天使の子守唄 後悔は、しない。 捜して、捜して、焦がれて捜し続けて。三年年ぶりに触れた肌は、とても温かだ。 逸る気持ちを押さえ込んで、アルフォンスは躊躇いを残したエドワードの顔を覗き込む。 「兄さん?」 確かめるように呼ぶと、わずかに目元を染めたエドワードが、俯くように視線を落とした。 「兄さんに触れたい。夢じゃないって、確かめさせて」 耳元に唇を寄せ、囁く。 形の良い耳に口づけると、ぴくん、とエドワードの肩が跳ね上がった。 「あ……」 薄く開かれた唇から零れた吐息は甘い。 久しぶりのその声に、アルフォンスの欲は加速した。 「兄さんを抱きたい」 取り繕う必要もないからと、ストレートに告げた言葉に、エドワードの眉根が不機嫌に歪められた。 不機嫌そうな表情に、アルフォンスは唇を尖らせる。 「兄さんはボクに触れたくない?」 「そうじゃない」 「じゃあ、なにが不満でそんな顔をするのさ」 「――不満って言うか……明け透けな言い方をするなよ」 ぶっきらぼうに言い放ち、エドワードは顔を深く俯けた。 僅かに見える肌の色が薄く色づいていて、アルフォンスは苦笑を零した。 照れを隠すためにぶっきらぼうな言い方をすることや、わざと不機嫌な顔をする人だったと、思い出す。 天邪鬼な性格は健在らしい。 「明け透けな言い方もなにも、他に言いようなんてないじゃないか。ボクは兄さんに触れて、兄さんを感じたい。兄さんの熱を知りたい。兄さんはボクに触れたくない?」 待ち焦がれて、望んだ体温。お互いの温もり。 それが手の届くところにある。 目の前に、いる。 触れたい。感じたい。求めて、求められたいと思うのは、ごく自然な心の流れだとアルフォンスは思う。 それとも、これはアルフォンスの一方的な欲求に過ぎないのだろうか。エドワードは違うのだろうか? 不安に感じながら、アルフォンスはエドワードの耳元に囁いた。 「ねぇ、兄さんは、ボクに抱かれたくない?」 大きく揺れた肩。 困惑も露わにアルフォンスを見上げる瞳は、少し潤んでいる。 「アル……」 「ダメ。兄さんの口から聞きたい」 エドワードの言葉を遮り、言おうとしていることを先んじて却下すると、恨めしげな視線で睨まれた。 「ねぇ、言ってよ」 さらに声を落として囁き、柔らかな耳に唇で触れて、吐息を吹きかけた。 「…………ぁ」 噛み殺すことに失敗した吐息が、アルフォンスの耳に届いた。 「兄さん?」 エドワードの背中に回した手。あからさまな意図を持って指を辿らせると、エドワードがしがみつくようにアルフォンスに身を寄せた。 アルフォンスは小さく笑う。 意地っ張りなところ。素直じゃないところ。 変わっていない……。 愛しい。 「兄さん」 促すように名前を呼ぶと、エドワードが涙目でアルフォンスを見つめた。 ためらい、ためらい、エドワードは唇を開く。 「アルに……触れたい」 触れられたい。アルフォンスを感じたい。 焦がれて、求めて。気が狂いそうだった。 これは夢なんかじゃないと。現実だと確かめたい。 「アルに抱きしめられたい」 抱きしめたい。 ずっと求めていた温もり。 エドワードが素直な気持ちを、やっと口にすると、アルフォンスが綺麗な笑顔を浮かべた。 そっと触れた唇は、柔らかな感触だった。 啄ばむように口づけ、次第に、口腔内を侵すように深い口づけへと変えていく。 恥ずかしそうに瞳を伏せたエドワードの頬が、薄く上気している。 アルフォンスは、そっと、頬に唇を落とした。 「兄さんに、ずっと触れたいって思っていたんだ」 上昇をはじめる体温を、自分の掌で感じたいとずっと思っていた。 掌の下の肌の感触。 「兄さん」 「なんだよ」 「組み手、サボっていただろ?」 筋肉の落ちた体に、アルフォンスは軽く溜息をついた。 「……サボりたくてサボってたわけじゃない。