理由


「髪、ずいぶん伸びたね」
 髪を結わいていた紐を解いたとたん、さらりと流れた髪の一筋を手に取って、アルフォンスはそう言った。
 特別な手入れをしているわけじゃないのに、エドワードの髪は綺麗だといつも思う。
 旅をしていた頃は、太陽に焼かれることが多かったり、不規則な生活が続いたりしていたから、多少は傷んでいたようだけれど、念願が叶って、旅から旅への根無し草ではなくなったいまは、よほどのことがない限り、傷まない環境のせいだろう。
 もうすぐ成人を迎える男性にしては、柔らかく、艶を持った髪だった。
 幼馴染みに言わせれば、「アルだって、エドに負けないくらい綺麗な髪よ」らしいが、自分の髪質のことなど、アルフォンスには関係がない。というか、どうでもいい。
「ん? あぁ。もう何年だっけ……? 切ろうって思ったことも、何回かあったんだけど、さ……」
 読んでいた本から視線を上げ、肩越しに振り返ったエドワードが、意味ありげに苦笑を零して言葉を切った。
「思ったんだけど、なに?」
「んんー、……いや」
 なぜか言葉を濁してしまうエドワードに、アルフォンスは不満そうに唇を尖らせる。
「なんだよ、言ってよ。気になるじゃないか」
 エドワードの髪を梳いていた手を止めて、アルフォンスはなんとしてでも、髪を切らなかった理由を聞きだすつもりで問いかけるけれど、エドワードは答えるつもりがないらしく、
「たいしたことじゃない」
 とそう言って、肩を竦めるばかりだ。
 エドワードの素っ気ない返答に、アルフォンスはますます頬を膨らませ、拗ねたように言った。
「たいしたことじゃないなら、教えてよ、兄さん」
「別に知らなくてもいいことだろ?」
「知りたい」
「知ったからってなにがあるわけでもないぞ」
「それでも、知りたい」
「……あのな、アル……」
 少しばかり呆れた口調のエドワードが、もう一度、肩越しに振り返った。
 弟の他愛ないといえば他愛ない、けれど、執拗な我儘を持て余しているエドワードの困惑顔に、少しだけ後悔を感じたアルフォンスだったけれど、意地になりすぎた分、引っ込みがつかなくなっていたのは事実。でも、やはり、それだけが理由じゃなく。
 肩越しに振り返ったエドワードの顔を覗き込むように、アルフォンスはエドワードを背後から抱きしめる。
 そして、エドワードが何か言うより早く、アルフォンスは口を開いた。
「知りたいよ。どんな小さなことでも。些細なことでも、兄さんのことなら、――好きな人のことなんでも、ひとつ残さず知っておきたいんだ」
 アルフォンスがそう言うと、金色の大きな瞳がぱちぱちとまばたきを繰りかえした。
 アルフォンスの言葉は、ゆっくりとエドワードの中に浸透したらしい。
 意味を理解するにつけ、エドワードの耳や頬、果ては首までもが真っ赤になった。
 その様子をくすくすと笑いながら見つめ、もう一度、言う。
「ねぇ、兄さん。好きだよ」
「……馬鹿、そんなしょうもない理由で、ダダをこねるな!」
「えぇ? しょうもなくないよ。当然の理由じゃないの? それとも、兄さんは、ボクのこと知っていたくない?」
「知りたい、けど……。でも、だって、たかが髪のことでムキになることないだろ?」
 むうっと寄せられた眉に、アルフォンスは唇を寄せた。
 ちゅっと、音を立てて口づけ、
「たかがじゃないよ。兄さんの髪のことだもの」
 飄々と言い募ると、エドワードがさらに顔を赤くして、絶句した。
 ぱくぱくと、魚のように口を開閉し、言うべき反論が思い浮かばないのか、口を閉ざした。
 そしてせめてもの抵抗か、エドワードはアルフォンスから顔をそむけて、読んでいた本に視線を落とした。
