Bitter

 日本独特の風習に、心底、うんざりしながら、はるかは家路を歩いていた。
 立春を迎えてきっちり十日後の、本日。セントバレンタインデー。
 製菓会社の陰謀により、日本では女性から男性へ想いを込めたチョコレートを贈る日となった今日は、前後左右、どちらを向いても、安上がりの義理チョコ、本命用の高価なチョコ、あるいは手作りチョコレートと、さまざまなチョコレートで溢れかえっている。
 誰もが期待と落胆を表情に浮かべながら行き交う街の中を、はるかは不機嫌に歩いていた。
 普段、好きな人に好きと言えない人のために用意された、素敵な日だと素直に思う。
 引っ込み思案な人や、素直になれない人が、唯一想いを打ち明けられる日で。
 そんな人たちも幸せになれる可能性があるんだから、まあ、悪い日じゃないだろう。
 でも。
 苛立たしく息をついて、はるかは、でも、と思った。
 人の迷惑を顧みないどころか、受け取って当然とでもいう態度でチョコレートを押し付けるのは、いかがなものだろう、と、朝からのことを思い出して、また、重い溜息を零した。
 顔も名前も知らない女生徒たちから、
「義理チョコですけど、受け取ってください」
 と、チョコレートを押し付けられそうになったのは、すでに両手両足の指を足しても足りないほど。
「好きです」
 と、真剣な想いを込めた言葉と共にチョコレートを差し出されたのも、両手両足の指では足りない。
 はるかにチョコレートを渡してくれる気持ちは、純粋に、嬉しいと思う。
 受け取ってあげたい気持ちがないわけではないけれど、やはり、本命からもらうチョコレート以外は受け取るつもりはなかったから、はるかにしては丁寧に、差し出されたチョコレートすべてを断ったのだけれど、断った瞬間、受け取らないことそのものが悪いことのように睨まれたり、泣かれたりと、それはもう、散々な目に合ったのだ。
「泣きたいのは、僕のほうなんだけど」
 賑わう街の中に、はるかは呟きを落とした。
 そうだ。
 はるかこそ、泣きたい。
 はるかの大本命は、今頃、大事な彼氏とデートの真っ最中だろうか。
 彼女からもらえるのなら、義理チョコでもなんでも受け取るのに。
 欠片でだって、かまわない。
 けれど、きっと、義理チョコどころか欠片にだってはるかはあやかれないだろう。
 不器用な少女は一途で。
 悔しいくらいに一途に、ひとりだけを見つめていて。
 他の人間なんか、全然、眼中になくて。
 はるかは彼女に、せいぜい良いお友達。頼れる仲間、くらいにしか思ってもらえていないに違いない。
 はぁ、ともう何度目になるのか判らない溜息をついたはるかは、見慣れたシルエットをマンションの前で見つけて、思わず足を止めた。
「おだんご?」
 困ったように高層マンションを見上げている少女のあだ名を、はるかは口の中で呼んだ。
「おだんご!」
 今度は声を出して呼ぶと、弾かれたように少女――うさぎがはるかを振り返った。
「はるかさん!」
 弾んだ声で、笑顔ではるかを呼ぶ少女の元へ、はるかは駆け寄った。
「どうした?」
 衛さんとデートじゃないのか、と、続けようとしたはるかは、その言葉を慌てて飲み込んだ。
 あとで会う、なんて、最後通牒を、うさぎの口から聞きたくなかった。
「なにかあった?」
「ううん、なにもないよ。はるかさんに会いに来たの」
「僕に?」
 またなにかあったのかと訝しんだはるかに苦笑して、うさぎが首を振った。
 そして、思いもよらない言葉を口にして、はるかを戸惑わせる。
「うん、そうだよ。はるかさんに。――はい、これ。チョコレート」
「え……? あ、あぁ、ありがとう。……義理とはいえ僕にチョコレートを渡して、衛さんに怒られない?」
