――Sweet & Bitter


 うさぎは目の前に鎮座しているものを、ぼんやりと見つめていた。
 見つめていた、というより、見つめるしかない、というのが正しいのかもしれないけれど、とにかく見つめていた。
 ぼんやりしたまま、思う。
(ちょっと、違うんじゃないかな?)
 ことり、と小首を傾げて、やっぱり思うのだ。
(うん、やっぱり、違うよね)
 これはこれで間違っていないのだと、聞いたことはある。でも、うさぎとしては違う……と言うか、納得がいかない。
 そう、納得がいかないのだ。
 すとん、と馴染んだ感情に満足げに頷いて、うさぎはくるりと上半身を捻り――――絶句した。
「…………」
 ぽかんと口を開けて、この家の持ち主を凝視してしまったのは、仕方がないことだと思う。
 もともと、とっても容姿の整った人なのだ。
 細身で中世的な体躯に、中世的な容貌。
 どんな格好をしても厭味なく着こなす人だから、たぶん、言葉もなく驚いているうさぎの反応が、大袈裟すぎるだけ。
 けれど、でも。
 うさぎは思う。
(反則だよ、はるかさん……)
 ウエイタースタイルまで似合ってしまうというのは、ちょっと……かなり、ずるいんじゃないだろうか。
 だって、なんだか……。
「見惚れるほど、僕は格好いいかな?」
 サイフォンからカップにコーヒーを注ぎながら、まるでうさぎの心を読んだようなタイミングではるかが言った。
 うさぎははるかの声に我に返って、ぱちぱちと瞬きを繰り返した後、
「びっくりした」
 と言って、不思議そうに訊ねた。
 びっくりしたのは二つの意味で。
 まずはひとつめの疑問を口にする。
 どうしてそんなものを持っているのだろう。
「それ、はるかさんの自前?」
「これ? 自前だよ。昔、文化祭でウエイターをしたときの衣装。ちょうどいいから流用。雰囲気が出るだろ?」
 悪戯っぽく笑って、はるかはうさぎにと用意したカップの中にもコーヒーを注いだ。
 優雅な手つきに、うさぎは言葉もなく視線を奪われてしまう。
 カップの中で、温めたミルクとコーヒーが混ざり合って、柔らかな色のカフェオレになり、はるかは出来上がった飲み物に満足そうに頷くと、銀色のトレイに二人分のカップを乗せた。
 無駄のない優雅な身のこなしで、はるかはキッチンからうさぎの待つリビングへと移動する。
 洗練されたその動きに、うさぎは「綺麗」と心のうちで呟く。
「おだんごのほうが『きれい』だよ」
 はい、これが本日のメニューだよ。
 飲み物をテーブルの上に置きながらはるかがそう言ったから、うさぎは吃驚してはるかを見つめた。
 また、心の中を読んだようなタイミングに、
「どうして?」
 と、思わず言葉が零れてしまったのは、しかたがないと思う。
「はるかさん、わたしの心の中が判るの?」
「判るって言うか……そうだね、おだんごの気持ちが、自然に僕の心の中に流れ込んでくるって言ったほうが近いかな」
 うさぎの隣の席に座って、魅力的な笑顔でそんなことを平然と口にするはるかに、顔を赤くして、
「恥ずかしいよ、はるかさん」
 唇を尖らせたうさぎが言った。
「わたし、そんなに判りやすいかなぁ?」
「そこがおだんごのいいところ」
「でも、短所にもなっちゃっているんでしょ?」
「良くも悪くもおだんごは素直だからね」
 苦笑混じりに言って、はるかはフォークを手に取った。
「さて、おだんごの長所と短所の話はこのくらいにして、今日を楽しまないとね」
 なんと言っても、一年の最初に、人目を憚らずにいちゃつけるイベント。
 もっとも、誰かに見せるのがもったいなくて、うさぎを家に招いての、デートだけれど。
「おだんごの好きそうなものを買ったんだ。食べて欲しいな」
 言いながら、はるかはフォークでケーキをひとかけら崩し取った。
 綺麗に整った手が、流れるような動きでケーキの欠片をうさぎの口元に運ぶ。
 逡巡は、一瞬。
 うさぎは恥ずかしそうにしながらも口を開いて、差し出されたケーキをぱくりと食べた。
 もぐもぐと咀嚼して、飲み込んで、満面の笑みを浮かべる。
 ほんのり甘くて、けれど、程よいカカオの苦味。
 さすが、有名なチョコレート専門店のケーキだ。
