大王様とチビちゃん



 及川徹は困っていた。
 困って、困って、困り果てて――――途方に暮れていると言ってもいい。
「まいった……」
 思わず仰いだ先に広がる空の色は、困りきっている及川の心情になどまったく無関心。鮮やかな青を湛えている。雲一つ浮かんでやしない。
 ああ、まったく。腹立たしい。
 その気持ちのまま舌打ちをしそうになって、慌てて思いとどまる。
 晴天に苛立ったところで現状に変わりがあるわけでなし。
 気を抜いたらこぼれそうになる溜息もうまくごまかして、静かに、大きく息を吐きだした。それからもう一度、深呼吸。
 よし、と、心の中で気合を入れて、及川は視線を戻した。
「ええっと、どこか痛いの……かな?」
 驚かせないように。これ以上泣かせないように細心の注意を払いながら、及川はしゃがんで目線を合わせた目の前の小さな女の子に声をかける。
 同年代の女子への対応には慣れている及川にとって、小学生の女の子は未知の生物だ。
 生意気盛りの小学生の甥っ子はいるが、やはり男の子と女の子では勝手が違う。もちろん男女の違い以前に、それぞれ性格の違いもあるだろうが、自分が知っている女子や甥っ子と、こうも違い過ぎると対応の仕方がわからない、と、及川はずっと途方に暮れたままだ。
 特に目の前の女の子はとにかくずっと――双方の前方不注意による衝突から、はらはら、はらはらと、声を上げることなく、それはもう静かに、声もなく泣き続けているのだ。
 ぶつかった時に及川の手が顔にでも当たったのか、はたまた尻餅をつかせてしまった時に足でも痛めたか、とにもかくにも怪我をさせてしまったかとオロオロしつつ声をかける及川に、しかし、女の子は泣くばかりで返事が返らない。埒が明かない。
 このままではそのうち不審者扱いで通報でもされそうだな~、どうしようかな~と、思いながら根気よく声をかけ続けている時だった。
「もしかして、大王様?」
 烏野ではすっかり定着しているらしいあだ名で呼ばれて、及川は首を背後にむかって動かし、目線も一緒に動かした。
 高校生にしてはまだ幼さが抜けきっていないような風貌に、眩しいくらいのオレンジがかった頭髪。及川のクソ生意気な後輩の相棒となった烏野高校排球部の十番。日向翔陽のびっくりした眼差しが、及川を見下ろしていた。
 及川と日向の目が合う。
「チビちゃん!」
 思わず藁にもすがる気持ちで呼んでしまったのは、内緒だ。
「なにしてるんですか?」
 そう言いながら一歩及川に近づいてきた日向は、及川の前で泣いている女の子に気づいたようだった。
 驚いた日向の眼がさらに大きくなって……。
「ちょっとチビちゃん、なんなの、その眼差し!」
 日向の、及川を見つめる眼差しが軽蔑をこめたものに切り替わっていく瞬間をうっかり見てしまった及川は、ついつい反射でツッコミを入れるように問いかけてしまった。
 一方日向は、信じられないものを見たような顔で及川を見つめ、
「……小学生の女の子を泣かすとか、性格が悪い以前の問題! ……だと思います! 及川さんがモテるからって節操がないのも問題だと思います!」
「え? えぇ、ちょっと待って!? どんな誤解からそんな言葉が出てきてるの!?」
「及川さんがその女の子をこっぴどく振った! って感じですか?」
 こてん、と、小首を傾げられても困るのだ。
「その憶測、凄すぎるんだけど! っていうか、俺だってさすがに小学生は守備範囲外だからっ! チビちゃんの中で及川さんの印象ってどうなってるわけ!?」
「大王様」
 なんだその悪役当然! みたいな言い方。
 いや、確かにぶつかっちゃったけど。尻餅つかせちゃったのも事実だけど。理由はわからない――――いや、もしかしたら怪我させたかもしれなくて、それで泣かせてしまったのかもしれないってのも確かだけどっ! でもそれと小学生を振るっていう理論が結びつかない。及川の中で言いたいことが浮かんで、けれど、どれも言葉にすることはできなかった。
 日向からの返事にすべてが集約されている気がして、うっかり絶句してしまったのだ。
 反論する気力を奪われて、がっくり肩を落とした及川のことなど放りだすことに決めたらしい日向が、さらに近づいてくる気配。日向の気配は及川の横でぴたりと足を止めた。
