宣戦布告

「なぁ、兄貴。謝っちゃえば?」
 玉依姫と守護者一同。加えて典薬寮のふたりの溜まり場と化している図書室の一角、常の机から離れた場所で、小太郎は不機嫌な様子を隠すことなく昼食を摂っている兄、克彦にそう言った。
 食事の手を止めた克彦が、じろりと小太郎を睨みつける。
 克彦に睨みつけられた小太郎は、冷ややか過ぎる兄の眼差しに怯えるように肩を竦ませ、そして、同じような言葉をぽつりと呟いた。
「兄貴、謝っちゃえって」
「うるさいぞ、小太郎。口出しするな」
 克彦は弟のアドバイスをぴしゃりと切り捨て、食べ終えた昼食の後片付けを始める。
 少しだけ怯えたような視線を感じる。
 視線を向けているのが誰なのか、克彦にはわかっていた。
 珠洲だ。
 綿津見村の、玉依姫。そして、克彦の恋人でもある少女。
 けれど、克彦は決して珠洲を見ようとはしなかった。
 意固地としか思えない兄のかわりに、小太郎が体ごと振り返って、「取り付く島もなし!」と言うように肩を竦めた。
 克彦は弟の行動を視線の端で捉えながら、わずかに眉根を寄せる。
「小太郎、構うなと言っている」
 低い声音で克彦がそう言うと、小太郎は勢い良く振り返った。
 怒っている顔つきで克彦を振り返った小太郎は、大きな溜息をついて言った。
「兄貴、それ、どういう意味で言ってんの?」
「なんだと?」
 小太郎に問われた言葉の意味が判らず、克彦は怪訝な顔で弟を見返した。
 克彦の問いかけにむっと表情を歪め、小太郎は淡々とくり返し言った。
「どういう意味で言ってんの?」
「なにが言いたいんだ、おまえは? おまえの質問の意味が、俺にはまったく解らない。解るように言え」
 小太郎以上に淡々と問いかけると、
「だから!」
 小太郎が口調を荒げたその瞬間、
「小太郎くん!」
「小太郎」
 珠洲の小さくもはっきりとした声と、陸の声が諫めるように小太郎の名を同時に呼んだ。
 珠洲と陸に諫められ、小太郎は唇を尖らせると、拗ねた仕草で口を閉じた。
 それから、ぷい、と、そっぽを向いて、克彦から視線を外した。
 小太郎が黙り込むと同時に、椅子を引く音が聞こえた。
「姉さん、俺が行くよ」
 陸の声が聞こえると同時に、克彦に近づいてくる気配。
 克彦はそっと溜息をついた。
「甘やかすな」
 克彦の傍に来た陸に、克彦は視線を合わせないまま言った。
「構いすぎるな」
 続けてそう言うと、陸が大きな溜息をついた。
 それからもともと低い声をさらに低めて、陸は言った。
「それはどういう意味ですか?」
 陸は小太郎と同じ問いを、唇に乗せた。
 克彦は、また、怪訝な顔つきになる。
 小太郎も陸も、いったいなにを問うているのだ? 意味が判らない。意図が読めない。
 問いかけるように陸に視線を向けると、静かな眼差しが克彦を見ていた。
 しかし、陸の眼差しは、ただ静かなだけではなかった。
 隠されることもなく静けさと同居している、激しさ。
 激情とも思えるような、たしかな感情。
 克彦と陸の眼差しが、ぶつかるように絡み合う。
 克彦と陸に挟まれた形の小太郎が静かに息を飲み、けれどすぐに、大きな溜息をついた。
 どうしてだか、小太郎は呆れているようだった。
 少なくとも克彦にはそう感じられ、少し苛立つ。
 なぜ呆れられなければならないのか。その理由を問い質してやろうと思った矢先、
「必要以上に姉さんに構うなというのは、それは、嫉妬ですか?」
 ゆっくりとした口調の陸に問いかけられた。
 克彦は微かに目を見開く。
「なんだと?」
