Missing 温度の感じられない右手を、そっと握り締めた。 懐かしむように、痛みを堪えるように歪んだ頬に、手を伸ばす。 そっと伏せられる瞼。 その奥に隠されてしまった感情を、ハイデリヒは推し量ることくらいしかできない。 正確に読み取れない。 出会って三年。 たったそれだけでは、エドワード・エルリックという人間のすべてを理解することはできない。 彼はあまりにも複雑すぎる。 性格、思考内容、正直に言ってしまえば、彼の存在そのものが複雑だ。 ときおり、ハイデリヒはエドワードにどう接していいのか判らなくなって、戸惑う。 弟や錬金術のことを語るときのエドワードの瞳は真剣で、作り話にしては現実味がありすぎるなと感じることもしばしばだ。 エドワードの言う『自分のいた世界』の話をしているときの、郷愁を湛えた悲しそうな表情に、笑えない。 エドワードが泣いているように思えて、思わずその頬に手を伸ばしかけて、ためらいながら下ろしたことは数え切れないほど。 眠っているエドワードが切なく呼ぶ弟の名前に、ハイデリヒは何度溜息をついただろう。 嬉しそうに、それ以上の宝物はないというように弟の名前を口にする姿に、曖昧な笑みを浮かべたのは、いったい何回くらいだろう。 数え切れないほどあったような気もするし、たいした回数じゃなかったような気もする。 「アル……」 エドワードの唇が、声もなく弟の愛称を呼んだ。 微かにエドワードの全身が震えている。 まるで、これから犯す罪に慄いているようだとハイデリヒは思う。 「エドワードさん」 呼びかけると、恐る恐るエドワードが瞳を開いた。 漏らされる吐息は溜息に似ている。 そっと押し上げられた瞼の奥から現れた瞳は、濁りのない金色。 その綺麗な色の瞳に、期待と、隠しきれない落胆と絶望。諦めが浮かび上がる。 これも何度も見てきた。 いまさら傷つくようなことではないと思う。 そう思いながら、それでもハイデリヒは傷ついている自分がいることを、知っていた。 慰撫するように頬を撫で、母親が子供に与えるように、エドワードの目元に唇を寄せる。 触れるだけの口づけに、エドワードが擽ったそうな顔をした。 握っていた手を離し、ハイデリヒは立ち上がった。 エドワードが少しだけ淋しそうな顔をしたけれど、気づかない振りをして言った。 「今日は大人しく眠っていてくださいね」 「……たいした熱じゃないぜ?」 「ダメです。風邪は引きはじめが肝心なんですから」 「ずるくないか?」 エドワードの抗議の声に、ハイデリヒは首を傾げた。 ずるいと言われても、なにがずるいのかハイデリヒには判らない。 「なにがずるいんですか?」 首を傾げながらエドワードを見つめ返すと、不満げな顔はそのままに、ぎゅっと眉根が寄せられた。 「オレのときだけ大人しく寝てろって言うのは、ずるい。アルフォンスだって、最近調子が良くないだろう?」 頻繁に咳き込むようになったことをさしての言葉だと解って、ハイデリヒは肩を竦めた。 「そんな子供みたいなことを言わないで」 エドワードの髪を撫でて、苦笑した。 金色の瞳が、猫のように細められる。 「季節の変わり目は、いつもなんですよ。寝込むほどじゃないんです。もともと、それほど丈夫じゃないほうだし」 「だったら、余計に体を休めないとダメだろ?」 「本当に大丈夫ですよ。自分の体力の限界は判っています。無理はしませんよ」 エドワードさんと違って、と、茶化して言うと、エドワードの顔が歪んだ。 ぷい、と面白くなさそうに顔を背けたエドワードの髪をもう一度撫で、ハイデリヒはサイドテーブルに置いていた図面を手に取った。 かさり、と腕の中で小さな音がする。 ハイデリヒは図面に視線を落とした。 そうだ、まだ、夢は実現していない。 いま倒れて寝込んでしまえば、その分宇宙への道が遠退く。 いまだ誰も見たことのない宇宙への道を拓くために、ハイデリヒたちは頑張っているのだ。 すべてを賭けている。 夢物語では終わらない。終わらせない。時間が許す限り……。 ふと出会った頃のエドワードを思い出した。 ハイデリヒと同じように、宇宙に行くことに情熱を傾けていた頃のエドワードを。 あの頃の情熱はすっかり冷めてしまったのか、エドワードはハイデリヒたちのロケット作りに、たいして興味を抱いていないようだった。 出会った頃のように議論を交わすこともない。 一線を引いた第三者の位置で、ロケット作りを見ている。 ときおり手伝ってくれはするけれども、そこに宇宙に行くんだというエドワードの意志は感じ取れない。 寂しいとハイデリヒは思う。 なにも、誰も、エドワードの引いた線を越えられない。 