この恋の行方
案外優しい声なんだと、まるで初めて会った相手に思うような感想を持った。 日向の真後ろで、月島が優しい声で谷地に話しかけている。日向には決して向けられない優しい声。 その声をとても好きだと思い知る。……思い知らされる。 あぁ、よりにもよって! なんだって月島なんだろう。 たとえば日向の好きになった相手が、谷地なら。あるいは月島以外の誰かであったのなら、と、絶望にも似た思いが日向のなかで、ムクムクと頭を擡げる。 日向の内心など知らない月島の、穏やかな笑い声。青年に向かう途中の、けれど未だ幼さをわずかに残しながら響くテノール。耳に馴染み良い声。その音、声を聞くだけで、日向の心臓は過剰に反応してしまう。 苦しいくらいに早鐘を打ち、ぎゅうぎゅうと締めつけられるように胸が痛む。 痛い、苦しいと。この痛みも苦しみも月島のせいだと、文句の一つでも言ってやりたくなるのだ。……言えるわけもないのに。 せめて──そうせめて同性でなかったなら。当たり前に異性であったのなら、少しはこの痛みもマシだっただろうか。 悲しいような、切ないような。やるせない気持ちが湧き上がって、痛みや苦しさで胸が締め付けられているような気がして、日向はぎゅっと胸元を抑える。 汗でしっとりとしたシャツの胸元が、皺くちゃになる。 自分の気持ちも同じようにくしゃくしゃになってしまった気がして、悲しい気持ちまで大きくなったとたん、日向はダメだと思った。 これはダメだ。堪えきれない思いが、こぼれてしまう。 顔が歪んでしまう前に、涙がこぼれてしまう前にと、日向は慌てて汗を拭うふりをして、顔にタオルを押し付けた。 その瞬間、涙がじわりと滲む感触とタオルに染み込んでいく感触。 間一髪だ。きっと誰にも気づかれなかっただろう。 ぎゅうぎゅうとタオルを押し付けている日向の背後で、いつの間に加わっていたのか、山口の声が聞こえた。 応じる月島の声は幼馴染に対する気安さもあり、やっぱり柔らかくて、優しい。 羨ましいと思ってしまう。日向には向けられることのない、その声。柔らかさ。優しさ。 日向にもたらされるものといえば、苦しさと切なさだけだ。それらが溢れる勢いで増え続ける。 どうしよう。この休憩が終わるまでに涙は止まるだろうか。止められるだろうか。無理な気がして日向は途方にくれる。 あぁ、本当に、いっそこの気持ちを誰かが消してくれたらいいのに。この心を殺してくれたらいいのに。 自ら玉砕する勇気だけはどうしても持てなくて、他力本願に願ってしまう。 「ほんとに、誰か助けて」 ぽつりと呟いた言葉は、タオルに吸い込まれて誰の耳にも届かない。 目尻に滲む涙も乾かないうちに、無情にも休憩の終了を告げる主将の声が体育館に響いた。 真っ直ぐすぎて、行き先を見失っている背中をそっと見守る。 見つめる瞳に愛しさや慈愛がこもってしまうのは、もうどうしようもない。最初から目を離せない存在だったのだ。 ひとりの後輩に向ける感情。それが過ぎた好意なのか、妥当な好意なのか、菅原自身判断のつかない立ち位置にいることだけは確かだ。 「また見てんすか?」 見た目と違いずいぶん面倒見のいい後輩は、少しばかり呆れた顔で菅原の隣に立ってそう言った。 菅原はちらりと田中を見て、すぐに視線を日向に戻す。 きっと苦しい表情をしているだろう後輩の背中は、いつもの気概を感じさせず、どこか頼りなく菅原の目に映る。 「あれ、絶対に泣いてるなぁ」 「そっすね」 タオルを顔に押し付けている仕草に、菅原は自身の胸まで痛くなるような心地を覚えながら言った。菅原の隣で、心配を隠さない田中も相槌を打つ。 「……けど、日向が自分でケリつけないと」 「田中、それ、俺に手を出すなって牽制か?」 「スガさんの存在って、日向の逃げ道になるじゃないですか。誰のためにもならないっすよ。スガさんの出番は日向の状況に区切りがついてからじゃないんすか。その時にならいくらでも甘やかしていいと思いますけどね」 「……田中ってそんなに漢前なのになんでモテないんだろうなぁ。