〜想い〜

 湖面に反射した光が眩しくて、エドワードは目を細めた。
「うっわぁ、綺麗だね。ね、兄さん!」
 隣に佇むアルフォンスは、キラキラと光っている湖面の景色に、素直な声を上げた。
 弾んだ声を上げる弟を見上げ、エドワードは悟られないようにそっと笑う。
 無邪気な声が、愛しい。
 鎧に篭って、それでもまだ少年特有の高さを失っていない、声。
 やっと耳に馴染んだ異質の、それでも紛れもなく愛しい人の紡ぐ音。
 好きだと思う。
 なんて愛しいんだろう。
 些細な仕草。声の違い。
 そんなことですらアルフォンスにたいする想いが溢れて、止まらなくなってしまう自分は、かなり末期症状だとエドワードは思う。
 時々――本当に時々、数ヶ月に一度、いや、半年に一度あるかないか、それくらいの割合で、アルフォンスに「好きだ」って言いたくなる。……もちろん、そんなことを言えば、アルフォンスを図に乗らせるだけだと解っているので、言わないのだけれど。
 生まれてはじめてみる景色でもないだろうに、それでも素直な感動を隠さない弟の指に、エドワードは自分の指をそっと絡めた。
 ぎゅっと、機械鎧の指先に力を込める。――と。
「兄さん、どうしたの?」
 不思議そうに、アルフォンスがエドワードを見下ろした。
「どうしたのって、なにがだよ、アル?」
 エドワードも不思議そうに、アルフォンスを見返した。
 そして、ことりと首を傾げる。
 アルフォンスの問いかけの意味が判らない、と、そう仕草で伝えると、どこか困惑したようにアルフォンスがそっと腕を持ち上げた。
「……あ」
 アルフォンスが持ち上げた腕は、エドワードが指を絡めた方の腕だ。
 気まずげに小さな声を漏らし、エドワードは苦笑した。
「どうしたの、兄さん」
 繋いだ手はそのままに、持ち上げた腕をゆっくりと下ろしたアルフォンスが、もう一度同じ問いを音にした。
 気遣うような、心配そうな響きの音に、エドワードはそっと首を振る。
「なんでもない、アル」
「本当に? 本当に、なんでもない?」
 念を押すように問いかけるアルフォンスの声は必死で。その調子から、エドワードが本心を隠しているのではないかと疑っているのだと、容易に想像がつく。
 心配性なやつだなと内心で苦笑して、エドワードは「なんでもない」とくり返した。
 けれど、アルフォンスは納得できないらしい。
「兄さんの「なんでもない」は、時々、信用性を失うからなぁ」
 そんなことを言って、これみよがしに溜息を音にした。
 弟の猜疑心にいささか不機嫌になりながら、エドワードは、
「本当に、なんでもねぇって」
 ぶっきらぼうに言い放つ。
 それが、悪かったらしい。
 アルフォンスを取り巻いている空気が、気配が、さらにエドワードを疑ってかかるものに変化した。
「ムキになって否定するときの兄さんは、大概、なにかを隠してるんだよね」
 独り言めいた呟きを落としたアルフォンスが、空いているほうの手と腕で、がっちりとエドワードを抱きこんだ。
「ちょ…、なんだよ、アル!?」
 アルフォンスの突然の行動に、エドワードはギョッとして叫び声を上げる。
「アル! なんだよ、放せ。降ろせ、馬鹿!!」
 抱きこまれたと思った次の瞬間には、アルフォンスの腕に抱き上げられてしまったエドワードは、目の前の鎧の顔を睨みつけながら、抗議の声を上げた。
 しかし、エドワードの抗議の声はあっさりと無視されて、
「兄さん」
 落ち着き払った弟の声に諫められる始末だ。
 情けないのと、恥ずかしいのと、ほんのちょっとの怒りで顔を真っ赤に染めたエドワードは、離してもらえないのなら、だったら自力で逃れようとアルフォンスの両肩を押しのけるように、両手を突っ張った。
