「兄さん、好きだよ」 エドワードがそろそろ休もうと、読み終えた書物をトランクの中に片付けていると、アルフォンスが唐突にそんなことを言い出した。 前触れも、脈絡もなくいきなり言われて驚いたけれど、エドワードは「まあ、いつものことか」とたいして気にすることなく、頷いた。 「おう、オレもだぞ」 「うん。兄さんも同じ気持ちでいてくれてるってことは、知ってる。でも、ねぇ、兄さん。ちゃんと言葉にして、ボクのことが好きだって言って。聞きたい」 「は?」 突然そう言われたエドワードは、間抜けな声を上げた後、呼吸すら忘れて弟の顔を凝視した。 アルフォンスは満面の笑顔を浮かべて、エドワードを見返していた。 ことば 「ねぇ、言ってよ、兄さん」 無邪気な声とその表情に、けれど、エドワードは微笑ましいと思う余裕さえなかった。 なんとなく、嫌な汗がだらだらと全身から流れているような、そんな錯覚さえ覚えてしまう。 アルフォンスから乞われているのは、たった一言。 「好き」 その一言だけだ。 だけどその一言を、エドワードはなかなか言えないでいる。 言えないでいる理由は、もちろん、たったひとつ。 恥ずかしさと照れくささからだ。 うろうろと視線を彷徨わせ、どうしたらいいのか判らないエドワードの頭上に、「はぁ〜ぁ」と、待ちくたびれた溜息が落ちてきた。 「なんだよ、アル。その溜息は」 「なんだよじゃないよ」 ムッとしたエドワードがアルフォンスに視線を固定すると、エドワードよりももっとムッとしている弟の視線とぶつかった。 じっとりと睨みつけるような眼差しに、エドワードは知らず身を引く。 乞われている言葉を口にできずに、はや二十分と少し。 言えずにいるエドワードの後ろめたさを解っているくせに、アルフォンスは容赦なく文句を言い始めた。 エドワードよりも優しげな顔を、子供が駄々を捏ねるときのように歪ませ、わざとらしくまた溜息などついてみせながら、 「どうして言ってくれないかなぁ」 芝居がかった口調で言うアルフォンスから、エドワードはそっと視線を外した。 「兄さん、ボクに対する愛情が足りてない気がするよ?」 外した視線を追いかけるように、アルフォンスに顔を覗き込まれて、逃げ道などないのだと思い知らされる。 こんなときばかり、アルフォンスは強引だ。 その強引さに、エドワードはいつも勝てないでいる。だが、聞き捨てならない弟の言葉に、エドワードはもともと勝気な眼差しを挑戦的に輝かせ、アルフォンスを睨むように見返した。 「誰の愛情が足りていないって?」 「兄さんの」 「誰に対する?」 「不毛な質問するね? もちろん、ボクに対する兄さんの愛情が、あまり感じられないって言っているんだよ」 にっこりと、老若男女を虜にしそうな微笑を浮かべて、アルフォンスがそう言った。 エドワードの顔が、さきほど以上に歪められる。 不機嫌さを隠すことなく、エドワードは声を尖らせて聞いた。 「愛情が足りていない? ちゃんと、いつだって、オレはアルの言葉に頷いているだろ!」 「うん、そうだね。頷いてくれるね」 エドワードの言葉を、アルフォンスはあっさりと肯定した。 あまりにもあっさり頷かれて、エドワードは拍子抜けする。 ぽかんと弟の顔を見つめていると、にこりと微笑まれ、エドワードははっとなった。 呆気に取られていたことを誤魔化すように、こほん、と、小さな咳払いをひとつ零し、 「そうだろう!」 と、エドワードは我が意を得たり、と大きく頷いた。――のだけれど。 「でもいっつも頷くだけで、言葉にして言ってくれたことがないね」 溜息混じり、さらりと続けられた言葉に、思わず視線を逸らしてしまった。 アルフォンスの指摘は事実そのもの、図星だ。 今まで一度だって、アルフォンスに「好き」と言ったことがない。それを自覚しているエドワードとしては、反論したくてもできない。 下手に口を挟めば、いま以上に窮地に立たされることが解っているから、迂闊なことは言えない。 だからそっと視線を逸らしたわけだけれど、それはそれでアルフォンスの言葉を肯定しているのだと気づいて、エドワードは苦い気持ちで顔を顰めた。 「兄さんが言ってくれないから、ボクは聞きたいって。言って欲しいって言ってるんだけど……、ふぅ」 アルフォンスが大きな溜息を零した。 