 そして及川と同じように身を屈めて、
「どしたー? このお兄さんにいじめられた?」
 及川を相手にしていた時より数百倍は柔らかく安心させる声で、泣き続けているままの女の子に日向が声をかけた。
 言われている内容はこの際聞き流すことに決めた及川は、日向の声の優しさにつられるように目線を地面から女の子に戻す。
 泣いている女の子の存在そっちのけで、うっかり日向とテンポよい会話を交わしてしまっていたが、問題は未解決だったことを思いだした。そんな及川の目に、躊躇いなく女の子の頭を撫でて宥めている日向の姿が映る。
 落ち着かせるように動かす手の優しさと、安心させるような柔らかい笑みを浮かべている日向に、及川は正直、驚いた。
 知らない一面だ。
 及川の日向に対する印象は、とにかく元気が良すぎる――だった。が、その及川の印象とはまるで真逆の表情を、日向は浮かべている。
 とても落ち着いた雰囲気だった。
 そんな日向の雰囲気に引き摺られたのか、女の子も次第に落ち着いてきたようだった。
 しゃくりあげる感覚が少しずつ長くなって、泣き止み始める。
「もう話せる?」
 日向が優しく問いかけると、女の子はこくんと頷いた。
 及川は日向が子供の扱いに慣れている様子にも驚く。一緒に騒ぐことはできても、子供を落ち着かせることなどできないだろうと、勝手な印象を心のどこかで持っていたからだ。
「よしよし、いい子だな。――で、このお兄さんにいじめられて泣いていた、とかじゃないよな?」
「うん、ちがうの。あのね……お友だちとケンカしちゃったの」
 まだ涙声のか細い声は辛うじて及川にも届いた。
 及川はたどたどしく話す女の子の言葉に律儀に頷いている日向に任せることに決めて、そっと立ち上がる。ずっと座り込んでいたので、そろそろ足に痺れが走りそうなのだ。
 ストレッチをするように軽く足を動かして、圧迫していた部分の血流を良くする。そんな動作をしながら、及川は一応、きちんと日向と女の子の会話にも耳を傾けていた。
 女の子曰く、すぐそばにある公園で友達と一緒に遊んでいたが、ささいなことでケンカをしてしまったらしい。お互いもう知らないと言い合って、背を向けて走り飛び出したところで及川とぶつかってしまった、ということだった。
「そっか。じゃ、友達とケンカしたことが悲しくて泣いてたんだなー。ぶつかった時に怪我はしてない?」
「うん、だいじょうぶ」
 日向の問いかけに女の子は素直に頷いている。
「そっか。怪我がなくて良かったな。――よし、じゃあ、これ以上悲しくならないように友達に謝りに戻らなきゃ」
「……うん」
 日向の言葉に女の子はためらいながら頷いた。きっと仲直りができるかどうかが不安なのだろう。それがわかるからか、日向が苦笑する気配もうかがえる。
 日向はまた女の子の頭に手を置いて、いい子いい子と撫でた。
「ケンカしたままだと学校で会ったときに楽しくないよ? そんなのいやだろ?」
「うん、いや。……ゆるしてくれるかなぁ?」
「気持ちのこもったごめんなさいがわからない友達じゃないよ。だいじょうぶ。――あ、ほら、あそこにいるのはケンカしちゃった友達じゃないかな? きっとあの子もごめんなさいって言いたいと思うから、行っておいで」
「うん! おにいさん、ぶつかってごめんなさい」
 日向の言葉に満面の笑顔を浮かべた女の子が、及川を見上げて可愛らしく頭を下げた。もう泣き顔じゃないことに、及川はほっとする。
「こっちこそ、ぶつかってごめんね~。仲直りできるといいね」
「うん、ありがと、おにいさんたち!」
 ほんの数分前まで泣いていたとは思えない元気な笑顔で、女の子はくるりと及川と日向に背を向けて、様子を伺っている友達へと駆け出して行く。
 その姿を立ち上がった日向とふたりで見送り、無事に仲直りできたらしい様子を見届けてから、及川は日向へと視線を向けた。
 日向はまだ女の子たちの方を見ている。
 どこか心配そうな横顔に、及川は声をかけた。
「なかなか泣き止んでくれなかったから、助かったよ、チビちゃん! ありがと。それにしてもうまいね、子供の相手」
「あ、おれ、小さい妹がいるからああいうのは慣れてます」
