優しい腕〜祈り〜


「兄さんっ!」
 咄嗟に抱きとめた体の熱さに気づいて、アルフォンスは盛大に顔を顰めた。
「もう、体が弱くなった自覚がないんだから!」
 意識を失った兄には聞こえないと解っていても、言わずにはいられない。
 隠しきれない心配を溜息に変えて、アルフォンスは細くなったエドワードの体を苦もなく抱き上げた。
 苦しそうに寄せられた眉根に安心を与えたくて、唇を落とす。
 せわしなく吐き出される熱い吐息に、また高熱が出ているのだと、溜息が深くなった。
 アルフォンスの胸のうちに、後悔が湧き上がる。
 いや、違う。そうじゃない。後悔は、いつだって胸のうちにある。普段は思い出さないようにしているだけだ。
 熱で倒れたり、風邪を引きやすくなったりと、とにかく病気がちになったエドワードを見るにつけ、心の奥底に押し込めている後悔を、アルフォンスは思い出す。
 兄一人に代価を支払わせることになると判っていたら、元の体に戻らなかったのに。
 アルフォンスのそういった思いをエドワードが知れば、烈火のごとく怒り狂うだろうが、思わずにはいられないのだ。
 誰よりも、なによりも。本当に、大事な人。
 エドワードが自らのことを省みずにアルフォンスを優先するように、アルフォンスもエドワードを優先してしまう。
 命を賭けてしまえるくらいには、大事なのだ。エドワードのように、露骨に表現しないだけで。露骨でない分、もしかしたらエドワードに向けるアルフォンスの思いは、根深いかもしれない。
(ごめんね、兄さん)
 そっと胸のうちで謝罪する。
 もう幾度となく繰りかえしていること。
(兄さんを独占できて、悦んでいる自分がいるんだ)
 力を失った体をベッドに横たえ、苦しそうに眉根を寄せている顔を覗き見る。
 うっすらと汗の滲んだ額に張り付く前髪を、アルフォンスはそっと、まるで壊れ物を扱う慎重さで払いのけた。
 後悔と一緒に存在する気持ち。
 エドワードだけを犠牲にして、元に戻ったという思い。
 それを理由に、傍に居続けられるという思い。
 心の奥底。誰にも見せない、触れさせないところに隠した、一番綺麗で、一番醜悪なもの。誰の中にも生まれる気持ち。思い。