組み手をしてくれる相手がいなかっただけだ」 「そっか……、ボク、いなかったしね」 「そう、アルがいなかった」 「ずっと傍にいなくてごめんね」 「でも、もう、ずっと一緒にいられるだろ」 全部を捨てて、ふたりでいることを選んだ。 離れて生きることを、最後の最後で選べなかった。 捨ててしまった故郷で、きっと、みんなが怒って、呆れていることだろう。 結局、最初から最後まで、ふたりだけで全部を決めて、選んでしまった薄情な兄弟だと。 ずっと一緒に育った幼馴染みや、ばっちゃん。師匠と、その旦那と。禁忌の日からずっと縁の切れなかった軍部の面々……。たくさんの懐かしい人たちの姿を思い出した。 少しだけ、胸が痛む。 ごめん。ごめんな。 エドワードは心の中で詫びた。 謝ったとたん、「謝るくらいなら帰ってきなさいよ!!」そう叫んでスパナを振り回す幼馴染みの姿が、簡単に想像できた。 まったくもって、その通りだとエドワードは思う。 帰りたかった。叶うなら、生まれて育ったあの場所、優しい人たちの傍らで、アルフォンスと一緒に生きていきたかった。 けれど、それが叶うことのないものだとエドワードは知っていた。 こちら側から開いた門を破壊することは、二つの世界が二度と繋がらないことを意味している。 もう二度と故郷には帰れない。 この世界が、エドワードとアルフォンスの生きていく世界だ。 ふたりが生きると決めた場所。 この現実の中で、ずっと一緒に生きていく。 エドワードは友人の言葉を思い出した。 この世界はエドワードの夢じゃない、と、彼は言った。 「ボクたちはここで生きている」そう言った、もうひとりのアルフォンス。 「兄さん」 アルフォンスは、行為に集中していないエドワードをそっと呼んだ。 潤んだ瞳がぼんやりとアルフォンスを見返す。 思わず苦笑が零れた。 「アル」 と唇だけが動く。 泣き出しそうに歪んだ顔。 精神的に脆い人だと、エドワードを見るたびに思う。 普段から強がって、悪ぶって、突き放したような言い方をする、素直じゃない人だけど。本心を簡単に口にできない、意外にも気弱なところがある。 汗ばんだ額に張り付いた髪をかき上げ、露わにした額に口づける。 アルフォンスを見つめる瞳を見返して、言った。 「兄さん、ボクは後悔しないよ」 「アル?」 訝しげに顰められる眉根にも、口づけた。 「三年間兄さんが暮らしてきた世界。アメストリスを守るために兄さんが留まると決めた世界に来たこと。ここで生きていくって決めたこと、ボクは後悔しない」 エドワードが瞬きをひとつした。 そして、くしゃりと歪む表情。 綺麗な顔が台無しだよ、と、心の中で呟きつつ、言葉を続けた。 「ウィンリィやばっちゃんや、故郷に残してきた人たちのことを考えると、ボクたちの選んだ道は酷いと思うよ。胸が痛まないわけじゃない。悲しい。悲しませてる」 「……うん。そうだな」 「でも、それでも……ボクは兄さんといたかった。二度と離れたくなかったんだ」 もう絶対に、二度と離れたくない。 失いたくなかった。 エドワードがいないことで、ぽっかりと空いた胸の空洞。 四年間の記憶がないことより、傍にエドワードがいないことのほうがアルフォンスを焦らせた。 心が締め付けられて、痛んだ。 優しかった母親を失ったとき以上の、喪失感。 どこかで生きている。必ず会えると、信じていたけれど――もう会うことはできないのではないかという思いが、なかったといえば嘘になる。 けれど、ちゃんと会えた。 会えて、そして、いまアルフォンスの傍にいる。 優しい笑顔を、向けてくれる。 手放せるわけがない、この幸福を。 「兄さんがいない世界なんて、考えられない」 「アル……」 アルフォンスはエドワードの額に自分の額を重ね合わせた。 ぎゅっと目を瞑ったアルフォンスを、エドワードの腕が優しく抱きしめた。 包み込むような抱擁。 「アル。ずっと、一緒にいよう」 今までにもなんども言った言葉を、エドワードは口にした。 