 少し照れくさそうに日向がそう言いながら、及川を見上げた。
 コートの中で試合をしている時はこちらにも火をつけるほどギラギラした眼差しだが、いまの日向の眼差しは別人かと思うほど穏やかだ。
 なるほど、妹がいるのなら納得だと思っていると、日向の瞳が悪戯っぽく輝いた。なんだろうと首を傾げるより先に、日向が言った。
「大王――じゃなかった。女の人にモテてるから、及川さんはああいうの得意かと思ったんですけど、意外ですね」
「その『人の弱み握りました』みたいな顔、生意気。さすが飛雄の相棒って感じでムカつくよー?」
 にこやかさを心掛けて笑いながら言い、及川は日向の両頬をむにっと摘まんで引っ張った。
 及川の突然の仕打ちに日向が目を驚きに見開いて抗議の声をあげるが、当然無視だ。
「なにするんですか、おいかわさん! はなしてくださいぃ~」
 かろうじて聞き取れる声は、しかし、どこか不明瞭な発音だ。
「おお、良く伸びるね~。……っていうか、チビちゃん、柔らかすぎでしょ、ほっぺた。まだ子供体型のまま?」
「うるさいです! はなして~」
 不明瞭のままの日向の抗議に笑って、及川は手を離した。
 そんなに強い力を入れたつもりはなかったが、及川が摘まんだ部分の日向の頬は赤くなっている。少しやり過ぎてしまったようだ。
「あちゃ。ごめん、ちょっと赤くなった」
 やりすぎちゃったよと謝ると、日向は少しだけむっとしたように丸みの残る頬をふくらませた。
「セイイが感じられません~!」
 怒っているというより拗ねた感じで言い返す様子に、及川はまた笑ってしまう。
 コートの中では厄介極まりないのに、コートを離れるとこんなにもイジリ甲斐があるとは。打てば響くような反応はなかなか楽しい。青葉城西の後輩とはまた違った楽しさだ。これは癖になる楽しさかもしれないと、及川はこっそり思いながら、ぷくっと拗ねたままの日向の頬を軽くつついてみた。
 頬袋のようになった頬は、そのままだった。残念だ。空気が抜けるかと期待したのに。
「なんか誠意って言葉が片言に聞こえたけど? 大丈夫? 漢字わかる?」
 からかいを隠しもしない声でそう指摘すると、日向はぐぐぐと眉間に皺を寄せた。ぷしゅんと頬から空気が抜ける。
 百面相だ。
 笑いのツボでも押されたように、いちいち笑えてくる。楽しい。楽しすぎる!
「大王様、本当に性格悪いしっ!」
 ぷりぷりと怒った顔で、声で、日向が言う。
「その性格悪いレッテルは、当然、飛雄ちゃんあたりが情報源だよねー。で、大王様って呼び方はやっぱり及川さんが飛雄の先輩だから?」
「え、なんでわかるんですかっ!?」
 ぷりぷりと拗ねて、怒って、今度はびっくり顔だ。本当に飽きないなぁ、と、及川は笑ってしまう。
「いやぁ、安直だよね。単純だよね! もうちょっと捻ろうよ、そこは」
「え? ひねる? んん? 他の呼び方ってことですよね? ……性格悪い影山が王様って呼ばれてて、及川さんはその先輩で、影山や月島よりもっと性格悪くて、王様の上って言ったらやっぱり大王様しか思いつかな……あ……」
 他に言いようがないと言いたげに首を傾げつつ、事実をひとつひとつ確認するように言葉にしていた日向は、だんだんと及川の顔が引き攣っていく様子で、自分の失言に気づいたらしい。少しずつ顔色を失っていく。
「天然ストレート、正直者の発言って、案外、笑って聞き流せないもんだね?」
 やっぱり飛雄の相棒だけあってムカつくなぁ、このクソガキ。と、思わす笑顔で毒づいてしまった。
 及川の笑顔からなにを感じ取ったのか、じり、と、日向が後退さる。
「あ……、スミマセン、おれ、この後用事……」
「いやいや、逃がさないよ~、チビちゃん」
 及川は逃げ出そうとした日向の左腕をがっつりと掴んで、にーっこりと笑った。
「だれかたすけて」と動いた唇の零した小さなちいさな呟きと、かわいそうなくらい血の気を失った表情など、及川は当然、まるっとスルーした。


 適度なざわめきに包まれたチェーン店カフェの一角で、小動物よろしくプルプルと怯えきっている見た目は中学生――しかし実は高校生男子一名を前に、及川はにこやかな笑顔を浮かべてカプチーノを飲んでいた。自腹である。さすがに他校生、しかも年下に奢らせるわけにはいかない。
