〜夏空色

 夏が、終わる。
 少しずつ、けれど確実に薄い色へと変化を遂げる空を見上げ、真弘はそんなことを考える。
「……暦上だと、もう秋なんだよなぁ」
 たまたま見たカレンダーの片隅に書かれていた「秋分」の文字を思い出して、真弘は特に感慨も込めずに呟いたが、
「そうなんですよねぇ、こんなに暑いのに」
 隣にいる少女は、うんざりとした調子で頷いた。
 真弘は「暑い、暑い」と言いながら団扇を扇いでいる珠紀に、呆れた声をかけた。
「そりゃ、そんなに力を込めて扇いだら、暑いだろうよ」
「だって、そよ風くらいじゃ心地良い! って感じられないんですよ」
「情緒がねぇなぁ」
「……昨日、拓磨と力比べ宜しく扇ぎ合いして、へたばっていた真弘先輩に言われたくないです」
「過去にこだわるな。未来を見ろ!」
「自分はねちねち過去のことを持ち出すくせに」
「……もうちょっと可愛げのある女に育てときゃ良かった」
 後悔を隠すことなく真弘はしみじみと呟き、ごろりと畳の上に寝転がった。
 視界が空の色に埋め尽くされる、錯覚。
 鮮やかな青に、真弘は知らず目を細めた。
「真弘先輩」
 少し甘えたような――というよりは、悪戯を思いついた、という印象が強い珠紀の声に、真弘は視線を動かす。
 真弘を見下ろすように見つめる珠紀の表情が、なにか良いことを思いついたのか、輝いている。
 その表情から、珠紀が何を言い出そうとしているのかなんとなく察しをつけつつ、しかし、真弘は言葉の続きを促すように目線だけで問いかけた。
 話を聞く前に拒絶するのもいいかと思ったが、くだらないやり取りをするのもいいかと思ったのだ。――珠紀と出会ってからは、特にその傾向が強くて、そりゃもう、毎日、毎時間、毎分、毎秒とくだらないことに時間を費やしている気がするが、そこは棚上げしておく。
「思い出したんですけど。真弘先輩って、風を操れるんですよね!」
 うきうきと言う珠紀に、真弘は内心、苦笑を零した。
 予想に違わぬその科白。
 素直に、珠紀のそんな単純なところも可愛いと思う自分は、やっぱり、末期症状だと思いつつ。
「……試してやろうか?」
 守護者の力を、必要もないのに揮うわけにはいかないが、百聞は一見に如かず。体感したほうが早いだろうと、真弘は言った。
 真弘の言葉に珠紀がぱちぱちと瞬きを繰り返した。
 ゆっくりと、真弘の言葉の意味が浸透したのか、理解した途端、さっきよりも一層、表情が輝いた。
 わくわくとした空気に応えるように、真弘は寝転がったまま気を集中した。
 真弘の周りに、小さな風が起こる。
 真弘は僅かに顔を顰めつつ、ゆっくりと力を解放する。
 罷り間違って珠紀を傷つけてしまわないように。
 そして、家の中にいる他の守護者たちに気づかれないように。
 真弘の視界の端で、珠紀の長い髪が、真弘の起こした風に煽られて、靡いた。
 真弘の眼差しの先で、珠紀がきょとんと瞬きを繰り返す。
 追いかけても、風など瞳で捉えられるわけはないのに、見ようとするように視線を彷徨わせ、それから、真弘をじっと見つめる。
 まるで不思議なものに遭遇した、小さな子供のような仕草だった。
 微笑ましいその様子に、笑いだしたいのを堪えつつ、
「どうだったよ?」
 真弘は目をぱちくりと瞬かせるばかりの珠紀に問いかけた。
 珠紀はゆっくりと真弘に視線を合わせ、むっと唇を尖らせた。
 幼いとしか言いようのないその仕草に、真弘は我慢せずにけらけらと笑い出した。
「全然涼しくありません!」
 すっかりご機嫌ナナメの珠紀が、抗議の声を上げる。拗ねた口調でのその抗議が、なんとなく愛しい。そう思いつつ、真弘は笑いを噛み殺し、言った。
「外気温が暑いんだからよ、風が涼しくないのは当たり前だろーが。だいたい守護者の力は、自然にまで介入してどうこうできねぇんだ」
「それを判ってて、やりましたね?」
「百聞は一見に如かず、ってな。説明しても納得しねぇだろーなぁと思ったからよ」
「うう、ひどい」
「本気で涼しいところに行きたきゃ、山ん中、だな」
「面倒なんですよ」
「街中よりはマシだろ」
「……まさに隠れた避暑地、だと思いますけど……」
 むうっと頬を膨らませる様は、小さな子供と変わりない。
「扇いでやろうか?」
 真弘は起き上がりながら言った。返事を待たずに、珠紀の手から団扇を取る。
 ぽかんとした表情の珠紀が、まじまじと真弘を見つめ、
「まさか、祐一先輩の見せる幻覚?」
 失礼極まりないことをのたまった。
