硝子細工の世界の果てで

 いつだって優しいのは、いつだって透明な硝子のむこう側にいるから。

 昔の話をするときの真弘先輩は、ほとんどと言って良いほどわたしの目を見ない。
 いつもわたしの肩口に視線を当てて、その先の、遠い――過ぎた時間を見つめている。
 頬杖をつきながら、懐かしそうに目を細めて。
 柔らかく解けた唇が、わたしの知らないみんなの話を紡ぐ。
 もう二度と戻らない時間を思い返しながら話をする真弘先輩の表情は、知らない男の人の顔だ。
 少し卓さんに似通っているとときどき思うほど、とても大人びていて……。
 こんなことを男の人に、それも使う相手が真弘先輩っていうのは、実はすごく使い方を間違っているのかもと、かなり失礼なことを考えながら、やっぱり真弘先輩の浮かべる表情は果敢ないなぁと思いながら、真弘先輩たちの思い出話に耳を傾けていると、不意打ちで沈黙が訪れた。
 急に口を噤んでしまった真弘先輩を訝しみながら、遠い遠い過去を――どんなに望んだって、求めたって、わたしひとりだけが係わることもできない、共有することもできない過去を見つめている人を、声もなく見つめた。
 声をかけられなかった。
 切なく、優しく。ただ穏やかに過去へと思いを馳せている真弘先輩の頬を、夕日が染めた。
 金色と橙、朱赤に黄色。それからかすか、紫色と青の混じりはじめた空を、わたしは閉じられた窓越しに眺める。
 そろそろ帰途につかなければいけない時間だ。
 逢魔刻。
 堕ちたカミたちが動き出す時間は、近い。
 ゆっくりと振り返り、真弘先輩、と。
 遠くを見つめている先輩に声をかけようとして、動かしかけた唇を引き結んだ。
 苦しそうに細められた瞳が、なにかを諦めたように歪んで、伏せられた。
 それは一秒、二秒……、永遠とも刹那ともいえる時間の間だけだったけれど。
 そのとき、泣き出しそうに、かすかに、真弘先輩の瞼が震えて、男の人にしては少し長い睫毛も一緒に震えて。
 それを見つめながら、ねぇ、真弘先輩。なにを思い出しているんですかと、心の中だけで問いかけながら、ふたりきりの教室に響く、古ぼけた壁掛け時計の秒針の動く音を聞いていた。
 苦しいことも、悲しいことも、悔しいことも、なにも。
 真弘先輩は、いつだって、誰にも言わない。
 本当のことだけは、絶対に、口にしない。
 心に触れさせてくれない。
 目に見えない、透明な、強度の高い硝子の向こう側に自分を置いて、近づいてきてくれない。近づかせてくれない。
 手をさし伸ばしてくれるけれど、手をさし伸べさせてはくれない。
 背中を押してくれるけれど。
 見守って、盾になってくれるけれど、もうずっとひとりで――硝子に隔たれた世界の中に、たったひとりきりでいるように、必要としてくれない。誰の手も。なにも。わたしさえも。
 ずっとひとりきり、硝子の世界に閉じこもるように。
 守護者の誰もが、そんなふうに一線を引いた態度を取るけれど、真弘先輩ほどあからさまに態度に出す人はいない。
 いつも我先に飛び出していくけれど、でも、本当はみんなの背後で。一番後ろで、静かに見守るように――一瞬で消えてしまいそうなほど静かに、とらえることのできない風と同じように、あっという間に消えていなくなってしまいそうな、そんな果敢なさで……。
「珠紀? どうした!?」
 ぎょっとしたように真弘先輩が目を見開いて、慌てて椅子から立ち上がり、上半身を傾けてくる。
 そうっと。
 おそるおそる伸ばされた指先が頬に触れて、その温かさに、唇を噛み締めた。
 こんなに温かい指を持っているのに。
 この指の温かさを、わたしは知っているのに。ねぇ、どうして掴ませてはくれないの。握り返すことを、許してはくれないの。
 どうして触れさせてくれないのだろう。
 自分からは躊躇いなく触れるくせに。
 その温もりを、刻みつけるように教えてくれるのに。
 不器用に、けれど、優しく動いた指先が、涙を拭ってくれた。
「どうしたんだよ」
 微苦笑を浮かべた先輩が、困ったように問いかけてくる。
 それに首を振ろうとして、やめた。
 たまには先輩だって困ればいい。
 いつも遠い場所に身をおいて、まるで自分はもうどこにもいないみたいに振舞う真弘先輩は、一度、本当に困ればいいと、意地悪い気持ちになりながら、わたしは言った。
「真弘先輩のいるその世界に、どうやったら辿り着けるだろうって。どうしたら、その透明な壁の向こう側に、わたしは行けるんだろう。わたしはただ真弘先輩の隣に並びたいのにって思ったら、自然と泣けてきちゃったんです」
 拗ねている口調で、でも、それなりに切羽詰った声音で言うと、真弘先輩の表情が強張った。
 聞いてはいけない言葉を聞いてしまった、そんな苦い顔でわたしから視線を逸らして、
「わけのわからねぇこと、言ってんじゃねぇよ」
 いつもと同じような口調で言い捨てて、真弘先輩は鞄を持ち上げた。
「帰るぞ」
 乱暴に言い置いて、わたしを見ないままに真弘先輩は歩き出す。
 教室の外へと。
 逢魔刻は、もうすぐだ。
 闇色が濃くなり始めた教室の中、わたしは溜息もつけずに立ち上がった。
 椅子を引く音が大きく響いて、その音に真弘先輩の背中が止まる。
 ゆっくりと、肩越しに、真弘先輩がわたしを振り返って。
 夕闇の、たいして明るくもない光に照らされた表情は、泣き笑いのような顔だった。
 どうしてそんな顔をするのか問いかけることもできず、言葉もなく見つめる先で、
「お前を連れていくわけにはいかねーよ」
 ぽつりと零された拒絶の言葉に、泣くこともできず。
「帰るぞ」
 と、もう一度、今度は静かに、短く促され。
 ひとりで闇の中に歩き出した背中を、じっと、みつめた。
 ひとりきり、硝子のむこうにいる先輩を、いつか必ず抱きしめてやるんだ、と、心に誓いながら。

                                 END


PS2を引っ張り出し、特典映像の微笑を浮かべる真弘先輩に、ノックダウン。
むしろ抱きしめたいのはわたしです。
18歳であの切ない微笑みは、反則だと思います。
ラストの「おかえり」と微笑むときの表情に、ああ、もう、泣きそう。
というか、微笑む真弘先輩は、心臓に痛いです。