ある冬の一日の終わりの話 ふわり、と、上質な感触が首筋に触れた。 え、と思う間もなく、背後から抱き締められる。と同時に、最近やっと馴染みだした香りが、克哉を包んだ。 心をざわめかせながら、それでも安らかな気持ちをも抱かせる香りにほっとする。 克哉は抱き締めてくれる腕に身を預けるように、体の力を抜いた。 「こんなに冷えて」 中に入って待っていればよかったのに、と、溜息交じりに零された言葉に、克哉は苦笑にも似ている、ふわりとした微笑を浮かべた。 「御堂さん。おかえりなさい」 頬にかかる吐息にくすぐったさを感じながら、背後から抱き締めてくれる腕に手を添えるように重ね、克哉は言う。 まだ暖房の温もりを残した孝典の手の温度が、克哉にほっと息をつかせた。同時に、冷えすぎた自分の手で触れるのは申し訳ない気がして、不自然に思われないように手を引こうとしたところで、それを押し留めるように手を掴まれる。 「手も、こんなに冷えているじゃないか」 眉を潜めつつ言われているだろう言葉に、克哉は叱られた子供のように首を竦めた。 「まったく……、君はいつになったらそのカードキーを使うつもりだ?」 克哉からゆっくり離れながら、孝典がマスターキーを取り出し、言った。 「すみません」 どうしても気が引けて、と、苦笑を零しながら克哉が言うと、孝典はどんな顔をすればいいのか判らないといった様子で、頬を歪めた。 怒っているようにも、呆れているようにも見える孝典の表情に、克哉は居た堪れない気持ちを味わう。 克哉自身、今までも、そして今日だって、孝典から渡されたカードキーを使おうと思った。だが、孝典の部屋だというだけでやはり緊張して、ポケットに伸ばす指先が震えてしまい、カードキーを上手く掴めない。 きっと他人から見れば馬鹿馬鹿しいと失笑されるんじゃないかというようなことを、克哉は何度もくり返している。 もし、上手くカードキーを掴めて、孝典が言うように部屋に入って待っていたとしても、あの広い部屋の中に濃く残る孝典の存在を示すすべてに、心が耐えられないだろう。 孝典の匂いで満たされた部屋にいて、果たして落ち着いて待つことが可能だろうか。淋しいと思わないだろうか。どれだけ考えても答えは最初から決まっている。――否、だ。 いないと判っている孝典の残り香を意識して、孝典の存在を探して、やはり、変なところで脆弱な心臓は耐えられないだろうと思われる。 「すみません」 ともう一度謝罪の言葉をくり返そうとしたところで、孝典の表情が、仕方がないなというように緩んだ。 優しさと甘さの滲んだ表情だった。 「まぁ、君の性格ならば、無遠慮に部屋には入れないのだろうな。気長に待つことにしよう。――あぁ、でも」 カードキーを差し込もうとした孝典が、ふと思いついたようにその手を止めた。 孝典の口元は少しだけ悪戯っぽく歪められ、目も細められていた。 「克哉」 柔らかな声が、誘うように克哉を呼んだ。 克哉は呼ばれるままに孝典を見つめる。 その克哉の目の前に、孝典がカードキーを掲げた。 「御堂さん?」 孝典がなぜカードキーを見せるのかが判らなくて、克哉は目を瞬かせる。 克哉の子供っぽい仕草に笑いながら、孝典がカードキーを克哉へ向かって差し出した。 「君が開けてくれ」 「え?」 「君のことだ。緊張して鍵を開けられないとでも言うんだろう? だったら、これから先の練習でもするつもりで開けて入ればいい」 それでも緊張をするか? と問われて、克哉は困惑したように差し出されているカードキーを見つめた。 「なにも次からすぐにひとりで部屋に入って待っていろとは言わないが、せめて私と一緒の時は、君が鍵を開けてくれ。一秒でも早く慣れて、この部屋が自然と君の帰る場所になるように。ひとりでも入って寛げる程度には、なって欲しい」 克哉が驚くほど真摯な眼差しで、孝典がそう言った。 孝典と付き合うようになってから、週の半分以上をこの部屋で過ごしている克哉だが、渡されたカードキーを使用したことはまだ一度もない。 何度言われても、遠慮と、何よりも緊張に支配されて、使うことができない。 それは、もしかしたら孝典を不安にさせてしまっていたのだろうか、と、克哉はふとそんな風に思った。 克哉が使わないカードキー。孝典の領域に、プライベートな部分にひとりでは決して踏み込まないと、そう意思表示しているように思わせてしまっただろうか。思われてしまっただろうか。 「……孝典さん」 孝典さん、と、克哉自身恥ずかしくなるくらい甘えた声で、恋人の名を呼ぶ。 