〜いつか世界が滅ぶとき


 白い月を、見上げていた。
 ぼんやりと窓枠に頬杖をついて、濃紫紺の空に浮かぶ、少し痩せ細りながらも冴えた光を放つ、二十三日目の夜の月を。
 夜気独特の冷たさを含んだ風が頬を撫でてゆく、その心地好さにエドワードはそっと目を細めた。
「兄さん、風邪を引いちゃうよ」
 呆れているのと、心配を滲ませたアルフォンスの声が聞こえて、エドワードはゆっくりと振り返った。
 戸口に立つ鎧姿の弟は、薄着のままでいるエドワードに対して、深い溜息を零す仕草をして見せている。
 ああ、もう、まったく心配性だな。アルは。そんなことを思いながら、エドワードは
「お帰り、アル。遅かったな?」
「ごめんね、ちょっと混んでいたから……退屈だっただろ、兄さん」
「おう! もー、待ちくたびれた」
 夕食を買いに出かけてくるよ、と言ってアルフォンスが宿を出てから、すでに三十分以上が過ぎていて、図書館から借りてきた本を、全部読み終えてしまっていたエドワードは、言葉通り、退屈で退屈で仕方がなかった。
 なにせ、することがなかったのだ。
 文献や本を読みながら、気になった資料はぜんぶ纏めてしまっていたから、本当に時間を持て余していた。
 話し相手の弟は傍に居ないし、夜の街を散歩するわけにもいかない。
 早くから飲んでいる、性質の悪い酔っ払いがいないとは限らない。
 あしらうことは簡単にできるけれど、精神的にも肉体的にも疲れているときの面倒ごとは、できれば避けたい。
 第一、散歩に出たなどと知られたら、無防備だの、判っていないんだから、などとわけの判らないことを言って、アルフォンスが煩い。そのときの面倒なやり取りも嫌だとエドワードは思った。
 そうなると、部屋に居るしかなくて。
 自然と空を見上げていた。
「うまそうな匂いだなー」
 くんくん、と犬のような仕草で匂いを嗅ぐと、とたんに弟の呆れた声が飛んでくる。
「お行儀が悪いよ!」
「細かいことを言うな、弟よ」
 言いながらテーブルへと移動すると、「もう!」とすっかり呆れきった弟の声。
 お小言を言いながらも、買ってきた夕食を並べ始める。
「手、洗ってきて、兄さん」
「ん」
 アルフォンスに言われるまま、エドワードは手を洗いに、再び席を立った。
 小さな洗面台の蛇口を捻ると、すっかり冷たくなった水が勢い良く流れ出す。
 左手に感じる水の冷たさに小さく首を竦めて、エドワードは水を止めた。
「はい、兄さん」
 すかさず差し出されたタオルを受け取り、手を拭いて、テーブルに戻る。
 まるで小さな子供の頃に戻ったようだと、こっそり苦笑って、エドワードはアルフォンスが買ってきてくれた食事に手を伸ばした。

 テーブルに並べられた食事を平らげ、エドワードは満足してフォークを置いた。
 弟の手によって、食事の残骸が手際よく片付けられてゆく。
「アル」
「んー、なに、兄さん?」
「お前が女の人だったら、良い奥さんになっているんだろうなー」
「それを言ったら、兄さんもね」
「オレは無理」
 アルフォンスの言葉に首を振ると、苦笑混じりに「そんなことないよ」と、即座に返された。
「兄さんは『できない』んじゃなくて、『やらない』だけじゃないか。兄さんだって、一通りのことは師匠に叩き込まれているんだから、できないわけじゃないだろ」
 アルフォンスに言われて、エドワードは修行時代を思い出す。
 師匠に教えて貰った、たくさんのこと。錬金術、体術。それ以外にも叩き込まれたのは、炊事洗濯、エトセトラ、エトセトラ。
 蘇るのは叩き込まれたすべての技術と、……失神してしまいそうになるほどの恐怖。
 ふと、にやりと笑った師匠の顔を思い出した。
 とたんに背筋を這い上がる悪寒。
 がたがたと体を震わせながら、エドワードは言った。
「アル、やめよう」
 なんだか、今夜はあの怒濤の毎日を夢に見て、魘されそうだと思いながらの提案に、エドワード同様に恐怖を思い出したらしいアルフォンスが、やっぱりがたがたと震えながら、こくこくと頷いた。
 お互い落ち着くのを待って、けれど、適当な話題も思いつかないままに黙り込む。
 開かれたままの窓の外の、喧騒。
 陽気な笑い声。さざめき。
 あたりまえの日常。
「ねぇ、兄さん」
 いつのまにかエドワードと同じように外を眺めていたアルフォンスに、呼ばれる。
 視線を向ければ、空を見上げたまま言われた。
「今夜は二十三日目の月の夜だよ」
「……うん、そうだな」
 相槌を打ち、視線を上げて空を見上げる。
 清い白光。
 思い出す。
 柔らかな声。どこまでも、甘くて、優しくて。無条件に与えられた愛情。
 少し翳った表情を隠しきれないまま語られた、言葉。