 無視を決め込むつもりらしい。
 こういう子供っぽいところは、変わらないなぁ、と、アルフォンスはエドワードを抱きしめたまま思う。
「アル、重い。離れろ。あと、髪、ちゃんと結わえてくれ。髪が邪魔で本が読めない」
「そんなの、いつでも読めるだろ? それより、兄さん、答えてくれないつもりかな?」
「なにをだ?」
 とぼけるんだ、と、アルフォンスは溜息をついて、エドワードの望みのままに体を離した。
 アルフォンスが離れるのと同時に、エドワードが体の力と、気を抜いたのがわかった。
 それを「冷たいな」と半眼で眺めつつ、アルフォンスは再びエドワードの髪に手を伸ばす。
 背中を覆う髪を纏め、両手の指で梳き、整える。
 本に集中しだしたエドワードの髪を、片方の手に束ね、持った。
 それからテーブルに置いたままの紐をちらりと眺め、さて、どうしようかと思う。
 確かに、エドワードの言うとおり、たかが髪のことなのだけれど。
 知りたいと思うのは。エドワードの口から聞きたいと思うのは、その髪を切らなかった理由だ。
 おおよその見当なら、実は、ついている。ついているけれども、聞きたいと思うのは、至極当然のことではないだろうか。
 それなのに、エドワードときたら。
「鈍いし、疎いし、はぐらかすし。ボクがどれだけ兄さんを好きか、思い知らせてやろうかなぁ」
 アルフォンスは小さく呟いた。
 錬金術以外のことにも、もう少し目を向けたほうがいいよ、兄さん。と呆れ交じりに内心でそんなことを毒ついて、そっと、身を屈める。
「……アル?」
 なにかを察したように、エドワードが怪訝そうにアルフォンスを呼んだ。
 けれども、アルフォンスはそれをきれいさっぱり無視する。
「おい、アル?」
 顔を上げて振り返ろうとするより早く、アルフォンスの唇は目的の場所に辿り着いていた。
 ちゅ。
 首筋に口づけ、そのまま、項にも口づけると、エドワードの体がくすぐったそうに捩られた。
「ちょ、……ん、アル!」
 咎めるような声も、無視する。
 手に束ねたままのエドワードの髪を、肩から前に垂らして放し、自由になった両手で、エドワードの抵抗を封じ込めた。
 背後から回した手を、服の裾から侵入させる。
「やめ……お前、いきなりっ!」
 肌を辿ると、アルフォンスの指に翻弄された肢体が、ぴくりと跳ねた。
 鼻にかかった甘い声と、仰け反るようにそらされる背中。
 相変わらず敏感な反応を返す様子に、アルフォンスは満足そうな笑みを浮かべた。
 艶やかに、アルフォンスの腕の中で乱れる愛しい人。
 とぎれとぎれの吐息に、熱が篭りはじめる。
「ね、兄さん、しよ」
 甘く囁き、エドワードの耳を軽く噛んだ。
 それだけで、エドワードの声がもっと甘くなる。
 それに気を良くして、アルフォンスは素肌を辿っていた片手を、エドワードの下肢に移動させた。
 スラックスの上から触れる、確かな欲望の証。
「や、やめ、……アル」
 羞恥に掠れた声も、制止の声も、無視した。
 ファスナーを降ろし、手を滑り込ませて、それに直接触れると、濡れた声が耳を打った。
 歓喜を含んだ声。
「兄さん、気持ちいい?」
「ばか…、聞くな」
 熱い吐息を零す合間に、恥ずかしそうな答えが返る。
「ふ、ア……ッ、あ、あ、ん」
 扱く指先に緩急をつけ、アルフォンスはエドワードの欲望を育て上げた。
 快楽を引き出す指の動きに、エドワードが泣く。
「アル、アル」
 切なく限界を訴える声。
 抱きしめるアルフォンスの肩に、エドワードが後頭部を押し付けるようにもたれてきた。
 仰け反った喉の白さが、アルフォンスの視界を掠める。
 たったそれだけで、欲が加速した。
 エドワードに絡めた指の動きが、余裕を失う。
