Only one


 本当は誰よりも、一番でありたい。
 だから、ずっと、ずっと、あなたの傍にいる。


「いつまでもそんな顔をされていたら、綺麗な顔が台無しですよ?」
 珠紀の前にガラスのコップを置きながら、少し呆れた顔で美鶴そう言った。
 まるで敵でも見るような顔でテーブルを睨みつけていた珠紀は、よく冷やされた麦茶の入ったコップを見つめた後、呆れた口調で言った美鶴へと視線を向ける。
「……だって」
 小さな声で呟いた珠紀の瞳が揺れる。
「珠紀さん」
 珠紀の言葉をやんわりと遮るような呼びかけに、珠紀は溜息と一緒に、口にしようとしていた言葉を飲み込んだ。
 美鶴が言いたいことは、なんとなく判る。だから不満を押さえ込むように、珠紀は自分の言葉を封じた。
 美鶴に余計な心配はかけたくなかった。
 美鶴が珠紀に笑っていて欲しいと願うなら、珠紀はそれに可能な限り応えたいと思う。
 ずっと、ずっと、自分の笑顔を封じてきた優しい美鶴の、珠紀に向けてくれるささやかな願いを。
 珠紀が負うべき陰を、代わりに背負ってくれていた友人の願いなら。
 そう思いながら美鶴から視線を外して、珠紀は水滴の浮かんだガラスのコップを見つめる。
 一筋、二筋と、水滴がコップの表面を滑り落ちて、茶托とコップの隙間に溜まっていくのを見るともなしに見つめながら、珠紀は今度こそ、「はぁ」と大きな溜息を零した。
「……珠紀さん」
「溜息ついたら幸せが逃げるんだよね。解っているんだけど、でも、美鶴ちゃん。どうしても溜息はでちゃうよ」
「そう……、ですね」
 珠紀の言葉に美鶴は苦笑を浮かべて頷く。
 美鶴は頷いた後、自分用にと用意した麦茶を飲んだ。
 冷たい感触が喉を通り抜けて、体にまとわりつく暑さを、一瞬、和らげてくれた。
「おいしい〜」
 お茶を飲んだ珠紀が、柔らかい声でそう言う。
 その声に美鶴は目元を緩めて、珠紀に視線を戻した。
 珠紀が喜んでくれるのは、とても嬉しいと思う。
 珠紀が季封村にきた時は、汚い部分をなにも知らない笑顔に嫉妬と嫌悪を覚えて、快く迎え入れられずにいたけれど、今は違う。
 珠紀が笑っていてくれていると、美鶴の心は安らぐ。
 まるで大事な宝物を見ているように、心が華やぐ。
 相容れないと、思っていた。
 けれど、珠紀が鬼斬丸から、すべての呪縛から救ってくれた。
 現金なもので、救われたというたったひとつの事実だけで、美鶴の心はあっさりと珠紀に傾倒できた。
 美鶴にとって珠紀は、とても大切な人になった。
 一生、ずっと、この玉依姫に仕えていこう。尽くそうと、心から思った。
 きっと珠紀の、なにも知らずにいたからこその気持ちが、美鶴の心の曇りまで晴らしてしまったのではないかと、美鶴は思っている。
 呆れるほど真っ直ぐで、純真で、きっとただ我儘な珠紀の綺麗事の、けれど当たり前の気持ちが。
 美鶴の真正面でこくこくと麦茶を飲んでいた珠紀と美鶴の視線が合って、二人は同時に笑みを浮かべた。
 穏やかで、和やかな、一瞬の時間が流れた。
 珠紀は美鶴に向けて浮かべていた笑みを、ふと苦笑に変えて、それから、たくさんの諦めを含んだ声で言った。
 珠紀の手で茶托に戻されたコップの表面の水滴が、つるりと落ちる。
「仕方がないなぁって、真弘先輩のあれは、もう病気の域だってこと、……ちゃんと解ってるよ」
「……病気。病気ですか? ――確かにそうですね」
 珠紀が言った言葉に一瞬言葉を失ったらしい美鶴は、けれどその一言ですべて納得したとばかりに強く頷いて、珠紀と同じように溜息をついて、目を伏せた。
 まったく、なにを考えているのかと、美鶴は心の中で真弘のことを罵倒する。
 誰もが欲しくてたまらなかった珠紀の心を、見事手中に収めたくせに、本気ではないといえ他所の女に目を奪われるとはどういう了見か。
 真弘が困るようなお灸が必要かと思ったところで、珠紀がまた深く溜息を零した気配に、美鶴は目を開く。
 それから、そっと苦笑を零した。
 諦めていて、ちゃんと解っていても、割り切れるものではないだろうし、納得し切れるものでもないだろう。