「二十三日目の月は、願いを叶えてくれるのよ」

 嘘か真実かは、誰にもわからない。
 そのときそう言った、今は彼岸にいるあの優しく温かな人が、そのときなにを……心からなにを願っていたのか、そんなことは考えるまでもなく知っているけれど。
「もし、本当に願いが叶うなら」
 静かな言葉に、エドワードは過去の時間に飛ばした心を戻す。
 温かな肉体を失った、鋼鉄の弟。
 安宿の灯りを受けて、鈍く輝く鋼の全身。
 互いの罪の証。
 その、現実。
「兄さんだったら、なにを願う?」
 願うことが許されて、本当に願いが叶うなら。
 問われたエドワードは、眉根を寄せ、難しい顔で考え込んだ。
 他力本願は、好きじゃなくて。仮定でもそういうことを考えるのは苦手だけれど。
 そう返すのも憚られるほど、いつになく真剣な弟の声音に、そんな夢みたいなことをと、切って捨てるわけにもいかないな、と、考え込んだエドワードだったが、願うことなんて思いつきもしなかった。
「うーん」
 あー、とか、えーっと、とか。そんな唸り声を続けること数分、結局、エドワードは答えることを放棄した。
「わっかんねぇよ」
 願いなんていつだってたったひとつしかなくて。だけど、それは自分たちふたりで見つけて、叶えるものだから。
 簡単な方法で叶えてしまっていいものではない。
 その方法があったとしても……。
 だから、それ以外で、となると、思いつかない。
 どれだけ頭を使って悩ませてみても、考え込んでみても、あやふやな輪郭さえ浮かびもしない。
 幸せになりたいとか、身長が高くなればいいとか(これは魅力的な願いごとだ)、そういう願い事を口にするのは、なんとなく、違うような気がしたのだ。
 ……そういった、ありふれた願いごとでいいのかもしれないけれど、なんとなく、そんな願いごとを言ってみても、自分が納得できないような気がした。
「アルは、……アルだったらなにを願うんだ?」
「ボク? ボクはねー」
 かちゃり、首を傾げて、「そうだねぇ」と呟いた弟は、真っ直ぐにエドワードを見つめた。
「願うことは、いつだって、たったひとつだけなんだけど」
「うん?」
「……ちょっと、言えないかなぁ」
「は?」
 待て。なんだ、それは? 言えない? 弟の言葉にしばし呼吸を止めて、エドワードはあんぐりと口を開いた。
 人に聞いておいて、なんだ、それは?
「……ええっと、アルフォンスくん?」
「ダメ。言わない」
「人には聞いておいて」
「兄さんは答えてないじゃないか。ボクが言わなくてもフェアだろ」
「お兄ちゃんに言いなさい」
 この場合兄という立場は関係ないけれど、そこは、屁理屈でねじ伏せれればいいだけだ、と、かなり横暴なことを思う。
 理不尽だとアルフォンスは言うだろうが、エドワードは『兄』という権力を持っているのだ。……役に立ったことなど、今まででも数えるほどしかないけれど。
「言わないってば!」
 しつこいよ、兄さん。
 窘められて、エドワードはむっと顔を歪める。
「い・い・な・さ・い」
 一言、一言区切って言うけれども、アルフォンスは知らん顔だ。
 むかつく。
 たまには素直にお兄ちゃんの言うことくらい聞けよ!
 そう言おうとしたエドワードの先手を打つように、アルフォンスが言った。
「他人に話したら、願い事って叶わなくなるんだって」
 昔、母さんがそう言ったんだよ。
「オレ、そんなの知らねぇぞ」
「だって、兄さん、話の途中で寝ちゃったからね」
 知らなくても当然だよ。苦笑を滲ませた声に、
「……ふぅん」
 小さく頷いて、エドワードは黙り込む。
 そう言われてしまったら、もう、追求することはできない。