 もちろん、それは無駄な努力に終わったのだけれど。
 びくともしない弟の力に、かなり落ち込んだエドワードの耳に、
「兄さん」
 と優しく呼びかけるアルフォンスの声が届く。
「兄さん」
 もう一度、優しく、染み入るような呼びかけ。
 猜疑心も何も感じられない、優しい、音。
 アルフォンスの声に、エドワードは逃れようと突っ張っていた手の力を抜いた。
 抵抗をやめて大人しくすると、アルフォンスが微笑んだような気配が伝わる。
 結局、どうしたってアルフォンスには勝てない自分を、エドワードは再確認してしまった。
「ねぇ、兄さん、本当になにもないの? ひとりでなにかに煮詰まっているとか、馬鹿なことを考えているとか、そういうことじゃない? 何度も言っているけど、ひとりで全部を抱え込んだりしないでよ。ボクは、なんでも分かち合いたいよ」
 優しく問いかけ、言い諭す声に、エドワードは泣きたいような気持ちになる。
 責める言葉も、詰る言葉も、一度も言わないアルフォンス。
 いつだって、自分よりもエドワードを優先して、慮ってくれる。
 この世の誰よりも愛しい存在。
 ああ、あのときに失わずに済んでよかったと、改めて思った。
 言葉では表現しきれないほどのこの安堵を、そして愛しさを、いったい、どうやって伝えればいいだろう。
「アル」
 呼びなれた愛称を口にして、エドワードは目の前にある鎧の頭部を、そっと抱きしめた。
「兄さん? どうしたの?」
 驚いた気配を無視して、エドワードは愛しさを込めた声で「アル」ともう一度呼んだ。
「アル、本当に、なんでもないんだ」
「でも……?」
 だったら、どうして急に手を繋いだりしたの、と。そう問いかけるだろうアルフォンスの言葉を遮るように、エドワードは言った。
「どうして、なんて聞かれると困るんだけどさ……」
 躊躇うように言葉を切って、エドワードは視線を彷徨わせた。
 言おうかどうしようか迷ってしまうのは、手を繋いだ理由が、エドワードとしては恥ずかしいからだ。
 ふざけているときならいざ知らず、こんなときに茶化すようなアルフォンスじゃないことを、エドワードは誰よりも良く判っているし、知っているけれど、どうしても恥ずかしさが先に立って躊躇ってしまう。
「兄さん?」
 促すように呼ばれて、エドワードは覚悟を決めた。
 けれど絶対にアルフォンスの顔は見ないし、見せないつもりで、エドワードはアルフォンスの頭を抱きしめる腕に力を込めた。
「笑うなよ? 茶化すのもなしだからな!」
「うん」
 アルフォンスの了承の返答に「絶対だぞ」と念を押して、エドワードは言った。
「なんとなく……理由なんて本当に、自分でも判らないんだけどさ、アルと手を繋ぎたいなって、そう思っただけなんだ」
 エドワードが言い終えると、きっかり一呼吸分の沈黙が流れて。
「――兄さんらしいね」
 説得力があるんだがないんだかよく判らない返事が返ってきて、エドワードは顔を顰めて唇を尖らせる。
 どのあたりがどうエドワードらしいのか、さっぱり解らない。
「オレらしいって、なんだよ、それ?」
 アルフォンスを抱きしめている手を離そうか、離すまいか。一瞬悩んだエドワードは、けれど、やっぱりいまだに赤いだろう顔を見られたくないからと、そのままの体制で不満を口にした。
「意味が解らねぇよ。説明しろ、アル」
「ええっ!?」
「ええ!? じゃねぇよ。どのあたりがどう、オレらしいんだよ? お前一人で納得していないで、ちゃんとお兄ちゃんに説明しなさい」
「説明って……言われても……」
 困ったように言葉を濁らせたアルフォンスをせっつくように、エドワードは
「言ってしまえば楽になるぞ、アル」