 店に入り、注文の品を持って席に着いてからずっと、日向はそわそわ、きょろきょろと落ち着きがない。
「チビちゃーん、ちょっとは落ち着いたら? なにもとって食おうってわけじゃナイんだから」
 そこまで非道じゃないよ~? と、嘯く及川の声に、日向ははっと居住まいを正し、しかし、やはりすぐに落ち着きなく視線を彷徨わせている。
 日向の様子をじっと見つめて、及川は首を傾げた。
「もしかして緊張してる?」
 そう問いかけると、日向は恥ずかしそうに俯いた。
「おれ、こういうところ、入り慣れてないんで……」
「あははー、なるほど。そっかー。けどそんなに気構えなくてもサ、ファーストフードと変わんないよ? フレーバーやアレンジコーヒーがメインってだけで。コーヒー飲むよりデザート感覚かな。でも喫茶店より気楽でしょ」
「フードコートよりシキイは高いです」
「慣れだよ、慣れ! 慣れちゃえばすぐにこんな空気、当たり前になるよ」
「そんなもんですか?」
「そんなもんだよ。――思っているより苦くないでしょ、それ」
 及川は日向の手元を示して言う。
 ふだんコーヒーを飲む機会がないという日向に及川がアドバイスしたのは、豆乳で作ったラテだ。ちなみに及川自身は件のラテを飲んだことがなかったので、カロリーを気にするお年頃の女子たちが、ときおり頼んで飲んでいた折の感想を参考にしてアドバイスしたのは余談である。
「飲みやすいです」
 日向は一度及川を見、視線を手元の紙コップに移して頷く。そしてゆっくりとカップを持ち上げて、こくりとラテを一口飲んだ。
 まだまだ緊張は解れきっておらず、気後れした様子もそのままだが、すぐにこの空気にも慣れるだろうと結論をだして、及川もカップに口を付けた。
 日向の居心地が悪そうな空気に引き摺られているのか、及川もつい黙りがちになってしまう。といっても共通の話題などバレーのことしか思いつかず、しかし、ついつい練習試合の時のこと、インターハイの試合のことなど、互いに思うところばかりの話しかできないような気がする。あとは影山のことくらいだが、これに関しては及川の方が思うところが強すぎて、話題にしたくもないというのが本音だ。
 だからといってこのまま黙ったまま顔を突き合わせているだけでは、せっかく店内で座席を確保した意味がないなと及川はカップをテーブルに置いた。
「チビちゃん」
 及川は大人しくラテを飲んでいる日向に呼びかけた――のだが。
「は……はいっ!」
 声をかけられて、びっくぅ、と、大げさなほど肩を跳ねさせた日向の目元にうっすらと水の膜が見える気がして、及川は本日二度目の困惑を覚えた。
 もしかしたら今日はそういう――困惑の果てに途方に暮れる日、なのだろうか。目の前の相手が泣くというオプション付きの。
 そんなものは全然まったく嬉しくないのだけれど。
 置いたはずのカップに助けを求めるように手を伸ばしながら、及川はそんなことを考えてしまう。
「ええっと、さ。……いや、うん、そこまで怯えられると及川さんも困るんだけど」
「お……おれ、お、おおお怯えてません!」
「うん、どもりながら言われても説得力ないから。ついでに涙目」
「き、気のせいです! べ、べつに怯えてないし! 大王様に何言われるんだろうとか、なにを要求されるんだろうなと
かそんなこと全然、ほんと、ぜんぜん考えてない! です!」
「……チビちゃん、あのさ、心の声がそのまま言葉になってるけど――っていうか、そんなこと考えてたの? 及川さんは傷つきました」
「へ? …………あ。いやいやいやいや、あのですねっ!」
「あははははー、顔色悪いよー?」
 さらに慌てて言葉を紡ごうとする日向の声を遮って及川が笑って指摘すると、うぐ、と、日向が喉の奥で唸るように言葉を潰した。
「いや、ごめんね。ちょっと脅かし過ぎたか。及川さんもさ、全然気にしてないからねー。飛雄より性格が悪い大王様って言われたことなんて、ほんと、気にしてないよー?」
 ここに来る前にやり取りした際の日向の言葉を繰り返すように言ってにこりとした笑顔を向けると、日向は「うう」と小さく唸った。
「気にしてるじゃないですか」
「あはははは」
 恨みがましそうな眼差しを向けた後、がっくりと項垂れる日向を見て及川は声を上げて笑う。