きっと、ハイデリヒと同じ名を持つ弟以外は、エドワードの傍らには立てないのだろう。 軽く嘆息した。 そんなに大事なら、離れなければ良かったのに。 エドワードが弟と離れた経緯と理由を、ハイデリヒは知らない。知らないけれど、そう思う。 大事な、大事な、エドワードのアル。 エドワードの話はどこか御伽噺のようで、聞いていて、面白い。けれど、本当は、大嫌いだった。 聞きたくなかった。 片時も離れたことなんてなかった、というエドワードの言葉を証明するように、アルはどの話にも出てきた。 嫌でも嫉妬を覚えた。 弟というだけで。血の繋がりがあるというだけで、エドワードの傍らに立つことのできる人間。 無条件にエドワードの心の中を占領できる存在。 「アルフォンス? どうした?」 ずっと佇んだままのハイデリヒを、エドワードは怪訝そうに振り返った。 少し眉を顰める。 ハイデリヒの様子が、なんとなくおかしく思えた。 「オレ、ちゃんと寝てるぜ? 大人しくしているから、行って来いよ。みんな待っているんだろ?」 それとも調子が良くないのか? 起き上がって、心配そうにハイデリヒの顔を覗き込もうとすると、ハイデリヒがゆっくりと首を横に振った。 ハイデリヒは起き上がったエドワードの肩を、軽く押す。 もう一度エドワードの体を寝台に戻して、ハイデリヒは 「なんでもありません」 とそう言った。 右肩の、固い感触。 高度な技術で作られた義手の、繋ぎ目の部分。 いまは行方不明の彼の父親が作ったのだという、義手と義足。 エドワードのいた世界では、当たり前にあるのだという、機械技術。 話を聞けば聞くほど、ずいぶん、矛盾した世界だという印象を抱く。 神経と機械を繋いで、手足を自由に動かすことができる技術はあるのに、空を飛ぶ飛行船や飛行機などは、まったく開発されていないという。 代わりに発展しているのが、錬金術。 「おい、アルフォンス?」 怪訝そうなエドワードの声に、ハイデリヒは思考の波から意識を浮上させた。 「なんですか?」 「いや……オレの腕がどうかしたのかと思って」 言われて、ハイデリヒは自分がずっとエドワードの右肩を凝視していたことに気づいた。 いまさら義手の腕を注視するのは、不躾だっただろうか。 「……ええっと、いまさらですけど」 「なんだよ?」 「エドワードさんの腕と足って、どうして……」 「…………」 「エドワードさん?」 触れてはいけない話題だったらしい。 いままでに見たこともないくらい、エドワードの表情が歪んだ。 泣きたくて、でも泣けなくて。 後悔と、罪悪と、痛みと、懐古。 エドワードの左手が、愛しむように右手を撫でた。 「オレの……罪の証、かな」 自嘲の笑みを浮かべて、エドワードがぽそりと言った。 「罪の証……?」 「ああ。オレは、オレの世界で罪を犯したことがあるから。取り返しのつかない、一生をかけて償わなくてはいけなかった罪の証」 エドワードは目を閉じた。 禁忌を犯した日のことは、いまでも簡単に思い出せる。 紫色の、練成光。 渦巻いた空気。静電気の竜巻。 禍々しい、空間。 分解されて、消えてしまった弟。それからエドワードの右足。 そして、門。 弟を取り戻すために、体の一部を『等価交換』で差し出すことに、ためらいはなかった。それどころか、エドワードの差し出すもので弟が取り戻せるなら、いくらでも、なんでも持って行けば良いと思った。 エドワードがそう言うと、弟は涙声になりながらも、本気で怒鳴りつけたけれど。 「馬鹿兄!」 エドワードの懺悔を一言で一蹴して、弟はいつも付け加えた。 「ボクも同罪なんだよ。だから、兄さん、ボクたちは共犯者だ。兄さんだけが悪いんじゃない。忘れないでよ。ふたりで決めて、ふたりで実行したんだからね」 鎧の顔では、表情は判らない。判らなかったけれど、エドワードには弟の顔が泣き出しそうに歪んでいるんだと、判った。 会いたい。 諦めきれない。 お前に会いたい、アル。 お前でないと、やっぱりダメだと思い知るばかりだ。 会いたい。会いたい。会いたい。 不意打ちで湧き上がった思いに、エドワードはぎゅっと目を閉じた。 宇宙に出ても、エドワードのいた世界に。弟のいる世界には戻れないとわかったときの衝撃と、絶望。 その瞬間からなるべく考えないようにしていた、『帰る場所』のこと。 諦めるしかないからと、封印していた思いは、思いがけず簡単に溢れ出てしまった。 会いたい。 切ないほど、思う。 会いたくて仕方がない。それなのに、会えない。 どんなに願っても、渇望しても、お前に会えないんだ、アル。 左手に感じる、固い感触。 エドワードと弟を繋ぐもの。 共有する、罪。