クリスマス


 季封村をわずかに見下ろす小高い山の頂上から、すべて雪に隠されてしまったように真っ白の景色を見ていると、急に、泣きたくなった。
 どうして泣きたいなんて思うのか、珠紀自身にも解らない。
 唐突に泣きたくなったのだ。
「どうした?」
 独特のテンポ、淡白な口調。けれど、隠し切れない心配が混じる声からの問いかけに、珠紀は傍らの祐一を見上げて、ゆるりと首を振った。
「なんでもないです」
「そうか? 泣きそうな顔をしているから、どうかしたのかと思ったんだが」
 心配そうに目を細めた祐一の指が、珠紀の冷えてしまった頬を撫でる。
 祐一の冷えた指の温度と、珠紀の冷たい頬の温度が溶け合う、一瞬。
「本当に、なんでもないんですよ」
 そう答えた珠紀の頬を慰撫するような仕草に、泣きたくなる気持ちがいっそう強くなって、放っておけばきっと涙が零れてしまうような気がしたから、珠紀はそうっと目を閉じた。
 その瞬間、小さく零された溜息が聞こえた気がして、珠紀は閉じた瞼を押し上げた。
「祐一先輩?」
 静かな表情で珠紀を見下ろしている祐一を、そっと呼ぶ。すると祐一は、さきほどの珠紀の仕草を真似るように、ゆるりと首を振り、「なんでもない」と笑った。
 その笑顔の儚さに、珠紀は胸が締め付けられるような痛みを覚える。
 ふと目を離した瞬間に、祐一が消えてしまいそうな錯覚。
 一瞬でも手を離したら、この人は消えていなくなるんじゃないかと、急に怖くなる。
 珠紀は不安に騒ぐ心の衝動のまま、祐一の服に縋り付くように抱きついた。
 皮膚にあたる布地の冷たさが、珠紀の焦燥を煽る。
「珠紀?」
 驚いたような声に答える術もないまま、珠紀は祐一に抱きつく腕の力を強めた。
 抱きしめても、抱きしめても、どうして不安が消えないのだろう。
「どうした、珠紀」
 変わらず淡白な祐一からの問いかけには、けれどたくさんの戸惑いと困惑が滲んでいる。
 言葉を返すこともないまま、珠紀がなんでもないと首を振り続けていると、祐一の腕が珠紀を包み込むように抱きしめ返してきた。
「珠紀、俺は、傍にいる」
 祐一からの突然の言葉に、珠紀ははっとなった。
 珠紀の不安を、祐一は見透かしている。
 顔を上げようとして、けれど、互いに抱きしめ合っているから、それは叶わず、だから珠紀は「はい」と頷く。
 珠紀が頷くと同時に、祐一が溜息をついた。
「祐一先輩?」
 問いかけるように呼ぶと、今度はちゃんと返事が返された。
「珠紀も、俺の傍にいるだろう?」
 確かめるような言葉に、珠紀は
「います! わたしもちゃんと祐一先輩の傍にいますから」
 自分でも呆れるくらいの必死さで、そう答えた。
 珠紀が言い終わるより早く、祐一の腕の力が安堵したように緩められる。
 それからまた溜息と、溜息の意味を珠紀が問いかけるより先に落とされた、言葉。
「俺も言葉が足りないが、最近は珠紀も言葉が足りない」
 互いに黙り込んだことを差しているだろうその言葉に、珠紀は「はい」と小さな声で返事を返す。
 確かにそうだ。祐一に指摘されて、確かに最近は「なんでもない」と答えることが多かったように思う。
 以前はもっと、それこそ煩いくらいに、自分の心のままを言葉にしてぶつけていたような気がするのだけれど。
「……きっと、祐一先輩に似てきたんだと思います」
「俺に?」
「はい。あと、祐一先輩はわたしの心の中を読んだみたいに、いつも欲しい言葉や態度を示してくれるから、それに甘えて手を抜いちゃってました。ごめんなさい」