「本当に性格悪い……」
「あれ? チビちゃん、まだ言う? せっかく及川さん、さっきまでの失言は見逃してもいいかなって思ってるのに」
 及川がそう言うと、がばっと擬音が付きそうな勢いで日向が顔を上げた。素早い食いつきだ。
「本当ですかっ!?」
 きらっきらっな笑顔は、しかし、すぐにげんなりとしたものに変わる。まったく、本当に面白い百面相だ。――あまりにも面白すぎて、ついついからかってしまう。日向にはいい迷惑だろうが、楽しくて仕方がないのだ。
 思えば、及川の態度にまともな反応を返してくれる人など、なかなかいない。
 黄色い声を上げて騒いでくれる女子たちは、いったい及川にどんな理想を夢見ているのか、迂闊なことを言えない。できない。――騒いでくれる女子の前では多少、格好いい及川さんを演出している部分もあるので、これは自業自得なところもある。が、キャラ作りはなかなかに疲れる。キャラを作らなくてもいい、及川の素のままを出せる青葉城西排球部の面々はというと、まともに相手をするどころか、嫌な顔をしてスルーするか、手酷い毒舌を返してくる。幼馴染に至ってはボールか頭突きだ。随分な扱いを受けていることを思い出して、思わず頬が引き攣りそうだ。そんな日々の扱いを思えば、日向のストレートな反応は新鮮に映る。自然と笑顔も零れようというものだ。
「――嘘じゃないですかぁ」
 他意なく浮かべたはずの及川の笑顔から勝手になにを読み取ったものか。ぐったりと項垂れた日向はテーブルの上に額を押し付けている。
 及川の表情に振り回されてばかりの自分を嘆いているのか、逃げる算段が思いつかなくて嘆いているのか、その両方か。日向はこの世の終わりを前にしているかのように小さく唸っている。
「ほらほらチビちゃん、それじゃあ及川さんがチビちゃんを苛めてるみたいに見えるから、顔を上げて」
「イジメ以外のなにものでもない……」
「ホント、いい加減、その口を閉じようか?」
「スミマセン」
 少し怯えているような口調の謝罪とともに、日向が身を起こした。
「チビちゃんは反応がいちいち素直だよね」
「それ単純だってことですよね?」
「そうだね~。でも、悪いことじゃないと思うよ。ま、試合の時はもっとポーカーフェイスを覚えた方がいいと思うけど」
「ポーカーフェイス?」
「チビちゃんは表情でわかりやすいからねぇ。動きがバレバレ」
「えっ!?」
 日向の表情がぎょっとしたものに変わる。まずい、まずい、と物語るそれに、及川は思わず苦笑を零してしまう。
 まっすぐな日向は、駆け引きなんてものは考え付きもしないのだろう。
「素直って普段は長所だろうけど、試合している時は短所になるからね、駆け引きは覚えた方がいい……アッ! あ~、まあいいか。これは出血大サービスのアドバイス」
「ありがとうございます……?」
 こてんと首を傾げる様子に、せっかくのアドバイスを理解していないのだとわかって、及川は苦笑を零した。わかっていないのならいいかと、及川は思う。それでなくとも厄介極まりない相手だ。これ以上敵に塩を送ってやる必要はないのだから。
「あぁ、ほら、冷めきっちゃう前に飲みな」
「あ、はい」
 及川の指摘に日向が両手でカップを持ち上げた。そっと口元に運ぶ様子はまだまだおっかなびっくりという態で、緊張が窺える。本当に慣れていないのだと思うと、微笑ましくさえ思えてくるから不思議だ。
 少しずつ、少しずつ飲んでいるのだろう仕草をなんとなく見ていると、不思議な感覚はさらに大きくなってくる。
 良く考えれば、日向と面識はあるが、それは敵チーム――対戦相手としてだ。呑気にテーブルを挟んで向かい合うような関係ではない。ましてや軽快なテンポで会話を交わすほど、親密ではない相手だ。それなのにそんな諸々のことも気にしなかったくらい、馴染んでしまっていた。
「チビちゃんさ」
「はい?」
 及川の呼びかけに、日向がカップから口を離して見返してくる。少し大きめの瞳がきょとんと見返してくる様は、日向の性格をそのまま物語っているように思えたから、及川はその思ったことを正直に言葉にした。
「慣れてくると無防備って言うか、無警戒なところがあるって言われない?」
「コミュニケーション力高いって、菅原さんに褒められました!」