「ん、ぁ……、アル……、あ、あ、やぁ……ああぁー」
 一際高い声が上がるのと同時に、アルフォンスの指を濡らした熱。
 せわしなく息をつくエドワードの、しっとりと汗ばんだ項に、アルフォンスはもう一度唇を寄せた。
 ときおり、所有の印を残してやりたい衝動に駆られるけれど、そんな無粋な印は必要ない。
 そんなものがなくても、エドワードがアルフォンスのために生まれて生きているのは、判りきっていることだ。
 混同された螺旋。
 絆などという言葉すら、もう、必要がない。
 エドワードはアルフォンスであり、アルフォンスはエドワードなのだ。
 アルフォンスはまだ我を取り戻していないエドワードを、椅子から立たせると、脱力したままの体を片手で支え、もう一方の手で、下着ごとスラックスを引き下ろした。
 はっとしたようにエドワードがアルフォンスを振り返った。
 我に返ったエドワードの瞳が、アルフォンスを睨みつける。
 情欲の残った瞳で睨むのは、まるで誘いをかけているようだよ、と。何度言っても、その意味は理解してもらえないらしい。
 雄の欲望を刺激してどうするのだ。呆れる反面、まあ、それならそれでおいしく頂くだけだと、アルフォンスは肩を竦める。
「アル」
「なに?」
「なにって……ここでする気かよ?」
 頼りなさそうにエドワードが瞳を揺らす。
 思わず、アルフォンスは失笑してしまった。
 抱き合うことに異存はなく、場所に異存があるのか。 
 まあ、確かに、殺風景な書斎じゃ盛り上がりに欠けるかもしれないし、床に組み敷くのも気が引ける。
 けれど、いつもと違うシチュエーションも楽しめそうだなぁ、などと、エドワードに知られたら絶対に殴られそうなことを、アルフォンスは考えた。
 考えながら、一応、問いかける。
「ベッドがいい?」
「そりゃ……じゃなくて! ばか、本気でスル気かって……」
「するよ。当然だろ」
 しれっと答えると、エドワードが困ればいいのか、怒ればいいのか判断がつかないといった顔で、眉を寄せた。
「それとも兄さん、ボクとはしたくない?」
「そんなこと言ってないだろ」
「じゃあ、しよう?」
「…………」
「無言は肯定とみなすけど?」
「……勝手にしろ!」
 顔を赤くして、ぶっきらぼうに言い捨てて、けれど、エドワードは本気でアルフォンスの腕の中から逃げようとはしない。
 エドワードが無条件に甘やかすから、こちらがつけ上がりやすく、またつけいりやすいのだと、いい加減、この人は気づいたほうがいいんじゃないだろうか。
 大きな溜息をつきたい気分だったけれど、アルフォンスはそれを飲み込んだ。
 いまは、そんなことはどうでもいい。
 そう思いなおして、エドワードのもので濡れたままの指を、まだ固く閉じられた場所に触れさせる。
 そのとたん、ぴくりと、エドワードの肩が跳ね上がった。
「アル」
 名前を呼ばれただけだったが、言いたいことはすぐに察した。
 だが、アルフォンスはそれを却下する。
 書斎の小さな机の上に、エドワードの両手をつかせた。
「嫌だ。このまま、ここでしようよ」
「お前なっ!」
 かぁっ、と、それまで以上に顔を赤くして、肩越しに睨まれたが、気にしない。
 まだ何か文句だとか悪態をつこうとするエドワードを黙らせるように、アルフォンスは綻び始めた場所に指を入れた。
「…っ」
 息を飲んで言葉を詰まらせたエドワードの内部は熱く、アルフォンスの指を締め付けるように蠢動している。
 中を押し広げるように指の本数を増やし、動かす。その度にエドワードは甘く声を上げる。
 甘えるようにアルフォンスの名を呼んで、蕩けた表情で乱れた。