 言いながら、祐一に全身を預けるように抱きつくと、抱きしめ返す祐一の腕が、困ったような力加減になる。
 いつもは祐一のほうが大胆なくらいの行動をするのに、たまに珠紀が積極的に行動すると、どうすればいいのかと戸惑い、困る祐一が可笑しくて、愛しい。
 抱きしめ合う祐一の鼓動が、とくとくと優しく耳に響いてくる。
 その音に耳を傾け、聞き入るように珠紀は瞳を閉じた。
「珠紀」
 呼びかけに瞳を閉じたまま、鼓動に耳を傾けたままで、
「はい、なんですか?」
 そう答えると、躊躇いを残したような口調で祐一が訊ねてきた。
「さっき、どうして泣きそうな顔をしていた?」
「……自分でもどうしてかなんて、解らないんです。ただ急に泣きたいって思って」
 なんでもない、ではなく、解らないけれど、ただ泣きたくなったのだと正直に言葉にする。
「そうか」
 と、納得したのか、していないのか判断のしづらい祐一の声音がぽつりと言葉を落とした。
 耳に届く規則正しい鼓動と、なにより祐一がくれた言葉で簡単に落ち着きを取り戻した自分の単純さに小さく笑いながら、珠紀は言う。
「もしかしたら……」
「珠紀?」
「もしかしたら、ここから見る景色の白さが綺麗過ぎて、それで泣きたくなったのかもしれません」
 雪に吸収された、すべての音。
 白い世界に沈みながらも、すべてを照らす太陽光に輝く、小さな世界。その静止画が、珠紀の心を揺さぶった。
「そうか」
 と、また祐一が短く言葉を落として、ぎゅっと珠紀を抱き寄せた。
 それは祐一の存在を珠紀に教えるような抱擁。
「祐一先輩」
「どうした?」
「そろそろ帰りませんか? もうすぐパーティーの時間ですよ」
「ああ、そんな時間か。遅れると真弘がうるさいな」
「真弘先輩だけじゃありませんよ、うるさいのは」
 幼い聖女の姿を思いだしながら珠紀が言うと、そうだな、と、祐一が吐息で笑った。
「帰ろう、珠紀」
 言葉と同時に抱擁から解放されて、少しばかりの寂寥感に襲われる。
 ああ、少し淋しいかもしれないと思っていると、祐一の手が差し出された。
 なんだろうと首を傾げようとして、珠紀はその動きを止める。
 差し出された手に手を重ねると、力強く手を握られる。
「足元に気をつけろ」
 雪で滑りやすいから、と、そっと付け加えられた言葉に頷き、珠紀は一歩分だけ前を歩く祐一の背中に声をかけた。
「祐一先輩」
「どうした?」
「来年も、その次の年も、この先もずっと、ふたりでいられる時間が続く限り、一緒にクリスマスの時間を過ごしましょうね」
 仲間たちが一緒にいる限り、祐一とふたりきり、なんて望めないだろうけど、僅かでもふたりで一緒にいられる時間があればいい。そう思いながら言うと、不意に足を止めた祐一が珠紀を振り返った。
 急に止まった祐一にぶつかりそうになりながらも足を止めた珠紀を、祐一が少しだけ不満そうに見つめてくる。
「あの、祐一先輩?」
 怪訝に思いながら問いかけるように呼ぶと、
「クリスマスだけか?」
 拗ねたような口調で問われて、珠紀はぽかんとしてしまった。
「珠紀」
 答えを促すような声にくすくすと笑って、珠紀は目を細めた。
「クリスマスだけじゃなくて、もちろん、これからさきのすべての時間を、です」
 そう答えると、満足そうに祐一が微笑んだ。


                                 了



糖度5くらいのクリスマス祐珠創作。
BGMは麻衣子さんの「この白い雪と」
糖度なくても仕方がない選曲でした。敗北。