 消化不良の気持ちを押し込めて、エドワードは視線を落とした。
 外の喧騒が、いつの間にか増していた。
 陽気な日常。
 いまだ、遠い、日常。
 アルフォンスの『たったひとつの願いごと』は、なんだろう?
 そう思って、自嘲した。決まっているじゃないかと思う。
 体を取り戻すこと。
 当然だ。当然の願いだ。
 体を取り戻して、空気を、風を、太陽の光を。水の、雨の、雪の冷たさを。季節の移り変わりを肌で感じて。
 世界を、全身で感じて。
 アルフォンスは、アルフォンスの世界を生きていく。
 それ以外に、なにを願えるというのだろう。いまの、この状況で。
「兄さん」
「んー、なんだ、アル?」
「兄さん、顔を上げて。ボクを見て」
 優しく。強制力を持った声に言われるまま、エドワードは顔を上げた。
 表情のない弟の顔。
 冷たい鋼。
 けれど、エドワードの見返す空気は温かくて。
 体温を持った人間の空気のそれよりも、温かくて、ふと泣きたくなる。
 どうして、そんな。
 罪を背負わせたオレに、どうして、そんなに……優しい。
 優しいフリを、する。
「そんな顔、しないでよ」
 伸ばされた指が、そっとエドワードの頬を撫でる。
 乾いた皮の感触。
 弟の、指。
 愛しい、感触。
 そっと瞳を閉じて、エドワードは言う。
「そんな顔って、オレがどんな顔してるって?」
「いまにも泣きそうな……捨てられたような、迷子みたいな顔をしているよ、兄さん」
「ばっかやろ、そんなの」
 決まっているじゃないか。
 優しくて。
 残酷で。
 エドワードに向けられるアルフォンスの感情が、温かすぎて。冷たくて。
 戸惑うことしかできないんだ。
 まだ、無条件に受け入れられないんだ。
 嬉しいのに、素直に受け止められないんだ。悲しいのに、それを口にすることができないんだ。
 アルフォンスが優しく、残酷に、全部を受け止めてくれるから。
 ああ、でも、そんなことを言えるわけがない。
 言えば、きっと、優しく抱きしめられてしまう。なにもかもがどうでもよくなってしまうほど、強く、抱きしめられて。
 優しいことが、当たり前だと思ってしまう。
 潜む残酷を、忘れてしまう。
 エドワードを絡め取って、縛り付けて放さない残酷。その毒を……喜んで受け入れる姿を、いつか晒してしまうだろう。
 晒した醜悪な姿に、そしてお前も囚われて……世界は完結してしまう。
 残るのは、強い、依存。
 その手を、放せなくなる。
 アルフォンスの願いを。
 世界が作った輪の中に戻り、やがて築かれるはずのアルフォンスの世界を、閉ざしてしまうことになる。
「…………見間違いだ」
「そう? 兄さんが言うなら、うん、そういうことにしておくけど」
 仕方ないから。そんな雰囲気を匂わせた弟の言葉に、エドワードは僅かに顔を顰めて、唇を尖らせた。
 完全に拗ねたエドワードの表情に、けれどアルフォンスは慣れていることだと気にすることなく、言葉を続ける。
「ねぇ、兄さん」
「なんだよ?」
「いつか、教えるよ」
「?」
「いつか、ボクの願いが叶ったら、そのときは話すよ」
 ああ、でも、そのときは。
 そのときは、きっと……。
 アルフォンスが心の中で呟いた言葉に気づくこともできないまま、エドワードは頷いた。
 笑って、言う。
「おう、いつか、ちゃんと教えろよ!」
 約束、な。
 強引にアルフォンスの指と、自分の指を絡ませて、指切りをして。
 指切りをしながら、エドワードは思った。
 それは、願った、と言ってしまってもいいのかもしれないこと、だったけれど。

 いつか、世界が滅ぶときまで。

                                      END