咎。その証。 「――オレとアルが共犯者だって言う、証なんだ」 嬉しそうに言うエドワードを、ハイデリヒは黙って見つめた。 なにも言えない。言葉など、思い浮かばない。 罪の証でも、それが弟と共有するものならば、至宝なのだと言いたげな顔を見て、いったいなにが言えるだろう。 思い知らされるばかりだ。 ハイデリヒではダメなのだということを。 弟でなければ、エドワードには意味がないのだ。 それでも、ハイデリヒは自分の思いを殺すことができないけれど。 エドワードの右手に視線を移し、ハイデリヒはそっと溜息をついた。 「アルフォンス」 呼ばれて、ハイデリヒは顔を上げた。 心配そうな金色の双眸がハイデリヒを見つめている。 もしかしたら、ハイデリヒに弟を重ね合わせてみているのかもしれなかった。 いつだったか、酔っていたときにエドワードが言ったのだ。 「アルが生きて成長していたら、アルフォンスのように成長していたのかな、って思ったことがあるんだ」 名前だけでなく、姿かたちまで似ているのかと、やりきれない気分になったことがあった。 「おい、アルフォンス?」 ぐい、と、強い力で腕を引かれて、ハイデリヒははっとエドワードを見た。 腕を引かれた拍子に、持っていた設計図が床に落ちた。 なんとなくそれを目で追った後、ハイデリヒは緩慢にエドワードへと視線を移した。 心配を通り越して、不安そうな瞳がハイデリヒを凝視している。 「本当に大丈夫なのか? ぼうっとして……今日は家で大人しくしていたほうがいいんじゃないのか?」 「平気です。ちょっと、考えごとをしていただけです。それに一日遅れれば、夢が一日遠ざかってしまう。エドワードさんだって、それは知っているでしょう?」 やんわりとエドワードの手を振り払い、ハイデリヒは床に落とした設計図を拾った。 大事なそれを抱えなおし、ハイデリヒは時計を見た。 「ああ、大変だ。急がないと約束の時間に遅れてしまう」 慌てて踵を返したハイデリヒは、ふと思い直したようにエドワードを振り返った。 「エドワードさん、ちゃんと寝ていてくださいね。グレイシアさんに、時々、様子を見にきてもらえるよう、お願いしておきますから」 「大丈夫だって」 「病人は大人しく人の言うことをきくものですよ。それじゃ、行ってきます」 「ああ、行ってらっしゃい。気をつけて」 ベッドの中から、エドワードはひらりと手を振った。 穏やかな笑みを浮かべて、ハイデリヒが部屋を出て行く。 その背中を見送って、エドワードは目を閉じた。 アル、どうして、いま傍にいるのがお前じゃないんだろう。どうしてハイデリヒなのだろう。 「アル、お前に、会いたい……」 叶わないことだと解っていても、どうしても、呟かずにはいられなかった。 扉を閉じる間際に聞こえた呟きを、そっと閉じたドアの音でかき消す。 聞きたくなかった。けれど、聞こえてしまったから、仕方がない。 紛れもなく、あれがエドワードの本心で、望みだ。 エドワードが好きで仕方がない。 どれだけ思っても、好きでいても、報われない想いだと思い知っているけれど、想いを返してもらえないから簡単に諦めがつく、そんな想いではないから。 「きれいごとかな……」 笑ってくれるなら良いと思うのは。 エドワードが心からの笑みを浮かべて、幸せになってくれるなら、充分じゃないかと思おうとするのは。 エドワードの幸せを、ハイデリヒの幸せだと思おうとするのは、ただの自己満足で、きれいごとで、誤魔化しかもしれないけれど。 けれど、たとえば、ハイデリヒがエドワードの心と想いを手に入れることができたとしても、どうしようもない未来があることをハイデリヒは知っている。 いつか、エドワードが帰るときがきたら、彼は躊躇わずに弟の元へ行くだろう。 「ありがとう」 と、そんな嬉しくない言葉をハイデリヒに残して。 安易に想像がつく未来に、自嘲の笑みが零れた。 どちらにしても取り残されるなら、きれいごとでも自己満足でも誤魔化しでも、エドワードのことを静かに想うだけでいい。 エドワードが弟の傍らで幸せそうに笑っている未来を、ハイデリヒも望めばいいのだ。 エドワードはいつか消えていなくなる人なのだから。 ハイデリヒのいない世界で、生きていく人なのだから。 そして鮮やかななにもかもも、いつか風化してしまう。 夢だったのか、現実だったのかも判らないほど、曖昧なものへと。 腕の中の図面が微かな音を立てて、ハイデリヒの気を引いた。 ハイデリヒは大きく息を吸う。 ゆっくりと息を吐き出し、ハイデリヒは歩き出した。 この一歩が、エドワードの望む未来とは違う未来へ続いているのだと思いながら。 END |