 あぁ、確かにコミュニケーション能力ともいえるか、と及川は納得しつつ、はて菅原とは誰だったかと一瞬記憶を探った。
「……すがわら。……あぁ、あのさわやかくん」
 及川の中で飛雄に余計なことを教えた人物としてインプットされている人物は、当然ながら日向にとっては大事な先輩だ。だからだろう、菅原に褒められたと瞳をキラキラさせてそう言った日向は、今まで以上に無防備に見えた。
 喜怒哀楽のはっきりした日向のストレートさは、少しだけ、及川を怯ませる。及川自身はそういうつもりはないが、うっかり含みを持たせているらしい言動を取ってしまう身としては、裏表のない日向は眩しすぎると言ってもいい。
 及川の菅原に対する言葉をそのまま素直に、
「さわやか! 菅原さんにぴったりだ! です!」
 と感心している姿を見れば、言葉に詰まる。反応に困る。ついでに自分の心の汚い部分が浮き彫りになったような気すらしてしまう。
「大王様スゲェ」
「……そんなキラキラした目で見られると、及川さん、居た堪れないんだけど」
 名前をきちんと把握していなかったからという理由もあるが、菅原を「さわやかくん」と呼んだのも、決して見た目だけで称したわけではない。皮肉を込めて称した部分がある。
 あの不名誉極まりない「王様」という呼称を戴いた後輩の手綱を取れた、烏野の三年セッター。裏表のなさそうな笑顔が、及川のコンプレックスの対象にまっとうな居場所を与えたのかと思うと、あのときは本気で腹立たしかったのだ。
 生意気極まりない後輩を引き摺り下ろそうと思っていたのに、それは叶わないこととなってしまった。
 昏い気持ちが頭を擡げてきてしまい、思わず日向の視線から目を逸らしてしまいながら言うと、及川の言葉が聞こえなかったのか、日向が「え?」と聞き返すように首を傾げた。
「聞こえなかったのなら、別にいいよ」
 なんとなくそれ以上、日向に淀んだ言葉を告げる気になれず、及川はなんでもないと首を振った。そしてこの話題を打ち切るつもりで、唐突な話題転換を図る。
「ところでチビちゃんさ」
「はい?」
「いいかげん、その大王様呼びやめない?」
 このままだとずっと大王様呼びをされそうだと思いながら言うと、日向は「んー」となぜか考え込む顔になった。
「え、なんで考え込んでんの!?」
 そんな考え込むような難しい提案ではない。決してない。妙な呼び方から及川の名前に変えればいいだけだ。考え込む余地などないはずなのに、日向は「うーん」と小さく唸っていて、及川の当然の疑問ツッコミもスルーされた。
「ちょっとチビちゃん」
「大王様って呼び方、ウチではもう浸透してるんですよね。ときどきだけど、みんな呼んでるんで」
「え、なにそれ!?」
 誰も大王様呼びを訂正していないということは、烏野の中で及川の印象はどうなっているのだ。
「イマサラ呼び方変えると……うーん、いいのかな? 通じるかな?」
「いや、及川で通じるよ! ちゃんと通じるから!!」
「えー?」
「いや、ホント、どうしてそこで疑問とか不満を感じるのか、知りたいくらいだよ!?」
 このままでは誰が聞いても耳触りの良いとは言えない不名誉な二つ名がついてしまう! というか、縁深い烏野から及川の同級生チームメイトたちに伝わって、根付いてしまう事態になると焦る及川を尻目に、日向はどうしようかと思案中のままだ。
 これは、と及川は自分がだんだん追い込まれている気分になってきた。
 妥協という言葉が及川の脳裏に思い浮かんだ。――思い浮かべるしかなかったともいう。
「うん、――――うん、わかった、チビちゃん」 
 及川は力ない声で呼びかけた。がっくりと肩を落としながら、
「せめて俺を前にしている時だけでいいから、及川さんって呼んで……」
 少なくともそうすれば岩泉たちに伝わる事態は防げる。大爆笑されたのちに、及川にはぴったりだといいながらチームメイトたちに大王様呼びされる事態は防げるはずだ。たぶんと、及川は一抹の不安と共に思う。
「えー」
 と、やはり不満そうに声を上げる日向に目を向けると、納得がいかないと言いたそうに眉根を寄せている。
 だからどうしてそんな納得したくないのか、不満なのか、理由を知りたい。ぜひ!