「おいしい」とありふれた言葉しか思い浮かばないけれど。
「お気に召した?」
 くすくすと楽しげに訊いたはるかにうんと頷いて、うさぎは「あ!」と声を上げた。
「おだんご」
 はるかが先手を打つようにうさぎを呼んだけれど、うさぎは黙って頷いたりはしなかった。
 だって、これじゃ……いつもと変わらない。
「今日はわたしがはるかさんにチョコレートをあげる日なのに!」
「そんなの、日本だけ。海外じゃ、男女関係なく、日頃お世話になっている人にカードを贈ったりするんだよ」
「でも、ここは日本だもん」
 むうっと頬を膨らませて、うさぎは不満顔で言った。
「わたしが、はるかさんにあげたいのに。貰っちゃたら意味ないよ」
「おだんごの気持ちだけで十分。それに、おだんごがそう思ってくれるのと同じ気持ちだから、僕はこれを買ったんだよ」
 愛しいプリンセス。
 きみの喜んでいる顔が見たくて。
 はるかのためだけに笑っている顔が、どうしても見たくて。
 独占したくて。
 今日を選んだのは、無言の宣戦布告。
 きっと、いまごろ、未来のキングは苦笑混じりに溜息をついていることだろう。
 そして、あのいけ好かないアイドルは、地団駄を踏んで悔しがっているに違いない。 
 未来のクイーンは、はるかの誘いを二つ返事で快諾した。
 その意味を、誰もが知っている。わかっている。
 ほんの少しの恐れを感じながら、けれど、未来を変えたい。それがはるかとうさぎの、偽らざる気持ち。
「おだんご、今日は何の日?」
「はるかさん?」
 問われている意味が判らない。
 うさぎは、はるかを見た。
「答えて、おだんご」
「……バレンタインデー、だよね?」
 それ以外に思いつかず、うさぎは促されるままに答えた。
 はるかがにっこりと笑う。笑って頷いた。
「正解。じゃあ、次の質問」
「え、まだあるの?」
「セントバレンタインデー。この日本では、どんなことをする日?」
「どんなって……」
 さっき言ったよ、と言いかけて、うさぎはその言葉を飲み込んだ。
 はるかが求めている答えは、さっきと同じで、だけど、ちょっと違う答えのような気がした。
「好きな人に、好きですって正直に気持ちを伝える日」
 一生懸命選んだ、あるいは作ったチョコレートを手に持って、抑え切れない想いを告げる日。
 一年に一度の、恋の生死を賭けた大イベント。
「今度も、正解。えらいね、おだんご」
 笑ってはるかはうさぎの髪に指を絡めた。
 そっと唇を寄せて言う。
「誰よりも愛しい人に、誤魔化しも、嘘もなく好きだって言う日」
 だから、用意したチョコレートケーキ。
 甘くて、少し苦くて。
「おだんご」
「うん」
「好きだよ」
「わたしもはるかさんが好きだよ」
「じゃあ、このケーキはちゃんと食べられるね?」
「……チョコレート、はるかさんのために選んだんだよー?」
「もちろん、ちゃんと貰うよ。でもこのケーキも食べて欲しいな」
「食べるけど……」
 交換していたんじゃ意味がないような気がする。
 少し拗ねたまま言ったうさぎは、仕方ないかな、と諦めたように笑って、うさぎのために用意されたお皿の上の、銀色のフォークに手を伸ばした。
「はるかさん、ありがとう」
 好きな人に美味しいものを食べてもらいたい。その気持ちは同じだから、細かいことに拘るのはもうやめよう。
 だって、せっかくはるかと一緒のバレンタインデーだ。
 切ない気持ちも、苦しい気持ちも。
 優しい気持ちも、楽しい気持ちも。
 愛しいという気持ちさえ、はじめてちゃんと知ったのは、はるかを好きになってから。
 ただ優しく穏やかなばかりだった衛との恋とは違う。
 恋なんて、可愛い感情じゃない。
 向けるのは、自分でも驚くほど深い感情。
 うさぎは髪に絡まったままのはるかの手を、そっと包み込むように引き寄せた。
「はるかさん、大好き」
 言ったものの、言葉だけじゃ伝えきれていない気がして、うさぎはそっとはるかの指先に口づけた。
 いつも、はるかがそうする仕草を真似て。
 唇に触れる熱の切なさが、うさぎの胸を緩く締め付けたような気がした。


                                    END