 取調べをする警察官の口調を真似て、言った。
 アルフォンスの気配が、さらに困惑した。
「う〜」とか「えーっと」とか「うーん」だとか。幾通りかの唸り声が、エドワードの腕の中から届く。
 それが何度かくり返された後、エドワードの機嫌を窺うような口調で、
「怒らない?」
 アルフォンスがそう訊ねた。
「……オレを怒らせるような意味が含まれているってことか?」
「そう言うわけじゃないけど、兄さん、曲解して受け取りそうなんだもん」
「…………」
 否定できない。
 言葉に詰まったエドワードは、それを誤魔化すように、「こほん」と小さな空咳をひとつしてから言った。
「とりあえず、怒らないように努力はする。……アルの言い方次第だけど、な?」
「もうっ! 結局はボクのせいにするんじゃないか」
 アルフォンスの文句を聞き流すように、エドワードは「いいから、言えよ」とアルフォンスを急かした。
 エドワードの腕の中、アルフォンスが盛大な溜息を音にする。
「仕方ないなぁ」と諦めたように呟きを一つ零した後、弟は言った。
「兄さんって、昔から、本当のこと――自分の本当の気持ちを表現するのが苦手だったじゃない? その代わりか、照れくさくて言えないこととか、意地を張ってしまって、どうしても言えないことがあるときは、必ずスキンシップをするじゃないか。変わっていなくて、兄さんらしいなって」
 そう言われて、エドワードは目を丸くする。
 アルフォンスの頭を抱きしめていた腕の力を抜き、鎧の目を覗きこんだ。
 言葉もなくきょとんと弟の鎧の顔を見つめていると、アルフォンスが不思議そうに首を傾げて、そして、言った。
「もしかして、兄さん、気づいていなかった? 無意識だった……?」
 問いかけられて、エドワードはこくんと頷いた。
 アルフォンスに言われるまで、自分がそんな行動をしていたことすら知らなかった。判っていなかった。
 そうだっただろうか?
 確かに、アルフォンスに対しては、過度なほどのスキンシップをしていた自覚はあるけれど。
 理由もなく弟に触れるときに、ただ触れたいと思う以外に、飲み込んだ言葉や想いがあっただろうか、と、思い返したエドワードは、案外、そうだったかもしれないと、苦笑を零した。
「そうだったかもしれない」
 素直に認めると、
「珍しいね」
 とアルフォンスが言った。
「まあ、たまには、な」
「いっつもそれくらい素直でいてくれると、ボクの苦労も半減するんだけど。あ、そうだ、兄さん」
 愚痴に近い弟の呟きに眉を顰めたエドワードは、なにかいいことを思いついたかのように声を弾ませたアルフォンスの呼びかけに、訝しく思いながらも「なんだよ?」と首を傾げた。
 こんなときの弟の声は、要注意だ。
 なにを言い出すかわかったものじゃない。
「素直ついでに、さっきボクの手を握ってくれたわけを聞かせてよ。聞きたい」
 案の定だ。まったく。
 言えないぶん行動に出しているんだと指摘したのは、アルフォンスの癖に。
 無邪気な要求に渋面を作って、エドワードはぽかりと軽く弟の頭を叩いた。
「調子に乗るな、馬鹿アル」
「いたいなぁ」と痛がるふりをした弟の腕から力が抜けたのを幸いに、エドワードはその拘束から逃れて、地面に降りた。
 そして
「ほら、行くぞ、アル」
 ぶつぶつと不満と文句を呟いているアルフォンスを促し、歩きだす。
 同じ体温を分け合う手で、しっかりとアルフォンスの手を握って歩き出したエドワードの耳に、
「素直じゃないんだから」
 と、少し呆れ気味の弟の声が届いた。

                                  END

 繋いだ手。
 言葉にできない想い。
 繋がったところから、ぜんぶキミに届けばいい。