 日向の失言を逆手にとってちょっと脅しをかけ――もとい。からかうつもりでテーブルを挟んでいたはずなのに、いつの間に立場が逆転していたのか。
 あぁ、あれだ。大王様呼びをやめてと素直に言ったことが間違いだった――らしい。
 数分前の自分の提案そのものをなかったことにしてやりたい。及川は切実にそう思う。
 不満の声を上げたいのはこちらの方だと、ちょっぴり涙目になりつつ及川は、
「も、お願いだから、チビちゃん」
 と声をかけた。とたんに。
「いいですよ」
 日向が素直にそう言った。
 ぱあぁっと及川は思わず晴れやかな笑顔を浮かべてしまう。
「チビちゃん!」
 純粋素直、ばんざい!
 ありがとう、と続けるはずだった言葉は、しかし、
「大王様がおれのことチビちゃんって呼ぶのをやめてくれたら、おれも大王様の前ではきちんと名前呼びます!」
 無邪気な提案の前に音にできなくなった。
 なんだこの交換条件、と、及川は間抜けな顔で固まる。
「おれが大王様って呼ぶのは大王様が影山の先輩だからっていう理由からですけど」
 もちろん、性格が悪いって聞いたからもありますけど、と、またも失言を口にする日向に、しかし、及川は優位に立てない。
「おれ、たくさんの人にチビちゃんって呼ばれますけど、大王様のチビちゃん呼びは悪意しか感じられないです!」
 うん、うん、凄いよチビちゃん! その通り、良くわかったね。ちょっと悪意を込めて呼んでたよ!! と言いかけた及川は、慌てて口を噤んだ。大王様呼びを阻止するためには、失言は避けたい。
「え、えー? 及川さん、悪意なんてこれっぽちも込めてないよ~」
 言いながら、及川は右手の親指と人差し指の腹をくっつけて見せたが、日向は「むむぅ」と不機嫌丸出しで顔を顰めている。爪と爪の僅かな隙間も許すものか、という態だ。
 くそう、このクソガキ子供っぽいな! と、及川は自らの子供っぽさは棚上げにして、そんなことを思う。
「及川さんを信じてくれると嬉しいなぁ?」
「でも大王様、性格悪いし」
「そんなことないよ! 及川さん、優しいよ!? 性格悪いとか、それ飛雄のついた嘘……」
「練習試合の時、サーブで月島のことシツヨウニ狙ってた! ましたよね?」
「いや、あれは立派な勝負だったよね!?」
 執拗が片言だよ~という軽口も言わせてもらえない雰囲気だ。
 これはもう一度こちらが折れるしかない。
 なんだ、この敗北感。
 及川はうっかり打ちひしがれた気分を覚えながら、深く息をついた。
「うん、わかった」
 本日二度目の承諾の言葉を口にする。
 こんな短時間でこの及川徹が折れる羽目になるなんて、今までになかった。
 そんなことを思いながら、及川はホールドアップ状態を示した。
「チビちゃん呼びしないから、チビ…………、こほん。――日向も大王様呼びはしないでネ」
「及川さんの前では、でもいいんですよね?」
 にやん、と、日向が狡賢く笑う。単純素直だと思っていた日向への評価を、覆したくなった瞬間だった。
 不利極まりない条件を、しかし、及川は頷いてのむ。
 蟀谷がピキピキと音を立てている気がしたけど、精神衛生上、敢えて気づかないふりを決め込んだ。
「コウショウ成立ですね!」
「……片言が多すぎるよ」
 負け惜しみにもならないことを口にして、及川はもう一度、大きく深く息を吐いた。
 すっかり冷めたカプチーノの残りを飲み干しながら、及川は疲れたなと思う。
 困惑して、腹を立てて、精神的疲労を蓄積させられて。振り回されたという感想しか思い浮かばない日だった。――まだ今日という一日は終わってはいないから、油断はできないのだけれど。
 及川の目の前で、この店に入った時とは全く正反対の様子で、日向が上機嫌にカップの中身を飲み干している。
 委縮していた様子が嘘のようだ。
 敷居が高かったはずの雰囲気に馴染んでなによりだねぇ、チビちゃん、と、心の中で毒づきながら、及川は「さて」と声を上げた。