 エドワードのいやらしく乱れる姿に、アルフォンスの欲が限界を訴える。
 甘く、甘く――それ以外に愛しいものはないと言うように、名前を呼ばれる。
 その声に応えるように、アルフォンスはエドワードの中に入り込んだ。
「ア……く」
 衝撃と、それ以外のものに上がった声が、押し殺された。
 辛そうに寄せられた眉根に気づいて、アルフォンスは宥めるように項に口づける。
 弾かれたように揺れた体にあわせて、結わえなかったままの髪が揺れた。
「ねぇ、兄さん」
 エドワードを揺さぶりながら、掠れた声で呼びかける。
 行為の熱に浮かされた瞳が、ぼんやりとアルフォンスを見返した。
 蕩けた顔をしているエドワードを見つめ、少し卑怯な方法だったかと苦く思いながら、アルフォンスは訊いた。
「ねえ、髪を切らなかったのは、ボクが前に言ったから?」
「え?」
「機械鎧をつけた後のリハビリが終わったとき、兄さん、髪を切るって言ったじゃない?」
 でも、アルフォンスがそれに反対をした。
「せっかく綺麗な髪なんだから、伸ばせばいいじゃないか」
 アルフォンスがそう言うと、
「綺麗ってなんだよ」
 と呆れながらも、「アルがそう言うなら、やめるか」とエドワードは言ったのだ。
 それ以来、本当に、エドワードは一度だって髪を切らなかった。切ると言っても、せいぜい毛先を揃えるくらいだったとアルフォンスは記憶している。
「ね、そうなんだろ?」
「あ、……んあ、あ」
 押し寄せる快楽の波に、エドワードは返事も返せないようだった。
 声もなく、ただ、首を縦に振り続ける。
 アルフォンスの欲を煽るように泣く様は、ある意味、凶悪だ。
「ボクのために、伸ばしてくれてるんだ?」
 返事はないと判っていながら呟くと、「アル」と甘く喘ぐ合間に呼ばれた。
 潤んだ瞳が、アルフォンスを振り返っていた。
 熱に浮かされ、快楽に飲まれかけていたわりには、意外にしっかりとした眼差しだった。
「お前がオレに望むこと。オレに望んでいることで叶えられることは、全部、叶えたいんだ」
 そう言って微笑する顔を、アルフォンスは言葉もなく見つめた。
「兄さん?」
 真意を問うように呼びかければ、エドワードがもう一度微笑した。
 そして、言った。
 深く、真摯な声で。
「お前を、愛してるよ。オレのアルフォンス」
「兄さ……」
「アル、もっと」
「え?」
「動けって。やめられたら、辛い」
 本当に辛そうに言われて、あ、と思った。
 思いがけない言葉に、思わず呆気に取られて、動きを止めてしまっていた。
 もっと、と、甘く誘われて、アルフォンスは加速した。
 アルフォンスを一番深いところまで迎え入れたエドワードの欲が、限界を訴えて雫を零している。
 濡れた音と、喘ぎと、荒い息遣いだけが、アルフォンスとエドワードの耳に届いていた。
「アル」
 と呼ばれる声の切なさが増した。
 その声に引きずられるように、アルフォンスの限界も近くなった。
 揺さぶる動きを早め、最奥を突き上げる。
 アルフォンスを奥まで迎え入れたエドワードの中が、絡みついた。
 熱い迸りを感じたのは、ほとんど、同時だった。


 気だるさを隠しもしないエドワードを抱きしめ、アルフォンスは乱れた髪を指で梳いた。
 それを気持ち良さそうに受け入れていたエドワードが、うとうととしはじめた。
 無防備にアルフォンスに体を預ける。
 アルフォンスは、エドワードの体を大切に抱きしめた。
 些細なことでも知りたい、理由。
 叶えられる望みは、全部、叶えたいと言ってくれた、理由。
 すべての理由が、たったひとりの、大切な――愛しい人のことに繋がる。




                                END