 どれだけ自分の心に「大丈夫」と言い聞かせたところで、悲しいと思う気持ちや不安が消えるわけではないだろう。
 恋人でありながら、珠紀に溜息をつかせ、不安にさせて悲しませるなど、言語道断だ。
 簡単に許して良いわけがない。
「珠紀さん」
 美鶴もコップを茶托に置いて、珠紀を真っ直ぐに見つめた。
 一歳年上のはずなのに、まだ美鶴より幼い表情が抜けない珠紀を見つめ返しながら、
「病気には薬が必要かと思います」
「え?」
「鴉取さんには、わたしからちゃんと薬をお渡しいたしますので」
「え、あの、美鶴ちゃん? 薬って、いったいどんな薬?」
 珠紀は、いったいどんな薬を渡すつもりかと思いながら戸惑った声を上げる。が、美鶴はにこにことただ笑顔を浮かべるばかりで、珠紀の問いかけに答えることはなく。
 もしかして、愚痴る相手を間違えただろうかと珠紀が反省と言う名の後悔をしている最中、だった。
「おーい、珠紀」
 玄関から届いた、真弘の声。
 また間の悪い、と、珠紀はそんな思いでゆっくりと立ち上がりかけたが、
「珠紀さん」
 やんわりと、けれど有無を言わせない口調で美鶴に呼び止められる。
「おーい? まさか誰もいないのか? ったく、無用心じゃねぇか」
 ひとり言にしては大きすぎる声が、居間にまで届く。
 勝手知ったるなんとやら。留守かもしれないというのに、近づいてくる大きな足音。
 躊躇いなく、まっすぐに向かってくる足音に、やっぱり出迎えなければと立ち上がろうとした珠紀より先に、すっと、無駄のない所作で美鶴が立ち上がった。
 美鶴が立ち上がって、珠紀は自分が立ち上がるタイミングを逃して。
 真弘を迎えるのだろう美鶴を見上げると、どうしたことか、美鶴が珠紀の傍らに立った。
「美鶴ちゃん?」
 真弘を出迎えるのではないのか、と、そんな疑問を乗せて呼んだ名前に、美鶴はにっこりと笑みを浮かべた。
 笑顔のまま、美鶴は珠紀の前に座った。
「どうしたの、美鶴ちゃん?」
 美鶴の目の前の珠紀の表情が、不思議そうに美鶴を見つめてくる。
 珠紀にそうと悟られないよう、美鶴は近づいてくる足音と居間までの距離を測り、足音が止まり、「本当に誰もいないのかぁ?」という声と、襖が開けられる音。それらが耳に届くと同時に、美鶴は素早く珠紀の手を握り、真弘に聞こえるように言った。
「安心してください、珠紀さん」
「え?」
「あ?」
 怪訝な声を上げる二人の声など無視して、美鶴は続けて言う。
「珠紀さんにふさわしい方を、わたしが選んで差し上げますからっ! 鴉取さんのような浮気が当たり前の人など、さっさと捨ててしまえばいいんです!」
「え、ちょ……美鶴ちゃん!?」
 ぎょっとした顔で顔色を失っていく珠紀の表情を見つめつつ、美鶴は背後の気配を探る。
 珠紀同様、否、珠紀以上に慌てている気配に、美鶴はこっそりと笑った。
「おい、ちょっと待て、美鶴!」
 低く地を這うような真弘の声など聞こえなかったように無視して、美鶴は尚も言葉を重ねる。
「珠紀さんにふさわしい方が選べなかったときは、わたしがいますから。ずっと、ずっと、珠紀さんの傍に、わたしがいます! ええ、そうです。わたしが幸せにしてみせますからっ!」
 ついでだからと本心を伝えれば、珠紀が軽く目を見開いた。
 それから、どこか照れ臭そうに、けれど嬉しそうに笑って、美鶴を見返してくる。
「……美鶴ちゃん、ありがとう」
「いいえ。どんな時でも傍らで珠紀さんに仕え、支えて、その笑顔を守ること、珠紀さんを幸せにすることが、わたしのこれからの使命なんです!」
「美鶴ちゃんにそう言ってもらえて、すごく、嬉しい。ずっと一緒にいてね」
「もちろんです! この命ついえるまで、お傍に!」
 がっしりと手を握り合い、互いの絆を深めていると、
「おーい、こら。盛り上がっているところを悪いんだけどよ」
 真弘の声が割って入った。
 振り返れば、表情を引き攣らせた真弘が、それでもなんとか笑顔を浮かべながら美鶴を見ていた。
「あら、鴉取さん。まだいらしたんですか?」
