優しい腕〜約束〜


 しとしとと降る雨音を窓越しに聴きながら、エドワード・エルリックは唇を尖らせた。
「つまんねぇ。退屈」
 集中力がなかったせいで、読むこともなく、ただ開いていただけの錬金術書をぱたんと閉じて、ソファから立ち上がる。
 ぐるりと部屋を一眺めして、エドワードは廊下へと続くドアに視線を定めた後、ことりと首を傾げつつ、
「アールー?」
 弟を呼んだ。
 しん、と静まり返ったドアの向こう側。
 誰の気配も、何の物音もしない。
「あれ?」とさらに首を傾げて、エドワードは声を張り上げた。
「アルー? アールーフォーンースー?」
 妙に間延びした呼び方をしても、誰も応えない。と言うことは、エドワードが気づかないうちに、出かけてしまったらしい。
 夜も近い時間に、わざわざ出かけることはほとんどないから、きっと、買い物にでも出て、帰りが遅くなっているのだろう。
 そう判断したエドワードは、にぃ、とアルが言うところの、「またいやらしいこと考えて」の表情で笑った。
 そろり、そろり。
 もしもの用心のために足音を殺して、部屋を横切る。
 そっとドアノブに手を伸ばしつつ、用心深くドア向こうの気配を探り、もう一度笑った。
 やはり、出かけてしまっているようだ。
 握っていたノブを回して、廊下に向かって大きく開く。
 ひんやりとした空気が、頬を撫でて気持ちが良かった。
 開いたドアから廊下に顔だけ出して、左右を確認。
「よし!」
 気合を込めた声を出して、エドワードは廊下へと一歩を踏み出した。


 静まり返った夜の世界は、とてもわくわくする。
 内緒だと、なおさら。
 ときおり傘の上で音を立てる雨雫に、意味もなく笑みが零れた。
 雨に冷やされた空気が、エドワードの体中に纏わりつく。
「ちょっと……寒い、か」
 愛用していたコートを着てこなかったのは、失敗だったかもしれない。そう思いながら、けれど、エドワードは外に佇んだまま動かなかった。
 ほんの少しの間なら、コートなどなくても大丈夫だろう。そう思ったのと、今さら部屋まで取りに戻るのが面倒だったせいだ。
 きっと、あとでアルフォンスに怒られるだろうと思ったのも、一瞬だった。
 深く深呼吸すると、雨の匂いが体に入ってくる。
 久しぶりの外の空気は、エドワードの気分を浮上させてくれた。
 こんな風に雨の日の空気に触れるのは、久しぶりだった。
 何ヶ月ぶりくらいだろう、と、エドワードは最後に雨に触れた日を思い出そうとする。
 曖昧な記憶を掘り起こし、確か……半年以上は経っている気がする、と溜息を零したい気分で思う。
 半年以上……。
 もう、そんなにも過ぎた、と思うと同時に、まだそれだけしか過ぎていないのか、とも思う。
 短い時間が過ぎたのか、長い時間が過ぎたのか、エドワード自身には判断がつかない。
 確かなのは、アルフォンスと自身の体を取り戻して、それだけの時間が経った、ということだけだ。
 そっと瞼を落として、聴覚に神経を集中させた。
 周囲に溶け込むように、緩やかな呼吸を繰りかえし、自然に気配を同調させる。
 子守唄のような雨音は、心に染み渡る。
 しばらく雨音に耳を傾けていると、不意打ちで切なさが押し寄せてきた。
 優しい声に似ている。
 亡き母親の、優しい声。
 取り戻せると信じた人の、一番、優しい声に。
 少し顔を歪めて、エドワードは視線を上げた。
 不安定に精神が揺れる。
 唐突に、過去に引き戻されてしまいそうになる。雁字搦めに捕まってしまいそうに……。
「兄さん?」
 訝しげに呼ばれて、エドワードはハッと振り返った。
 エドワードよりも頭ひとつ分背の高い弟が、傘の下で困った顔をして立っていた。
 エドワードを現実に引き止め、繋ぎとめてくれる、唯一の存在。
