誕生日 しん、と、耳が痛いほどの深夜を少し回った静寂の中で、英士は息を吐き出した。 冷え切った空気の中に吐き出した白い息の行方をなんとなく見つめたあと、夜空を見上げる。 人工の光に邪魔されて、星は見えない。けれども、その人工の光に負けずに輝く星のまたたきはある。 見つけられる。 どうしても無視できない鮮明さで、輝いている。 「寒いな……」 星を見上げたまま、英士がぽつりと呟いたときだった。 「当たり前だよ!」 怒ったような声で返事が返されたのは。 「もう! なにを考えてるの!? 今は冬、それも真冬!! 今夜は寒波だってきてて、寒くて当たり前なんだよ! それなのに上着も着ないでベランダに出てるなんて、風邪を引きたいの、英士くん!?」 「怒鳴らなくても聞こえるよ、風祭。夜中に大きな声を出すと、苦情が来るでしょ。――心配しなくても、もう、部屋に戻るよ」 少し眉を顰めながらそう言った英士は、英士の指摘に慌てている将に苦笑をしつつ、体を反転させた。 ベランダから暖かな室内へと戻ると、ほっと息が零れ、冬の空気の冷たさに強張っていた体から、力が抜けた。 ガラス戸を閉じて施錠をし、カーテンも閉めてしまうと、英士は真っ直ぐにソファに向かって、落ち着いたベージュ色の、実は密かに気に入っている座り心地のいいそれに、腰を落ち着けた。 そこでまたそっと息をついた英士は、ガラスのローテーブルの上に用意されている飲物に気づいて、ことりと首を傾げる。 温かそうな湯気がふわりと立ちのぼり、ゆっくりと揺れていた。 微かなアルコールの香りもする。 「風祭、これ?」 どうしたの、と問いかけるように声をかけると、英士の隣に座ろうとしていた将がその動きを止めて、呆れたように眉根を跳ね上げた。 「忘れているかなって思ってたんだけど、やっぱり忘れてたね、英士くん」 落胆にも似た溜息を零した将は、けれど、すぐに笑顔を浮かべて言った。 「誕生日、おめでとう、英士くん」 「……ありがとう」 不意打ちで贈られた言葉に、英士の反応は、一瞬、遅れた。が、すぐに我を取り戻したように、お礼の言葉を照れくさく思いながらも返す。 「誕生日か。すっかり忘れてたよ」 言いながらデジタル時計の表示に目を向けると、表示されている日にちは、一月二十五日。時間は零時を十分ほど過ぎていた。 「僕の誕生日は覚えているのに、自分の誕生日は毎年忘れるね」 「風祭だって人のこと言えないでしょ。毎年自分の誕生日を忘れているのは、誰だっけ?」 英士は言いながら、将の顔を覗き込んだ。 英士の言葉に軽く唇を尖らせた後、将は軽く肩を竦めて言う。 「だから、僕たちバランスが取れているってことだよね?」 「え?」 突然の言葉に、英士は面食らった。 ふたりのバランスが取れている? その発想は、今の会話のどこから生まれてきたのだろう、と、英士が首を傾げかけたところで、 「自分の誕生日を忘れるから、僕の誕生日を英士くんが覚えていてくれて、英士くんの誕生日を僕が覚えている。そしてお互いにお祝いができるってことだよね」 嬉しい発見をしたように、満面の笑みを浮かべて将がそう言った。 「ああ、――うん、そうだね」 嬉しそうに言う将の笑顔に頷きながら、英士はテーブルの上のグラスに目を向けた。 「それで、風祭、このホットワインは?」 「ケーキの代わり」 「今年はくれないわけ?」 「……甘いもの好きじゃないくせに、ここでケーキを要求するって、意地悪だよね」 「いまさらでしょ。――で、今年はないの、ケーキ」 重ねて問いかけると、降参の溜息が将の唇から零された。 少し呆れているような気がするけれど、そこは無視だ。 「ちゃんと用意するよ。でも、こんな真夜中に本気でケーキなんて、食べないよね?」 太るよ、と、少し困ったように首を傾げて言う恋人に、英士は忍ぶように小さく笑った。 「女の人じゃないんだから、あまり気にしないけど、でも体に良くなさそうなのは確かだね。じゃあ、夜が明けて、このテーブルにケーキが並ぶまで我慢することにしようか」 「うん」 少しだけほっとしたように息をついた将が、自分用にと用意したグラスに手を伸ばす。 それに倣うように英士もグラスに手を伸ばしながら、疑問を口にした。 「ホットワインのレシピなんて、良く知っていたね、風祭。