 うさぎが差し出したチョコレートを受け取りながら、はるかがそう言うと、うさぎの表情がわずかに曇った。
「うさぎ?」
 どうかした、と、尋ねようとしたはるかの耳に、少し拗ねているような声が届く。
「それ、義理じゃないよ」
「え?」
「はるかさんにだけ、だもん」
「うさぎ?」
 なにを言っているんだろう。
 義理じゃない?
 はるかにだけ?
 うさぎの言葉が脳に届いて。けれど、それを理解できなくて。
 はるかはうさぎの顔とチョコレートの箱を、交互に見つめた。
 はるかが見つめるたびに、うさぎが落ち着かないというようにそわそわと視線を彷徨わせる。
 やがて耐え切れないというように、うさぎがくるりと踵を返した。
 ふわりと、うさぎが穿いているフレアスカートの裾がドレスのように膨らむ。
 スカートの裾が落ち着いて、うさぎの長い髪も、揺れなくなって。
 はるかは細い背中をじっと見ていた。
「はるかさんにだけ。まもちゃんには、あげてないの。今日は約束もしてない」
「……うん」
 ぽつりと落とされるような言葉に、はるかはこくりと頷いた。
 うさぎははるかに背中を見せたまま、やっぱり、ぽつり、ぽつりと言葉を落とすみたいに話した。
「はるかさんにしか、あげたいって思えなかったの……。それ、はるかさんがどうしようと、それははるかさんの自由だけど……、あのね、はるかさん」
「うん、なに?」
「いますぐ返事はしないでほしいの。怖いから。心の準備、できてない。だから……来月まで、なにも言わないでくれる?」
 震える声にそう言われて、はるかは手の中に視線を落とした。
 市販じゃない箱。
 うさぎの手作りチョコレートが入っている、箱。
 欲しくて、欲しくて、でも諦めていた。
 義理チョコも、欠片さえも手に入らないと思っていたのに。
 本命チョコだよという、ニュアンスたっぷりのうさぎの言葉に、はるかはやっと、これが現実だと実感した。
「うさぎ」
 呼びかけて、細い背中をそっと抱きしめる。
 はるかの腕の中で、驚いたようにうさぎの体が跳ねたのは一瞬。
 震える体を強く抱きしめて、はるかはうさぎの耳元で囁いた。
「来月までなんて、僕が待てないよ。――ねぇ、うさぎ。僕がどれほどうさぎからのチョコレートを望んでいたか、知ってる?」
「知らない」
 はるかの腕の中で、小さくうさぎの首が振られる。
「知らない。……、もしわたしがそれを訊いたら……。教えてって言ったら、はるかさん、教えてくれる?」
「うん。教えてあげる。うさぎが、来月まで待たずに、すぐに、この後の時間を僕にくれるなら」
 そう言って、はるかがうさぎの耳に唇で触れると、うさぎの頬が真っ赤に染まった。
 こくん、と、微かに。白く細い首が縦に振られた。
「じゃあ、どうぞ、プリンセス」
 抱きしめていた体を離し、うさぎの手を取って、はるかはマンションのエントランスへと向かう。
 マンションのオートロック。そのエレベーターが開いて、はるかは一歩だけ。自分だけ、足を踏み入れ、歩みを止めた。
 そして、きょとんとしているうさぎを振り返り、
「言い忘れてたけど」
「なに、はるかさん?」
「チョコレートをありがとう。……それから、僕はうさぎを手放すつもりはないけど、覚悟はあるかな?」
 逃がさないと告げたはるかに返されたのは、華やかなうさぎの笑顔。
 それから、強く握り返された手。
「ありがとう」
 と、掠れそうになる声でそう言って、はるかはうさぎの手を引いて、再び歩きだした。
 静かに。
 はるかの背後で、自動ドアの閉まる音が、静かに響いた。

                               END

一年ぶりの更新です。
サボっていて、すみません。
         まどか