 これでエドワードを独占できる。

 混在する、悦びと後ろめたさ。
 アルフォンスが抱いた気持ちを知れば、きっと、エドワードは言うだろう。
 ずっと口にしてきた言葉を繰りかえし。
「アルだからいいんだ」
 アルフォンスに向ける中でも、一番綺麗で、優しくて、切ない笑顔で笑って言う。
 笑って、受け入れて、簡単に許してしまう。
 それがアルフォンスの不安を煽るとも知らずに……。
「兄弟じゃなければ良かった」
 何度そう思っただろう。
 エドワードかアルフォンスのどちらかが、ウィンリィと入れ替わった立場で、幼馴染だったら。そうすれば……。そうだったらこの苦しさも半分だったかもしれない。
 エドワードがくれる気持ちは、恋情と愛情。肉親に向ける愛情。
 秤にかけることが間違っていると判っているけれど。
 恋情より、愛情より、家族に向ける気持ちが一番大きいのではないのかと。そんな馬鹿げたことで不安になってしまう。
 どんな形であれ、アルフォンスにだけ向けられる感情なのに。
「アル?」
 熱に掠れた声が、不安そうにアルフォンスを呼んだ。
 潤んだ琥珀の瞳が、やはり不安そうにアルフォンスを見つめている。
「大丈夫? 兄さん」
 お決まりの科白を口にして、アルフォンスは少しだけ顔を顰めて見せた。
 エドワードの視線がアルフォンスから外されて、空を泳ぐ。
 続く言葉が解っているからだ。
 なにを言われるのか解っているのなら、毎回、同じことを繰り返さないで欲しいと、アルフォンスは思う。
 エドワードが倒れるたび。その細く、軽くなった体を抱き上げるたびに、胸の潰れるような思いをしていて、もし時間が戻せるのなら、エドワードを犠牲に元の体に戻ったりはしないと、そんな風に思っているアルフォンスの気持ちにもなって欲しい。
 一方的な言い分だと、解っている。
 アルフォンスを心配させるつもりで、エドワードが倒れたりしているわけではないと、解りすぎるほど解っているけれど、思わずにはいられない。
「体調が悪いときぐらい、ベッドで大人しくしてなよ」
「別に、そんな悪いってほどじゃなくて、ちょっと体がだるいかなって程度だったんだよ」
 だから起きていても大丈夫かと思ったんだ、と、申し訳なさそうに言い募られて、アルフォンスは深く息をついてしまった。
 思いのほか大きくなってしまった溜息に、エドワードが首を竦めて、ベッドの中からアルフォンスを上目遣いに見つめてくる。
 反則だ。
 アルフォンスは心の中で舌打ちした。
 気落ちしたように眉尻を下げて、少し困ったような顔で上目遣いに見つめられると、弱い。
 それだけのことで、アルフォンスは言葉を封じられて、怒る気力を奪われる。
 エドワードを本気で責めて、困らせたいわけではないのだ。
「兄さんの我儘には、慣れたくなかったけど、慣れちゃったよ……」
 甘やかすのは良くないと判っているけれど、アルフォンスの口から、自然と諦めの言葉が零れ出た。
 アルフォンスがそう言ったとたん、ぱあっ、と、本当に嬉しそうにエドワードの顔が綻んだ。
「いつも、ごめんな、アル」
 これ以上怒られないと判っているから、謝る声も弾んでいる。
 ああ、またちゃんと注意ができなかった。自己嫌悪に、アルフォンスはがっくりと肩を落とした。
 何日か後には、また、同じようなやり取りを繰り返している自分たちの姿が、容易に想像できてしまう。悲しいというか、情けないというか……意外に、自分はエドワードの手綱を取れていないのだということを、アルフォンスは思い知る。
 一番肝心なところで甘やかしてしまうのは、根本的なところでエドワードに勝てないからだ。
 エドワードが嬉しそうな顔をしてくれること。笑ってくれる。それが嬉しくて、駄目だと判っているのについエドワードの意志を優先してしまう。
 つまりアルフォンス自身が、心配の種を作る理由の片棒を担いでいるわけである。
 堂々巡りだなぁ、と、他人事のように思いながら、きっと無駄だと判っている言葉を口に乗せた。
「……今日、明日と、大人しくしててよ、兄さん」
「明日は起きられる!」
「駄目。絶対に、駄目」
「アル!」
「今日と明日。今からだと、たった一日半だよ。大人しくできるよね?」
「無理。絶対に無理だ。オレが退屈なのは嫌いなこと、判っているだろ、アル」
 猛然と訴えかけてくるエドワードの言葉に、「知っているけど」とアルフォンスは内心で呟いた。
 集中力が半端でない反動か、もともとの性格か、エドワードはじっとしていることが大の苦手だ。
 本を読み終え、集中力が途切れると、「暇だ、退屈だ」と騒ぎ出す。
 旅をしているときなど、汽車の中でそれを言い出すものだから、宥めるのに苦労した。
「兄さんがじっとしていられない性格なのは、十分に判ってる。でも、兄さんの体を思ってのことなんだから、聞き分けてよ。ね?」
 小さな子供に言い聞かせるように言って、アルフォンスはエドワードに覆いかぶさるように上体を屈めた。
 額と膨れっ面の頬に、唇を落とす。
 昔、母がそうしてくれたように。
 ふ、とエドワードの瞳が懐かしむように細められた。
「アル」
 名前を呼ばれるのと同時に、引き寄せられる体。
 ぎゅっと抱きつかれて、思わず苦笑が零れた。
 素直に寂しさを見せ、甘えてくれているエドワードに、交換条件を提示するのは卑怯だろうけれど。
「約束してくれる、兄さん?」
「…………ん、判った」
 不承不承頷いたエドワードから少しだけ体を離し、アルフォンスは閉じられた瞼に口づける。
 それから、誘うように薄く開かれた唇に重ねる、自身の唇。
 深く、丁寧な口づけを解いて、アルフォンスはもう一度エドワードの額に口づけた。
「ここにいるから、ゆっくり体を休めて。調子が良くなったら、この前みたいに天気の良い日に遠出をしようよ」
 キスと引き換えに安静を約束させてしまった後ろめたさから、アルフォンスはそう提案する。
 エドワードはきょとんとした後、嬉しさを隠すことなく笑って頷いた。
 笑っていて。
 いつまでも、その笑顔を曇らすことなく、笑っていてほしい。
 願うように、祈る。
 今度こそ。
 突然奪われた母のように、奪われないように、と。
 誰より愛しく想う人の優しい笑顔が、ずっと、傍らにありますように、と。


                            END

小鳩様へ
リベンジを誓って、玉砕。
優しい腕〜祈り〜 アルフォンス視点です。
人様のリクエストに応えるということは、とても難しいです。
勉強不足。精進、精進。