誰かに教えてもらった?」 「うん、ずっと昔に、功兄に。簡単な作り方を、教えてもらってたから。アルコールもとんじゃうから、風邪の引きはじめに良く飲んでたんだよ」 悪戯っぽく笑う恋人に、「そう」と呟いて、英士はグラスに口をつけた。 ほのかな甘みと酸味がバランスよく馴染んでいる。 夜気に冷え切った体に、ホットワインの温かさが染み渡るようだった。 「おいしいな」 ふと零れるように口をついた言葉に、将が破顔した。 本当に嬉しそうに笑って、将は言う。 「そう言ってもらえて、良かった。――あのね、子供っぽいって英士くんは笑うかもしれないけど、今日で二十歳でしょう?」 「うん、そうだね」 「当然、お酒を飲む機会も増えるよね」 「そうだろうね。俺がお酒を嫌いだと思わなかったら」 昔からの腐れ縁とも言える悪友たち。それから、将と知り合う切欠になった東京選抜。そこでチームメイトとなった、好敵手たち。なんだかんだと集まることの多い面々を思い浮かべ、英士は頷く。 彼らとはきっと、近々、集まることになる。そして、当然、酒を飲むことになるはずで。 「法律的に飲酒解禁になった英士くんが、最初に一緒にお酒を飲んだ相手は、僕がいいなって……僕でありたいな、って……そう思ったんだけど……」 恥ずかしがるように、将の声がだんだんと小さくなっていく。 その声を聞き逃さないよう、英士は耳を集中させ、将が言い終えたと思える頃に、英士は言った。 「笑わないよ。むしろ嬉しいね。風祭がそんなふうに独占欲を見せてくれるのは」 「――本当に?」 「本当に」 恐る恐る、そんな風に訊ね返す将に笑いかけ、強く頷いた。 ほっとしたように、将が微笑む。 安心して自分のグラスに口をつける将の横顔を見つめながら、「でも」と、苦笑を滲ませた声で英士は言った。 「どうしてホットワイン? 普通にワインでも良かったんじゃないの?」 ワインにこだわらなくても、ビールでも日本酒でも何でも良かったと思うのだが。 そう思った英士の問いかけに、将がことりと首を傾げる。 それからぺろりと舌を出して、悪戯っぽく肩を竦めた。 「手を抜こうかなぁ、って思ったんだ」 「手を抜くって、なにを?」 「誕生日のプレゼント」 「……風祭?」 思わず英士の声が低くなった。 誕生日というこの瞬間の時間を盛り上げておきながら、それを台無しにするようにどん底に叩き落す発言って、恋人にその仕打ちは酷くないだろうか。 手を抜くって、なんだ? どういうことだろう? こんな発言をされるなんて、夢にも思っていなかった。 想像すらしたことがなかった。 倦怠期――というより、これは長年付き合ってきた故の、慣れによる手抜きなのだろうか。 がっくりと全身の力が抜けそうになったが、そこは気力で踏ん張りつつ、さあ、理由を説明してもらおうか。説明如何によっちゃ、お仕置きも必要かもしれないけどね、と、にっこり笑顔を浮かべて将を見つめる。が、根っからの天然人間の将に、その笑顔が通用するはずはなく。 それどころか意味すら理解されないまま、将は言った。 「お祝い用の夕食と、ケーキと、それからお酒。今日の英士くんをお祝いするメニューも材料も、全部、英士くん本人に選んでもらおうかなって思って。――腕を振るうよ?」 「え?」 「飲むお酒も、英士くんが選んでね」 予想していなかった答えに、英士はとっさに言葉が出なかった。 頷くこともできないまま、ただ、将を凝視する。 英士の視線の先で、将は笑っている。 無邪気とも言えるその笑顔を見つめ返しながら、英士は、自分の先走った考えが恥ずかしくなった。 つくづく、思考の捩れに捩れた自分と、真っ直ぐすぎる将との違いを思い知らされる。 たとえば慣れによる甘えがあったとしても、将は最終的に手を抜かない。 そういう人間だ。 そんな簡単なことをすっかり失念していた自分こそ、慣れに甘えていたような気がして、情けない。 「風祭、ありがとう」 それから、ごめん、と、これは心の中で謝って、英士は自分のグラスと将の持っているグラスをテーブルに置くと、将を抱きしめた。 「どういたしまして」 答える将の声は、甘く、柔らかく、英士の耳朶に心に沁みこんで。 抱きしめ返してくれる腕に甘えるように、英士は、将を抱きしめる力を少しだけ強くした。 END |