「それとも、純粋に、姉さんを甘やかすなと言っているだけですか?」
「それ以外に理由があるか?」
 渋い顔つきで克彦が言うと、
「壬生先輩がそうだと言うなら、そうなんだろうと思います」
 静かな口調のまま、陸が頷いた。
 ずいぶんあっさりと、陸は克彦の言い分をのみこんだ。
 けれど、陸の眼差しの激しさは、静かな口調を裏切っていた。
 陸は克彦から視線を外して、背後を振り返る。
 心配そうな顔で陸と克彦を見ていた珠洲と目が合った。
 なにかを言いたげに唇を動かした珠洲に、陸は目元を和らげて、かすかな笑みを浮かべてみせる。
 そのとたん、安心したように、珠洲が肩から力を抜いたのがわかった。
 珠洲からも微笑が返され、それに陸は小さく頷くと、克彦へと視線を戻した。
 苦々しい顔つきの克彦が、睨むように陸を見返している。
 陸に向けられているのは、激しい嫉妬。
 克彦が認めようとしない感情。
 陸と珠洲のやり取りは、克彦の嫉妬心を確実に煽ったのだろう。
 淡白な反応を装い、貫こうとしながらも、克彦の瞳に宿る感情がそのすべてを裏切っている。
 隠しきれない感情を有しているのなら、その感情をどうしてもっと素直に言葉にしないのか、と、陸は克彦に問うてみたい。
 克彦が隠したいと思い、認めたくないと思う感情を、陸は暴きたいわけではない。
 わざわざそんなことをしたいとは思わない。
 けれど、本来なら陸や晶、亮司たちに向けられるべき克彦の八つ当たりを、陸たちの代わりにうけて、困ったように溜息をつく珠洲を、陸が見たくないと思うだけだ。
「無駄に愛敬を振りまくな」
 冷たく切り捨てるように言う克彦の態度と言葉を受け止めきれず、それを悲しく思う珠洲を、これ以上見ていられない。
「壬生先輩」
 いつも以上に声を低め、陸が克彦を呼んだ。
 克彦は陸の声に答えるように視線を合わせた。
「なんだ?」
「壬生先輩がいつまでも嫉妬なんかじゃないと言い張るなら、俺は遠慮しませんよ」
「陸?」
 怪訝な顔で見返した克彦は、真剣そのものの陸の眼差しに、目を細めた。
 克彦はゆっくりと口を開く。
「それは行きすぎた感情じゃないか?」
 冷ややかに紡ぎ出した言葉は、しかし、陸になんのダメージも与えられなかったようだった。
 珠洲に向ける感情。それが肉親に向ける感情を越えている自覚が、陸にはあるのだろう。
 克彦の視界の端で、小太郎が「あ〜あ、とうとう宣戦布告しちゃったんだな」というように、大仰に溜息をついていた。
 溜息をついていた小太郎が、ふと、なにかを思いだしたように、克彦の方へ心持ち身を乗り出すように上体を近づけてきた。
 悪戯っぽい顔つきで克彦を見つめ、小太郎が言った。
「兄貴。俺も遠慮しないよ?」
「……なに?」
「ねーちゃんを甘やかすなって、それだけの理由なら、俺も遠慮しないってこと。陸に続いて、ライバル宣言する!」
 そう言った弟の顔と、陸の顔を、克彦は交互に見つめた。
 どちらの瞳も真剣で、本気なのだと判る。
 克彦は厳しい眼差しで二人を睨みつけるように見、美貌と騒がれている顔を皮肉げに歪ませた。
「勝手にすればいい。俺から奪う自信があるならな」
 克彦が言ったとたんに、小太郎の顔が嫌そうに歪められ、陸は相変わらず無表情に克彦を見返してきた。
 数秒の沈黙の後、陸がぼそりと呟いた。
「壬生先輩。必ずあなたから、姉さんを奪い返します」
「上等だ」
 克彦は陸の言葉を、不敵な笑みで受け止めた。

                                   END