「アル……」
 アルフォンスの表情につられて、エドワードも困った顔になってしまう。
「こんな天気の悪い夜に外に出たら、体に障るよ?」
 心配そうに諭されて、エドワードは「うん」と頷き、アルフォンスに知られないよう、そっと溜息を零した。
「大丈夫」と胸を張って言えないことが、悔しい。
 なにもかもが、前とは違う。
 違うのだと、こんなことで思い知る。
 アルフォンスとエドワードの肉体を、本来あるべき姿へと戻す錬成の成功後、その代償に、エドワードの体は病弱になった。
 師匠のように内臓を持って行かれたわけじゃなく、些細なことで熱を出したり、風邪を引きやすくなったりと、とかく寝込むことが多いだけだが、案外、その方が始末に悪いのだと初めて知った。
 自己管理や自己防衛、寝込まないようにするための用心が、なかなかできない。季節の変わり目や、ちょっとした気温の変化は、容赦なくエドワードから体力を奪う。
 情けないことに、月の半分は寝台の上で過ごす羽目になる日が多い。
 だから、今のエドワードからは、体を鍛えていた頃の面影はほとんど失われてしまった。そのうちすべて失ってしまうだろう。
 残るのは、病的な肌の白さと、ひ弱な肉体だ。
 結果はこうなってしまったけれど、エドワードは、自身に齎された代価に後悔はしていなかった。している後悔と言えば、エドワードだけに代価を支払わせてしまったと、アルフォンスがそれを気に病むことだけだ。
 どうして、負担ばかりをかけてしまうのだろう。
 どうして、中途半端に残ってしまっているんだろう。
 持って行くなら。奪うなら、すべてを奪って欲しかったと思う。命ごと、全部。
 そうすれば、アルフォンスが自分自身を責める姿を、悲しい顔をしているのを見なくてすんだのに。
 エドワードのエゴを、アルフォンスは許さないだろうけれど、そう思ってしまう。
 ただ、笑っていて欲しかっただけなのに。
 笑って、傍にいてくれたらそれでいいと、そう思っていただけだったのに。
 負担など、これ以上、かけたくなかったのに。
 軽く唇を噛んで、エドワードはくるりと踵を返した。
 濡れた傘を畳んで、傘立てに放り込む。
「兄さん、丁寧に扱わないとダメだよ」
 窘める弟の声を無視して、エドワードは家の中に入った。
 ぱたん、とドアが閉められて、雨音が遮断される。
 不機嫌な足取りのエドワードの後を、穏やかな足音が追いかけるように続く。
 居間へ入るなり、エドワードは灯りも点けないままソファに座り込んだ。
 拗ねた幼い子供のように靴を脱ぎ捨て、ソファで膝を抱える。
 エドワードがそんな仕草をしているのを、良く判っているのだろう。アルフォンスが、暗がりの中、仕方なさそうに苦笑を零したのが判って、エドワードは舌打ちをしたくなった。
 空気が動く気配と同時に、明かりが灯って部屋が光に包まれる。
 テーブルに買ってきた荷物を置いたアルフォンスが、エドワードの隣に座った。
 そっと伸ばされた腕に、抱き寄せられる。
「すっかり体が冷えちゃってるよ、兄さん」
「うん、……悪い」
「シャワーを浴びて、温まって、早く休んだほうがいい。でないと、また熱がでちゃうよ?」
 心配そうなアルフォンスの声に頷きながらも、エドワードはソファから動く気がなかった。
 アルフォンスの腕の中は、とても居心地が良くて、安心する。
 唯一、変わらないもの。
 安心して、すべてを預けきってしまえる場所。
……アルフォンスにとっては、負担以外の何ものでもないだろけれど。
「兄さん、余計なこと考えているでしょ?」
 エドワードの思考を見透かした言葉に、エドワードは顔を上げた。
 ずっと、気がつけばアルフォンスの顔を見上げてばかりだった。
 それを思い出して顔を顰める。