 うっかり本気で真弘の存在を忘れかけていた美鶴は、忘れていた事実を隠すことなく、おまけににこやかな笑みを返しながらそう言った。
「おー。まだいるぞ。っていうか、俺は、たった今! ここに来たばかりだっ! 客に対して、ずいっぶん、ぞんざいな扱いをするようになったなぁ、美鶴?」
「鴉取さんをお客様だと思ったことは、一度としてございません。ですから、常と同じ態度でおりますけれど、なにか問題がありますでしょうか?」
「おおありだっ! いや、そんなことはどうでもいい! それよりも、だ! 珠紀は、この、鴉取真弘様の、女だ! 俺様が幸せにするから、でしゃばらなくていいぞ!」
 言いながら、がっつりと握り合っている美鶴と珠紀の手を、真弘が引き剥がしにかかる。
 それを冷たく見つめながら、美鶴は、
「あら、でも鴉取さんは確かお兄さんと同じクラスの、……その方の名前も、鴉取さんがその方といつ出会われて、懇意になられたのかも存じ上げませんけれど、とにかくその方がお気に入りなのだと伺いました。なんでも珠紀さんの前で、その方の容姿や性格などをベタ褒めだったとか?」
 反論も言い訳も許さないほどの笑顔で言うと、真弘がぴくりと動きを止めた。
 ぎ、ぎ、ぎ、と、油の切れた機械のようにぎこちない動きで、真弘が美鶴の目を覗き込んだ。
 あからさまに頬が引き攣り、どことなく顔色が悪いのは、美鶴の言葉がまったくの出鱈目ではない証拠だろう。
 真弘が本気ではないと美鶴にも判っているが、不誠実すぎる。珠紀に対して失礼だ。
「それは、誰に聞いた?」
「もちろん、お兄さんに」
「慎司のやつっ!」
 苦々しく吐き出した真弘に、美鶴は畳みかけるように言う。
「珠紀さんという恋人がいながら余所見をするような方に、珠紀さんはお任せできません。かわりにわたしが珠紀さんを幸せにいたしますので、どうぞ、鴉取さんはお引き取りください。そして二度と、この宇賀谷の敷居を跨がないで下さいませ。姿も見せないで下されば、珠紀さんの憂いも減りますし、わたしもせいせいします」
 きっぱりと言って、真弘の手を振り払う。それから珠紀の手をぎゅっと握りなおし、
「さぁ、珠紀さん。ここではゆっくり話もできませんから、わたしの部屋に参りましょう。そして、珠紀さんの理想の方や、これからのわたしたちの友情について、いろいろと語り合いましょう!」
「おい、こら、待て、美鶴!」
「鴉取さんはどうぞ、お引き取りください」
「お前が勝手に決めんなっ!」
「……そんなことを言う資格が、ご自分にあると、まさか本気で思っていらっしゃるんですか?」
 冷たい口調のまま問い返すと、真弘がぐっと言葉に詰まった。
 美鶴の視界の端で、珠紀が困ったように眉根を寄せている。
 美鶴に同調するか、真弘を助けるか、迷っているのだと美鶴にはすぐにわかった。
 強く唇を噛み締めた真弘が、不意に、珠紀に視線を向けた。
 真剣な、眼差しだった。
 ずるいな、と、珠紀は向けられた真弘の視線を受けとめながら思う。
 珠紀が抱いた不安や、嫉妬や、拗ねた気持ち。吐き出した溜息まで。それどころか美鶴の気遣いの気持ちまで、すべて無駄にしてしまう眼差しは、卑怯だ。
 仕方がないなと、そんな風に思わせられるのは、なんだか悔しい。――そんなことを思った時点で、真弘の真剣な眼差しの力に、その強制力に、抗えていないのだけれど。
「珠紀」
「なんですか?」
 抵抗とも取れない問い返し。本当はもっと強気に出て、美鶴のように真弘を困らせてやりたいと思うのに、真弘の眼差しに負けてしまった心では、問い返す声にさえ、許してしまっていることが滲み出てしまっていて。
 本当に、真弘に対して寛大すぎる自分が情けないと、珠紀は思う。
「まさか、この鴉取真弘様の手を離すなんて、そんな大それたこと考えてないよなぁ?」
 どこの悪役の脅し文句ですか、と、内心でツッコミを入れつつ、珠紀は盛大な溜息を零した。
 嘘でも「考えてます」と言ってやりたかったのに。ああ、本当に、悔しい。
「もう、わかりました!」