やっぱり見た目が怖いからか? 愛嬌はたっぷりあるのにな」 「スガさんはそんなに辛辣なのに、なんでそこそこモテるんっすか?」 「そりゃやっぱり、人好きのする笑顔だべ」 言ってニッと笑うと、田中は失礼にも遠い目をしながら「詐欺っすよね」と宣った。 「そろそろ練習再開するぞ!」 「ほら、行くべ」 集合、と澤村の上げた声に菅原は田中の背中を力一杯叩いて、促す。もちろん、田中の失言に対する報復だ。 「いっ……!」 痛ぇ、と背中で小さく零された声には、無論、知らんふりをした。 「日向」 自主練習が終わり、コートの整備もすっかり終えた頃、いつもは日向のことなど構いもしないでさっさと部室へ向かう月島が、珍しく声をかけてきた。 たったそれだけだったのに、日向はひゅっと呼吸を乱してしまう。 用具室に片付けるために持っていたモップを持つ手までが、かすかに震えた。 「なに?」 声が、震えそうになる。それをなんとか抑えるようにして出した声は、少し硬いものとなった。 ゆっくり振り返った先には、いつも以上に表情の固い月島が立っていた。 感情を窺わせない瞳が、じっと日向を見据えている。それはまるで日向の全てを見透かすような眼差しだ。些細な感情も仕草も、なにひとつ見逃さないというような様子でジッと見つめられると、居心地が悪い。なのに鼓動は正直で、ドキドキと早い。 ただ月島から声をかけられたというだけなのに、心が喜んでいる。嬉しさが鼓動の早さと直結する。──自分でもなんて単純なのかと呆れてしまうほど現金だ。 背中を向けていた時はあんなにも胸が痛くて苦しかったのに、目を合わせているそれだけで、嬉しいという気持ちだけが湧き上がってくるのだから。 「もしかして調子、悪いの?」 月島が淡々とした口調で問いかけてきた。 「え?」 「後半くらいから動きが悪かったでしょ。だから調子でも悪いのかと思ったんだけど、違うの?」 「……あ、や……平気」 「そう。でもその割に浮かない顔をしてるように見えるけど、珍しく心配ごと?」 「おれ、浮かない顔してんの?」 「少なくとも僕にはそう見えたけど、──なんでもないならいいよ」 ぶっきらぼうに言い放つと、月島はふいっと日向から視線を逸らした。 日向のことを気にかけていたことなどなかったかのような素っ気なさは、月島らしい態度だった。けれど月島に気にかけられたと単純に喜んだ日向の心は、興味を失った態度に寂しさを感じてしまう。 月島の態度に、言動に、悔しいほど日向の心も気持ちも振り回されてしまってばかりだ。そう思いながら日向がきゅっと唇を噛みしめたときだった。 「なに?」 驚いたという感情を隠さない月島の声が、そう問いかけてきた。 「え?」 「僕に用事でもあるの?」 そう訊かれて日向は首を傾げた。月島の問いかけの意味がわからない。 その不思議そうな思いが表情に表れてでもいたのだろう、月島が呆れたように溜息をついた。そして長い指でそっと指し示される。日向はその場所を目で追って、ポカンとしてしまった。 月島を引き止めるように、日向の指が月島のTシャツの裾を掴んでいたからだ。 「あ、やっ、ちがっ、……ゴメン!」 慌てて謝りながら指を離す。ざぁっと血の気が引く心地がした。月島を引き止めていた指をぎゅっと握り込む。 握 り込んだ手で、ドクドクと焦った早鐘を打つ胸を押さえた。 どんな嫌味を言われるだろう。どう揶揄われるだろう。それをいつものように受け止められるだろうか。返せるだろうか。いやな緊張に日向は萎縮してしまう。 聞こえるわけなどないのに、いやに早い鼓動が月島に聞こえていたらどうしようと、泣きたくなるような気持ちで日向は月島の言葉を待つしかない。 影山や田中達の話し声はきちんと聞こえているのに、まるで世界が切り取られたような心地がする。 「ねぇ、ひな……」 「おーい、月島、日向! さっさと片付けて帰るべ! ……っと、取り込み中だったか?」 「スガさん」 月島の言葉を遮るように声をかけてきた菅原に、日向と月島は視線を向けた。 