玄関先で呼ぶには似つかわしくなく、まるでベッドの中で恋人を呼ぶような声音だった。 それに気づいて、僅かに頬を羞恥に染めながら、克哉は、 「孝典さん」 と、また呼びかけた。 今度はあまり甘ったるい呼びかけにならないように、気をつけながら。 克哉は呼びかけながら、孝典のきれいな指からカードを抜くように取った。 「孝典さんが望んでくれているなら、あなたの部屋をオレが帰る場所にしたい。一秒でも早く。……でもきっとオレは、ひとりで、この部屋で、あなたを待つことを苦痛に感じてしまうかもしれないと、そう思っているんです。あなたがいないことに耐えられない。求めてしまう。探してしまう。情けないくらいに、淋しいと思ってしまう。……きっと」 存在の残り香だけでは耐えられないと、呻くように口に出し、克哉は孝典の手から抜き取ったカードキーに目を落とした。 「一秒だって離れがたいんです。あなたがいないと、耐えられない……」 掠れた声で、搾り出すように、克哉がそう言った。 「克哉……」 孝典は軽く目を瞠り、克哉を見つめる。 俯いてしまっている克哉がどんな表情を浮かべているのか、孝典には判らない。だからどんな言葉を言えばいいのか、判断に迷った。――いや、言葉など浮かばなかった。 純粋過ぎる、下手をすれば重いとしか思えないような言葉を口にした克哉が、ただ、愛しいと思った。 なんて愛しく、甘い存在なのだろう。 ありきたりな言葉で孝典を狂わせる。翻弄する。火をつけられる。 孝典は思いのままに克哉の体を引き寄せ、抱き締めた。 「孝典さんっ!?」 孝典に突然抱き寄せられた克哉は、驚いて声を上げる。 部屋の中に入っているならまだしも、克哉たちはまだ外にいるのだ。孝典と同じフロアの住人にいつ見られるかも判らない外でと、焦りながら克哉が身じろぐと、それを咎めるように抱き締める腕の力が強くなった。 「じっとしていろ」 命令口調で言った孝典の声は、けれど甘く、克哉から動きを奪ってしまう。 「克哉」 まるでベッドの中のように甘く掠れた声音で呼ばれて、それだけで、克哉は体から力が抜けてしまいそうだった。 名前だけで抵抗を封じられる。 なんて狡い人だ。克哉は内心で呟きながら、ぎゅっと、孝典の背中を抱き締め返す。 「離れがたいなんて、そんな可愛いことを言うな。……今すぐ抱きたくなる」 「あ……」 「克哉」 「はい」 「MGNに来る気はないか?」 「え?」 孝典に抱き締められたまま、克哉は目を見開いた。 克哉の欲を誘う言葉と共に告げられた意外な言葉に、反応ができなかった。 克哉の困惑と驚きなどまるで意に介していないように、孝典は言う。 「公私共に、君には私のパートナーとして傍にいて欲しいと思っている」 「オレがMGNに? 御堂さんの部下として、ですか? え、公私共にって……」 混乱しきっている克哉の声に、孝典は僅かに笑みを浮かべながら頷いた。 「ずっと、いつ言おうかと機会を窺っていた。君が離れがたいと言ってくれたように、私も君を離し難い。公私混同などするつもりはなかったが」 そう言って、孝典は苦笑を零した。 どこまで溺れているのかと、自分に呆れながら、しかしこのまま溺れきってしまうのも悪くないと思う。 「……考えておいてくれないか」 そう待てるとは思えないが。そう言い添えて、孝典は目の前の首筋に唇を寄せた。 「……あ……」 甘やかな声が、微かな震えと共に孝典の耳朶に届いた。 布地越しに克哉の体温がその温度を上げたのが、わかった。 「克哉」 甘く、甘く、孝典は克哉を呼んだ。 「はい」 蕩けたような声音が従順に返事を返す。 「克哉、早く君を抱きたい。君も私が欲しいだろう?」 「はい、孝典さん」 「では君の手で、その鍵を開けて、ドアを開いてくれ」 唆すように言って、孝典は克哉を解放するように、抱き締める腕を解いた。 孝典の抱擁から解放された克哉は、遠ざかる熱に寂しさを感じながらも孝典の指から抜き取ったカードキーを差し込んだ。 ピ、と、電子音独特の音が開錠を知らせる。 途方に暮れたような表情で、克哉は孝典を振り返った。 まるで置いてきぼりを食らった子供のような表情の克哉に苦笑しつつ、孝典はその背中に手を添えて、促した。 「さぁ、中に入ろう」 そして今夜も思う存分、君を堪能させてくれ、と、孝典が囁くと、克哉の耳がかっと赤く染まった。 こくりと頷く恋人の欲に濡れた表情を満足げに見つめ、孝典はカードキーを抜き取り、ドアを閉めることももどかしいというような性急さで、ドアを閉めた。 END |