 こめかみを引き攣らせつつ、
「いーい度胸だ」
 低く、低く、真弘は声を絞りだす。
「熱風でも生み出してやろーか?」
「守護者の力は自然に介入して、どうこうできないんですよね?」
「そんなもん、気合でなんとかできるかもなぁ? なんたって鴉取真弘様だからなぁ、俺様は」
「遠慮します。心の底からっ!」
「遠慮なんて似合わないからやめとけ」
 にやりと笑い、真弘は取り上げた団扇を動かした。その途端、珠紀が衝撃に耐えるように、ぎゅっと体を硬くする。
 真弘が本気で熱風を送ると信じているらしい失礼なその態度に、できはしないけれど、本気で熱風でも生み出してやろうか、こいつ、と、真弘はこめかみに青筋を浮かべながら、ゆるりと団扇の風を送る。
 珠紀が少しでも涼しく感じられるように、と。
 我ながら、馬鹿だな、甘やかしすぎだな、と思わないでもないけれど、珠紀に対して自然と優しい態度をとってしまうのは、やはり惚れた弱みというものなのだろう。
 こんなに穏やかな心でいられる日が来るなど、思ってもみなかった。
「うう、真弘先輩が優しい〜」
 ほっと肩の力を抜きつつ、怯えるように珠紀が言う。
「――珠紀、な・に・が・不満だ?」
「不満なんじゃなくて、後で何か要求されそうで怖いんですよぅ」
「俺様の無償の厚意に対して、言いたい放題だな」
 呆れながら呟いて、真弘は小さく舌打ちを零す。
「そんなつもりはなかったけど、ご期待に沿って、なにか要求してやろうか?」
「ご遠慮させてイタダキマス」
「ほほぅ、遠慮なんてらしくねぇなぁ、珠紀? よしよし、そんな謙虚なお前に、真弘様の要求を叶える権利を与えてつかわす!」
「……人の話を聞いて下さい! 遠慮しますって言ってるじゃないですかっ!」
 俺様主義も大概にしてくださいよぅ、と、本気で泣きが入っている声音を、まるっと無視する。
 さぁ、なにを要求してやろうか、と、ニヤニヤと笑いながら珠紀を見つめていると、怯えるように珠紀の体が強張りを見せる。
 いい加減、揶揄かわれていると判っているだろうに、条件反射でうっかり怯える様が面白いといえば、人をおもちゃにして遊ばないで下さい、楽しまないで下さい、と、きっと顔を真っ赤にして怒るだろう。
 怒らせても面白いんだよなと思いつつ、しかし、珠紀を揶揄かうには、限度を考えないといけない。いわゆる匙加減、というやつだ。
 度が過ぎれば機嫌を直させるのに手間がかかる。さらに度を超すと、珠紀を崇拝している恐ろしい同居人に、出入り禁止をくらう。出入り禁止ならまだいいが、面会禁止をくらう事態は避けねばならない。
 珠紀がこの村に来たときは、全身で苦手意識を表現していたのに、今じゃすっかり珠紀至上主義の幼馴染の少女の姿を思い出して、真弘はそっと眉を潜めた。
 今日は特に機嫌を損ねるわけにはいかないか、と、真弘は思いながら、
「珠紀」
 少女が警戒を解くように声を出した。
 真弘の声音の柔らかさに、単純にも珠紀の緊張がなくなる。
 もうちょっとだけ警戒心というものを思えさせたほうがいいだろうな、と、心の中で溜息をつきながら、真弘は口を開いた。
「まだ聞いてねぇぞ」
 柔らかく、少しだけ揶揄を含んだようにそう言うと、珠紀が目をぱちくりとさせる。
 それから、とても優しく微笑んだ。
 時々、真弘でもはっとする表情を珠紀は浮かべるようになった。
 慈愛に満ちた笑顔を真弘に向けながら、珠紀が言う。
 珠紀の微笑みに見惚れたのは、秘密にしておこうと真弘は思いながら、珠紀の言葉を聞く。
「フライングなんですけど」
「……日付はとっくに越えてるだろうが」
 真弘の言葉に、珠紀が口元に手を当てて、考え込むような仕草をする。それから、にこりと笑う。
「それもそうですね。……生まれてきて、今日まで生きていてくれて、わたしに出会って、わたしを選んでくれて、真弘先輩、ありがとうございます。――お誕生日、おめでとうございます」
「サンキュ」
 珠紀の言葉に嬉しさと照れ臭さを感じ、真弘ははにかむように笑みを浮かべる。
 ゆっくりと、珠紀が真弘に向かって手を伸ばすのを、真弘はじっと見つめて、待つ。
 優しい抱擁を。
 心が求めているものを。
 真弘を包む温もりに、すべてを委ねるように、真弘はゆっくりと瞳を閉じた。

                                  END

一ヶ月遅れのBD創作です。
至らない出来に、涙が流れました。
時間かけてもこの程度になってごめんね、まひろん。