまま、じっと水面を見つめた。
 見つめながら、ふと、なにをしているんだろうとおかしくなる。
 目的があって、ここに着たわけではなかった。
 ただ、ふらりと足を向けた。
 それは、なにかに呼ばれて、誘われるままに足を向けたような唐突さだった。
「なにをやってるんだろう、わたし」
 ひとりでここに来たことがバレたら、美鶴からお小言をもらう羽目になるのに。
 バレたときのことを考えれば、気が重い。
 そう思いながらそっと息をついた。
 そのときだった。
「なぁにを、深刻そうな溜息をついてんだよ、お前は。似合わねーぞ」
 からかい混じり、呆れた声が背後から聞こえて、珠紀はびくりと肩を跳ねさせ、強張った体をゆっくりと振り向かせた。
「真弘先輩……」
 自分でも思っていた以上に掠れた声が、空気のなかにとけて消えた。
 にっ、と、いつものように不敵な笑みを口端に浮かべて、真弘が珠紀の数歩後ろに立っていた。
「俺様が偶然見つけて、ついてきて良かったな? バレたらババ様と美鶴に大目玉だ。恩に着ろよ?」
 そう言って、かかか、と真弘が哄笑する。
「貸し一つ、ですか?」
 続けられる言葉を予想して言えば、
「お、判ってるじゃねーか」
 にやりと真弘が笑った。
 どこか嬉しそうなのは、珠紀になにを要求するか、いろいろ思い巡らせているからだろう。
 無理な要求だけは勘弁して欲しいな。そう思いながら、珠紀は「はぁ」と溜息を吐き出した。
 まったく。真弘はいつまでも子供みたいだ。
 それから目を伏せて、ゆっくりと瞼を押し上げる。
 ああでもない、こうでもないと、うんうん唸りながら考え込んでいる真弘から目を逸らし、珠紀は周囲を見回した。
 赤く色づいた葉に、珠紀は目を細めた。
 一年前は、この色を堪能する余裕すらなかったと思う。
 鮮やかな、けれど、温かみのある赤。
 沼の水面に映る赤と水のコントラストが、綺麗だと思った。
「きれいだな……」
 不意に、真弘がそう零した。
 珠紀はゆっくりと真弘に視線を移す。
 珠紀と同じように目を細めた真弘が、空を見ていた。
 目に飛び込んできたのは、薄水色の空と赤のコントラスト。
「ここの景色をきれいだと思える日が来るなんてよ、正直、思ったこともなかった」
 ぽつりと真弘が零した一言に、珠紀は黙って頷いた。
 真弘の言葉に込められた、さまざまな思い。宿命を知らされてからずっと抱き続けられていた、たくさんの思い。
 珠紀には、それらすべて理解することはできないけれど。
 想像することしかできないけれど。
「珠紀」
 呼ばれて、珠紀は差し出された真弘の手を取るために、真弘に近づいた。
 手を重ねると同時に、強い力で抱き寄せられる。
 息苦しくなりそうなほどの力で、抱きしめられた。
 それから、囁くように耳に落とされた一言。
「ありがとうな」
 深く心に染み入る言葉だと思った。
 不意に泣き出してしまいたい気持ちになる。
「なんですか、急に?」
「ん、言ってなかった気がしたからよ」
「お礼を、ですか?」
「おう。……助けてもらった礼を、言っていなかっただろ」
 苦笑のような、自嘲のような笑みの混じった声で言われて、珠紀の胸が締め付けられるように痛んだ。
 そう簡単に消えるわけがない。癒えるわけがない。判っていたつもりでも、ちゃんと解っていなかったんだと実感する。
 必ずその命を贄として差し出せ。
 その言葉に怯えて、傷ついた真弘の心の傷の深さを。
「――『ありがとう』はわたしの科白です、真弘先輩」
 真弘の心の傷の深さも、巣くった闇も、珠紀には知りようがない。だから、どんな言葉をかければいいのか判らない。
 出会った頃よりずっと、真弘を知ることができた、今も。
 だから、珠紀は真弘がここにいることを感謝する言葉しか、口にできない。
 真弘の背中を抱き返しながら、珠紀は言った。
「今もわたしの傍に居てくれて、生きていてくれて、ありがとうございます」
 珠紀が言うと、抱きしめる腕の力が強くなった。
 痛いほどの抱擁を受けたまま、珠紀は囁くように言った。
「ね、真弘先輩。来年も、再来年も、そのさきもずっと。ふたりでここの紅葉を観にきましょうね」
「毎年、この日に――な」
「え? ――ええっと、はい」
 意味ありげな真弘の言葉に首を傾げつつ、珠紀は頷いた。
 とたんに、真弘が苦笑する。
 仕方がねぇな。
 そう言っているような苦笑だった。
「珠紀」
「はい?」
「忘れんじゃねーぞ?」
「忘れませんよ。真弘先輩こそ、忘れないで下さいね」
「ばか。俺が忘れるかよ」
 抱きしめあったまま、軽口を叩きあう。この瞬間の愛しさを、ふと口にしてみたくなった。
「真弘先輩」
「ん?」
「大好きです」
 告げ終えると同時に、奪うように唇を塞がれた。
 唐突な口づけに体を強張らせたのは一瞬で、珠紀は真弘にすべてを預けるようにすぐに体の力を抜いた。
 瞳を閉じたその瞬間、ふと、覚えのある暖かさを周囲に感じた。
 それを感じると同時に、ここに足を向けた理由と、真弘の言葉の意味を、珠紀は理解した。
(ああ、そっか。今日で、ちょうど一年……)
 真弘とふたりで鬼斬丸を破壊してから、丸一年だ。
(ずっと、ずっと、ふたりでここを守っていこうね。真弘先輩)
 鬼斬丸の欠片の眠るこの場所を、ふたりで守ってゆこう。
 真弘も珠紀も知らない、遠い過去の時間のすべてを抱きしめながら。
 真弘のキスに応じながら、珠紀は心のうちでそっと呟いた。

                                了

一年後のふたり。
そんな感じで。