 エドワードの仕草に、なにを考えているのか悟ったらしいアルフォンスが、苦笑を浮かべた。
 そっと、優しい口づけが額に落とされる。
「ボクより背の高い兄さんなんて、想像がつかない」
「アル、お前な……」
 がっくりと項垂れると、アルフォンスがくすくすと笑いを零した。
「弟より背の低い兄貴なんて、格好がつかないだろ」
「暴走して、弟に窘められることのほうが格好つかないことに、いい加減、気づきなよ」
 呆れ口調の厭味に、エドワードは「うう」と唸って黙り込んだ。
 返す言葉もない。
「ちぇ」
 舌打ちして、唇を尖らせ、エドワードは面白くなさそうにそっぽを向いた。
 アルフォンスの柔らかく笑う気配と、髪を撫でる優しい手。耳に届く規則正しい鼓動。
 それらを甘受しているうちに、うとうとと、眠りに誘われた。
「眠いの、兄さん?」
 耳に流れ込む声までもが、エドワードを眠りに引き込む役目を果たす。
「少し、寝る?」
「ん、……んーん、風呂入って、飯……食べる」
「でも、瞼が落ちちゃってるよ?」
 寝ちゃいなよ。そう言ったアルフォンスの声が、遠い。
 遠いそれに、それでもエドワードは緩く首を振った。
 もう少し。
 あと、少しだけ。アルフォンスの腕の中にいたい。
 言葉にしたわけではないのに、正確にエドワードの心を読み取ったアルフォンスが苦笑を零した。
「もう、仕方ないなぁ、兄さんは。甘えたさんなんだから。いいよ。兄さんが起きるまで、こうしていてあげるからさ、ちょっと寝ちゃいなよ。その方が体も楽だよ」
 そんな声と共に、ぎゅっとエドワードを抱きしめる腕に力が込められる。
 いっそう近くなる鼓動。
 ああ、安心する。
 そう思うと同時に、一気に眠気が襲ってきた。
 今日は、少し無理をしてしまったのかもしれない。
 急激に眠りへと落ち込む意識の中で、エドワードはそう思った。
 久しぶりに体調が良かったから、と、薄着のままでずっと本を読んで、挙句にそのままの格好で雨の降る夜の中へと出てしまった。
 このまま体調を崩してしまったら、また、アルフォンスに心配をかけてしまう。
 それは嫌だ。とても辛い。
 心配そうな顔なんて、見たくない。笑っている顔が見たい。
 その願いは、昔から変わらない。
 落ちてゆく意識を必死に繋ぎとめるかのように、エドワードは口を開いた。
「アル……」
「なに、兄さん?」
「明日、晴れると思うか?」
「明日は、きっと晴れるよ。どうしたの?」
 優しく訊ねる声は、眠気に邪魔されて、遠いままだ。それでも、エドワードは問いかける声に答えた。
 ふと思いついたことを、どうしても言いたかった。
「明日、晴れたら……久しぶりに一緒に出かけような」
 最近、ふたりで出かけたことなどなかったから。
 ダメだと言われるだろうかと思いながら言ったそれは、意外にも、あっさり受け入れられた。条件付き、ではあったけれども。
「そうだね。でも、兄さんの体調が良かったら、だからね」
「うん……」
「兄さん?」
「晴れた空の下で、オレ、アルの笑っている顔が見たい……」
 そう言ったエドワードの声が、アルフォンスに届いたのかどうかは、判らなかった。
 眠りに抗えず、エドワードの意識は深い眠りに引き込まれてしまったからだ。
 でも、幽かに。
 夢か現実かは判らなかったけれど、祈るような声で、アルフォンスが
「ボクも兄さんの笑っている顔が見たいよ」
 そう答えたような気がした。



                           END

小鳩様へ
いろいろなお礼に、リクの内容のうちのひとつに応えてみたのですが、玉砕しました。
恩を仇で返すって、こういうことを言うんだという例題です。<威張るところじゃない。
リベンジも考え中。