そうっと窺うようにして見ると、エドワードから視線を外し、エドワードの瞳の色より少しくすんだ金色の瞳を切なげに細め、哀愁を漂わせた表情で、アルフォンスは遥か遠くを見つめていた。 わざとらしい態度だと、エドワードは思う。 そんな手に引っかかってなどやるものか。そう思うのだけれど、居た堪れないような、居心地の悪いような、まるでなにか悪いことをしてしまっている、そんな、なんとも言いようのない気持ちになってしまう。 あー、うー、と、エドワードが唸っていると、「はぁ」と大きな溜息がまた耳に届いた。 なぜだか身の置き所がない気がしているエドワードの体が、自然と小さく縮こまる。 告白の言葉を強要されて、溜息をつきたいのはこっちだ。 言えるものならそう言いたい気持ちで、エドワードはいっぱいだった。が、悲しくも情けないことに、エドワードはそう言い出すことができない。 いわゆる「兄の威厳」というものが、日々起こしてしまうあらゆる――毎日いろいろと起こりすぎて、いちいち覚えていられない――ことで、失墜の一途を辿っているということもあるけれど、一番の理由は、エドワードがアルフォンスに対して無条件に甘くなってしまうからだ。 駄目だ、駄目だと思いながらもつい、うっかり甘くなってしまう。 アルフォンスはそれに気づいているだろうから、確信犯の可能性もある。 どうであるにしろ、エドワードは弟に勝てないのだ。 勝てた例など一度もないことを思い出して、エドワードは不機嫌に眉を寄せた。 エドワードの不機嫌な顔つきに気づいたアルフォンスが、ふと表情を曇らせて、顔を覗き込んできた。 不安そうにエドワードの瞳を覗きこみ、遠慮がちに声をかけてくる。 「兄さん、怒った?」 甘さの残った声に訊ねられ、エドワードはきょとんとアルフォンスを見返した。 なぜだか泣き出す一歩手前の表情で、アルフォンスがエドワードを見つめていた。 エドワードに見捨てられてしまうとでも思っていそうな、そんな情けない顔をしている弟に、エドワードは苦笑いと呆れの混ざった表情を向けた。 悔しいことに、エドワードよりも頭一つと半分背が高い弟の頭を、左手でくしゃりと掻き混ぜるように撫でてやると、安心したように、アルフォンスの体から、少しだけ強張りが抜けたようだった。 エドワードは苦笑を浮かべたまま、表情を緩めた弟の顔を覗き込むようにつま先立つ。 エドワードになにを言われるだろうと、まだわずかに警戒が残っているアルフォンスに、エドワードは笑顔を浮かべて見せ、言った。 「怒ってない」 「本当に?」 「怒ってないって。ちょっと……あれだ」 「あれ?」 わからないと、アルフォンスに首を傾げられて、エドワードは苦い顔つきになった。 言いたくはないけれど、言わなければいけないらしい。 「アルに勝てたことは一度もないって思いだした」 憮然とした面持ちで呟くように言うと、今度はアルフォンスがきょとんとした顔をした。 「ボクが言って欲しい言葉から、いったいなにを連想したんだよ、兄さん。いきなりどうしてそんなこと思い出してるのさ?」 訳がわからない、と、さらに首を傾げるアルフォンスに、 「だから、オレはアルを甘やかしてるなって」 肩を竦めてエドワードが言うと、アルフォンスが驚きの声を上げた。 「えぇ!? なに、それ? 納得がいかないよ! 兄さんを甘やかしているのは、僕のほうだよ!」 反論の声に、更に反論をしようとしたエドワードは、しかし、もう一度肩を竦めるだけに止めた。 そして、 「オレたち、お互い様ってことだよな」 ぽつりとそう言った。 アルフォンスが不満そうに何かを言いかけるのを、エドワードは眼差しで制し、言葉を継ぐ。 「オレたちはお互い様だ、アル。それで納得しとけ」 そう言ってから、エドワードはアルフォンスの顔に、自分の顔を近づけた。 驚いて目を見張るアルフォンスが可笑しくて、エドワードは口元だけで笑った。 「アル。アルフォンス」 アルフォンスの顔を引き寄せるように、両手を首に巻きつけ、最愛の名前を呼ぶ。 エドワードとアルフォンスの吐息が絡まる。 唇が触れるか、触れないか。ぎりぎりのところでいったん動きを止め、エドワードは、 「アルが、好きだ」 短い言葉を、はっきりと口にして言った。 そして、最愛の弟に告げたことばの余韻を届けるように、エドワードはアルフォンスの唇に口づけた。 END |