「すみません、なんでもありません。日向、それ早く片付けてきなよ」 「あ、うん」 月島に促されるまま、日向は用具室へとモップを戻しに行く。途中すれ違った影山に「トロイんだよ!」と悪態をつかれたが、それに言い返すだけの気力はなかった。 「声をかけるタイミング、計ってましたよね?」 日向の背中を見送るように見つめたまま、月島は肩を並べるように立った菅原にそう言った。 ふふっと小さく笑う気配がして、菅原が飄々と答える。 「さぁ、どうだろうなぁ」 少しばかり茶化すように言う菅原は、しかし、日向への好意を隠すつもりがない様子だった。それが月島の琴線に不愉快とも焦りとも言えない感情で触れる。 「余計な手出し、しないでもらえますか?」 「そのつもりだけど、月島が日向を泣かすなら、黙ってるわけにはいかないべ」 「……菅原先輩を日向の逃げ場所にさせるつもりはありませんから」 「牽制? 月島らしくなく、生意気だなぁ」 「宣戦布告ですよ。日向がかかってますから」 「宣戦布告かぁ。本当に月島らしくねぇべ」 はっきりと言い切ると、菅原がちらりと視線をよこす気配がした。けれどそれも一瞬で、視線はすぐに日向が向かった用具室へと戻される。 日向にうるさく絡む影山と、それを諌めている田中。珍しく反論しない日向へと菅原の視線は注がれているようだった。 月島の視線も同じ場所へと向けられている。 「さっきも言ったけど」 切り出した菅原の声音は、真剣味を帯びた声音をしていた。思わず月島は菅原へと視線を向けてしまった。 菅原の真剣な声は苦手だ。苦手といえばまっすぐに見つめてくる瞳も苦手だが、菅原の声の方がより苦手だ。 澤村とは違った強制力がある。 澤村は主将らしくやんわりと動くことを指示してくるが、菅原はどちらかというと逃げ道を塞いで強制的だ。しなきゃわかっているよな、と、笑顔でニコニコと 笑いかけられると否を言えない。ついでに見透かされてしまっているのも、月島としては面白くない。 手のひらの上で転がされている気分というものを、月島は菅原を前にして、はじめて実感した。 「日向を泣かすようなら、容赦はしない」 「……余裕ですか?」 「違う、違う。そんなんじゃないけど、うーん、田中がなぁ」 「田中先輩?」 どう関係してくるというのだ、あの意外に熱血な先輩が、月島と菅原と日向の三人の微妙な関係性の中に。 「あいつもさぁ、日向を可愛がってるだろー? 牽制してくるし、釘刺されるし、……まぁ、いろいろケリがつくまで俺は黙って見ててくださいって言われてるからな。しばらくは傍観者。でもいつでもそれは解禁されるから、ま、心しておいてな、月島」 にっと笑う笑顔は悪戯っぽい。 月島は思わず眉根を寄せた。 つまり、だ。つまりそれは。 「ラスボスは田中さん、ですか?」 「なー? すごく厄介だろ。後輩が可愛くて仕方がないんだよ、あいつ。もちろん、俺もだけどさ。……あ、日向ー、片付け終わったかー?」 「あ、はい! 終わりました! え、スガさんもしかして待っててくれたんですか!?」 「おー。かわいい後輩置いて先に帰れないべ」 「わわっ、待たせてすみません!」 バタバタと慌ただしく走り寄る日向に、菅原が近づいていく。その背中を月島が苦く見送っていると、ふと菅原が肩越しに月島を振り返った。 にししと悪戯な笑顔を向けてくる。 「かわいい後輩を構うのは、先輩の特権だべ? 悔しかったら、ふつうに構えるくらいにはちゃんと歩み寄って打ち解けろよ、同級生」 天邪鬼な月島を揶揄って、菅原はさっさと日向と肩を並べて歩き出す。背中に手を添えて促す仕草は、完璧に月島から引き離すためだ。 月島は珍しく素直に、菅原に対して腹を立てた。 「ムカつく」 ボソリと呟いて一言に返されたのは、 「先輩に対してムカつくとか言うなよ。あと、変に拗らせてんじゃねぇぞ! ほら、さっさと追いかけて、攫って帰るくらいの男をみせろ!」 漢前なのに、なぜかモテない先輩からの檄だった。 |