「オレたちが生まれた世界を思って、故郷を、みんなを思って、時々は後悔をするだろうけど……それでも最後には後悔しないように、ふたりで生きていこう。オレたちが生きると決めた、この世界で」 「うん」 こくりと頷いて、アルフォンスはエドワードを抱きしめ返した。 温かな体温と鼓動。安心する。 ふと、睡魔が押し寄せてきて、アルフォンスは小さな欠伸をした。 「アル、眠いのか? 寝てしまえよ」 「念願叶って、やっと会えた兄さんを抱くチャンスを、ふいにしろって言うの?」 軽く睨みつけると、呆れた顔で見返される。 「ばか」 ぽかりと生身の腕で軽く頭を殴られて、アルフォンスは顔を顰めつつ、抗議の声を上げた。 「痛いなぁ。なにも殴ることないだろ」 「お前が変なこと言うからだ。――ほら、寝ろよ」 「やだ」 「アル……」 大きな溜息をつき、エドワードはアルフォンスに言った。 「オレたちは、ずっと一緒にいるんだぞ?」 「――だって」 「だってじゃない。小さな子供みたいなこと言うなよ」 「ボク、まだ十三歳だよ、兄さん」 子供だからいいんだよ、と悪びれることなくアルフォンスが言い放つと、エドワードはもう一度アルフォンスの頭をぽかりと叩いた。 「子供なら、なおさら! 変なこと考えてないで、さっさと寝ろ」 言いながら、エドワードはアルフォンスに背中を向けた。 あっさりと逃げた背中を、アルフォンスは恨めしげに眺める。 性的欲求に淡白で、いっそ冷たいとさえ思えるところも変わっていないのは、ちょっと溜息ものだ。 せっかく再会したのだから。 やっと抱きしめあえるのだから、素っ気ない態度を取らないで欲しいと思う。 もう少し色っぽい空気を求める自分が、もしかして、間違っているのだろうか。 「兄さん、相変わらずだね」 「眠いんだろ、おまえ。オレも眠いし」 「…………」 確かに睡魔に襲われてはいるけれども、と、アルフォンスは不貞腐れた気分で思った。 「ボクの腕の中で乱れた兄さんが見たかったんだけど……」 素っ気ない態度を非難するように言えば、くるりと振り返ったエドワードに睨みつけられた。 薄く目元と頬が赤くなっている。 「いいから、寝ろ!」 「兄さんだって、ボクに触れたいって言ったくせに」 「さっきは、だ! いまは、もう眠いんだよ。それに、別に今夜じゃなくても、いつでもできるだろっ!」 真っ赤な顔をして怒鳴るように言うと、エドワードは頭から毛布を被ってしまった。 呆気にとられていたアルフォンスは、子供っぽい仕草に、なによりエドワードの言葉にくすくすと笑い出してしまった。 「兄さんがそう言うのなら、今夜は大人しく寝ることにするよ」 いつでも、できるしね? そう囁いて、エドワードの体を毛布ごと抱きしめる。 「ばか!」 くぐもった声が毛布の中から悪態をついた。 アルフォンスは、そっと目を閉じる。 毛布越しに擦り寄ってくる体を抱きしめようとすると、ふと、開け放したままだった窓越しに、綺麗な旋律が聞こえてきた。 夜の静寂のなかに溶け込むように、優しく響く音。 「ヴァイオリンだ……」 毛布から顔を出したエドワードが、ぽつりと呟く。 「ヴァイオリン?」 アルフォンスは聞いたことのない名前に首を傾げた。 「楽器だよ」 「ふぅん……綺麗な曲だね。子守唄みたいだ。ええっと、ほら、昼間に教会で見た絵に描かれていた……なんだったっけ?」 「天使か?」 「うん、そう、それ! 天使の子守唄みたいだ」 「天使の子守唄か」 そう聞こえなくもないなと呟いて、エドワードはアルフォンスに身を寄せた。 耳に届く鼓動。 何年ぶりだろう。 目を閉じれば、窓から流れ込んでくる音と鼓動が、エドワードを眠りへと誘う。 抱きしめてくれる腕の強さに安心して、エドワードは眠りについた。 遠く聞こえる音。アルフォンスが天使の子守唄のようだといったヴァイオリン曲の名前を、明日アルフォンスに教えてやろうと思いながら。 END |