「チビちゃ……日向も飲み終えたみたいだし、出ようか?」
 これ以上精神的疲労をため込む前に、さっさと別れようと決めて立ち上がると、日向は慌てたように鞄を肩にかけて立ち上がった。
 空になったカップを手に、及川は出口に向かう。
 日向が倣うように追いかけてくる気配を感じながら、設置されたダストシュートにカップを捨てて、ドアの前に立つ。ウィーン、と、かすかな音を立てて自動ドアが開くと同時に、及川は外へ出た。
 いつの間にかすっかり陽が傾きだしている。思いのほかゆっくりしていたんだなと思いながら、後に続いて出てきた日向を振り返った。
「チビちゃ……、あー、日向は自転車だったっけ。駅の駐輪場だったよね?」
「はい」
「じゃあ、ここで解散でも大丈夫?」
「おれ、高校生ですよ、及川さん」
「うん、そうなんだけどねー」
 眉を顰めた日向に「小さいからさ」と言いそうになって、及川は慌てて口を噤んだ。けれど言葉にしなかった部分を、日向はしっかり聞き取ったらしい。苦い顔で及川を見つめ、大きく息をつく。
「今日は、ありがとうございました!」
 お礼を言いながら日向がぺこんと頭を下げた。
「あ、うん」
 さっきの大きな溜息と一緒に吐きだしたつもりか、文句を言うつもりはないようだ。それにいささか拍子抜けしつつ、及川は頷く。
「あ、そうだ。及川さん、言い忘れてました」
 拍子抜けしたまま日向を見ていた及川に日向が少し悪戯っぽい眼差しを向け、声をかけてくる。なにを言い忘れたのだろうと思っていると、
「呼び方、チビちゃんでいいですよ」
 笑いながら日向がそう言った。
「え?」
「呼びにくそうなんで、もう、チビちゃんでいいです」
「え、でも……」
 交換条件を出してきたのはそっちじゃなかった? と問いかけようと思った言葉は、日向の言葉に遮られてしまった。
「おれ、及川さんにチビちゃんって呼ばれるの、嫌じゃないです。というか、わりと好きみたいです」
「は?」
「だから、できればチビちゃん呼びはおれの前だけで呼んでくれると嬉しい! です!」
「へ?」
 間抜けな疑問の声を上げるばかりの及川に構わず、日向は言いたいことだけ言うと、さっさと及川に背を向けて走り出してしまった。
 及川は小さくなって行く背中を見送るしかない。
「え?」
 ちょっと、チビちゃん、今のどういう意味? と問いかけたくても、日向の背中はとっくに人ごみに紛れてしまって、見つけることもできない。
「ええっと……?」
 立ち尽くしたまま日向の言葉を反芻した及川は、じわじわと侵食してきた言葉、その意味に思わず左手で顔を覆ってしまった。
「ええぇ、ちょっと、チビちゃん……」
 予告も何もなく投下された爆弾に、及川は本日二度目となる困惑を覚えた。
「言い逃げはさすがに卑怯でしょ……」
 唐突に示された好意。
 出ってから分かれる直前まで、そんな素振りもなかったじゃないかと、及川はやや思考停止気味の頭で思う。
 ちょっと――いや、かなり変化球だったけれど、日向の、及川にチビちゃん呼びされるのは割と好き。だからその呼び方は日向本人の前だけでという言葉の意味を理解してしまえば、妙な恥ずかしさに襲われる。
 そしてなぜか及川の表情と口元は緩んでしまっている。
 日向から示された好意も言葉も、まったく嫌じゃないのだ。
 これは困った。
「及川さん、チビちゃんの連絡先、知らないんだけど」
 掌に感じる頬の熱。それの意味を考えながら、さて、どうやって日向に返事を伝えればいいのだろうと思う。
 どうやら及川の今日は、最初から最後まで途方に暮れるばかりの一日――という日だったらしい。






                                                                  おわり

いつもお世話になっている彩さんへの捧げもの。
至らなくてすみません。