 自棄だと自分でも判るほどの口調で言い放ち、珠紀はもう一度、深い溜息をついた。
「お許しになるんですか?」
 美鶴が不満を隠さない口調で問いかけるのに、珠紀はこくりと頷く。
 美鶴の薬が効果を発したのか、真弘のただの独占欲なのか、良くは判らないけれど、真弘から珠紀へと伸ばされている、手。
 取らないわけにはいかない、その、卑怯者の手を。
 珠紀からは絶対に、放さない。放せない。世界より大事だと思う人の、その手を。
「ごめんね、美鶴ちゃん。ありがとう」
「珠紀さんは鴉取さんに甘すぎます」
「うん、わたしもそう思うけど……、俺様で、天上天下唯我独尊の真弘先輩を諭すなんて、無駄だと思うから。なんだっけ、糠に釘? 馬の耳に念仏? 美鶴ちゃんに、これ以上迷惑はかけられないよ」
「……本人を前に押して悪口とはいい度胸だな、おい」
「ああ、そうですね。確かに。無駄な労力ですね」
「美鶴、お前な……。だーっ! もう、いい加減に……」
「いい加減になさるのは、鴉取さんです」
「あぁ!?」
「今回は珠紀さんがお許しになったから、見逃して差し上げます。けれど、次はございませんよ?」
「……俺は、浮気したわけじゃねぇぞ? ただ、可愛い子を可愛いと褒めただけでだな」
 思ったことを素直に口にしただけで、どうしてここまでの扱いを受けなければならないのかと、真弘が眉根を寄せつつ言うと、
「浮気なさった時点で、鴉取さんの未来は消えてなくなると思ってくださいませ。もちろん、本気で申し上げておりますので、あしからず」
 にこりと美鶴が笑顔を浮かべる。
 あの大蛇卓すらたじろがせたことのあるほどの笑顔に、真弘はすべての言葉を封じられた。
 ごくりと、唾を飲み込む。
 生きた心地がしないのは、向けられる気配が、本気の殺気を含んでいるせいだろうか。
「ああ、でも、鴉取さんが浮気をしてくだされば、わたしが珠紀さんを幸せにすることができるので、個人的には大歓迎ですね。……して下さってもいいですよ、浮気」
「しねぇよ!」
 本気で珠紀を泣かせたり、悲しませるつもりなど真弘にはない。
 それは言葉にすることなく、けれど、即答で美鶴の提案を拒絶して、真弘は強引に珠紀の手を美鶴の手の中から取り返した。
 美鶴は、今度は素直に珠紀の手を放した。
 ぐいと手を引いて、真弘が珠紀を自分に引き寄せる。
 引き寄せられた珠紀は、肩に触れた真弘の体温に、そっと息を吐いた。
 真弘の温もりに安心する。
 ああ、真弘はちゃんと珠紀の隣にいてくれる。
 その事実に心が緩んだ。
 自然と笑顔が零れて、それに気づいた美鶴に苦笑される。
「……仕方がありません。門限は、夕飯の時刻までです。それを厳守できなければ、最低一ヶ月、鴉取さんの出入りを禁止して下さるよう、ババ様に進言させて頂きます。もちろん、その間、珠紀さんと会うことも控えていただきますので」
「……いつからそんな小姑になったんだ、美鶴」
「不埒な輩から珠紀さんをお守りするのが、わたしの役目ですので」
「あー、そうかよ」
「ええ、そうですよ。……珠紀さん、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
「あ……、うん、行ってきます。……あの、美鶴ちゃん」
「はい、なんでしょうか?」
「また今度ゆっくり、話そうね」
「はい、楽しみにしております」
「うん、わたしも!」
 満面の笑顔でそう返してくれた珠紀に、美鶴も満面の笑顔を返す。
 珠紀の隣で、真弘が実に苦々しい顔を浮かべているが、それはすっぱりと無視して、美鶴はもう一度、珠紀に「行ってらっしゃいませ」と柔らかな声をかけた。

                                    了

80,000Hitありがとうございます、創作です。
真珠のつもりが、美鶴ちゃん出張りました(笑)。
書けて楽しかったvv
少しでも楽しんでくだされば、幸い。
いつも足を運んで下さる皆様へ。
ふらりと遊びに来て下さった、皆様へ。
たくさんの感謝と、「ありがとう」を込めて。