Valentine Day 2

 暖かい部屋の中。
 リビングの硝子の丸いローテーブルの上に、つめたく、つめたく冷やされたワインボトル。
 その隣には、はるかのバースディに贈ったワイングラス。
 グラスの中に、慣れない手つきで、零してしまわないように、慎重に。丁寧に。うさぎは淡く透明な黄色のワインを注いだ。
 とたん、甘い芳香が鼻腔をくすぐった。
「いい香りだね」
 うさぎの隣でじっと、ボトルから注がれる液体を見つめていたはるかが、目を細めながら嬉しそうにそう言った。
「――はるかさんの口に合うかなぁ?」
 ワインを注ぎ終えたうさぎは、心配そうに言う。
 うさぎが選んだこのワインは、普段から良質な本物に囲まれて、触れているはるかの口に合うだろうか。
 うさぎはお酒なんて飲み慣れないから、味の良し悪しが判らない。だから薦めてくれた店員のお姉さんの笑顔と、言葉を信用して、決して安価ではないアイスワインをはるかのために購入した。
 聞き慣れない、その名前にも惹かれて。
 不安を隠せないうさぎの前で、はるかの男性にしては綺麗な指先がグラスに伸ばされる。
 そっとグラスを持ち上げる指が、グラスをゆっくりと傾ける。
「……本当にいい香りがしているよ」
 楽しみだな、と言いながら、くん、と、はるかがワインの芳香を嗅ぐ。
 それからゆっくりとグラスに口をつけて、一口。
 口に含んだワインの味と香りをじっくりと味わったはるかの喉が上下に動いて、最初の一口が嚥下される。
 その様子をじっと見詰め、うさぎは試験の合否を待つような気分になりながら、はるかの形のいい唇が開かれるのを待っていた。
 とりあえず香りは合格点を貰っているようだけれど、香りがいいから味もいいとは限らない。今年のバレンタインの贈り物には、いったいどんな言葉を貰えるだろうか。
 酷評だったらどうしよう。
 内心、とてもドキドキしながら、うさぎは膝の上でぎゅっと握って置いている手の片方――左手の力をそっと抜いて、傍らの箱に手を伸ばした。
 黒い箱を縁取る、細い銀色のライン。ラメ入りの銀色のリボンが、直接箱にかけられただけの、シンプルな装丁の、本当ならば今日のメインであるチョコレートの入った箱が、指先に触れる。
 もしこのワインを気に入ってもらえなかったとしたら、はるかが好きだと言ったチョコレートで口直しをしてもらおうと思って買ったものだ。
 去年も渡したメーカーの、チョコレート。
 去年同様、今年も店頭で試食をして、ビターチョコレートが苦手なうさぎでも、これは素直に美味しいと思えたから買った、オランジェット。
 口の中でほろ苦く溶けるチョコレートと、オレンジコンフィの絶妙なバランスに、うっかり自分の分も購入したのは、内緒だ。
「――おいしい」
 はるかがとても嬉しそうに笑ってそう言って、はるかの言葉を聞いたとたん、うさぎはほっと安堵した。
 緊張に強張っていた体から力が抜ける。
 ほうっ、と、深く吐息を漏らすと、くすくすと、はるかがおかしそうに笑い声を零した。
「もう、はるかさん、笑わないで!」
 度が過ぎた緊張だったと、うさぎ自身それは良く解っていたけれど、それでもはるかの感想を聞くまで、安心できない。贈り物に対する感想に、過剰反応したって仕方がない。
 一年に一回の、女の子が積極的になってもいい日だよと、用意されたイベント。
 それも新年を迎えてから最初のイベントごとなんだから、できれば失敗なんてしたくない。たとえはるかがどんなものでも喜んで受け取ってくれるとしても。――どんなものでも笑って受け取ってくれる優しい人だからこそ、一番喜んでもらえるものを贈りたい。
 だから自然と力も入るし、緊張もするというもの。
 それらから解放された反動だって、当然、大きいものになる。
 もっとも、これは毎年くり返している光景だから、はるかに笑われても仕方がないのかもしれないけれど。
「そんなに緊張する必要、ないと思うけど。ぼくがおだんごの選んだものを気に入らないはずがないよ」
 うさぎの顔を覗き込んだはるかが、気障なウインクつきでそう言う。
 イベントごとの、はるかのお決まりの科白に、うさぎは拗ねればいいのか呆れればいいのか、それともやっぱり照れるしかないのかなと、実に複雑な気持ちになりながら、
「それでも緊張しちゃうよ」
 小さな声でそう言った。
「だって、はるかさんに喜んでもらえるものを、贈りたいよ。本心から、気に入ったよって。嬉しいって。これが好きだって言って欲しいもん。気を遣った言葉なんて、聞きたくないよ」
「ぼくがいつ気を遣ったって?」
 いつだって素直に感想を口にしているつもりだけど、と、はるかが不思議そうにいいながら首を傾げるのに、うさぎは少しだけ呆れてしまった。
「……最初の頃、手作りのチョコレート作ったけど、失敗しちゃって、でこぼこで硬いチョコレートになったとき、はるかさん、美味しいって言ったよ!?」
 試食をしてくれた親友たちや家族には、さんざん酷評された思い出があるそれには、もうひとつの思い出。
 でこぼこに出来上がったトリュフは、形だけが悪いだけじゃなく、硬くて。口の中でほろりと溶けるチョコレートにはほど遠かった。
 ひとつ摘んだうさぎ自身、ああ、これは大失敗だと泣きたくなったそれを、はるかは平然と「おいしい」と評しながらすべて食べきってくれたのだ。
 はるかの感想を親友たちに教えたときは、
「愛されてるわね」
「気遣われてるわねぇ」
 と、二通りのお言葉を頂いた。
 実際、愛されていると思う。そして、気を遣われているとも思う。
 はるかの誕生日。クリスマス。平日のランチや、ディナー。うさぎがはるかのために作った食事は、たいてい、失敗作だ。
 それでもはるかの口から「おいしくない」という言葉を聞かされた覚えはない。
 度重なる失敗に申し訳なくて、自然となにかを作るということは少なくなっているけれど。
 うさぎがたくさんの――できれば思いだしたくない失敗を思い出しながら言ったそれに、はるかはさらに深く首を傾げた。
「どれも美味しかったよ」
 甘い口調ではるかが言う言葉に、うさぎは眉を潜めた。
「それ、気を遣っているっていうと思う」
「気を遣って言っているんじゃないよ。本気で言ってる」
 おだんごは馬鹿なことを考えるなぁ、と、そう笑いながらはるかの優しい手がうさぎの髪を梳く。
「おだんごが僕のために作ってくれたから、たとえ失敗していても美味しいんだよ」
「はるかさん、気障」
 うさぎが困ったように眉を寄せて言うと、はるかが可笑しそうに笑いながら言った。
「おだんご限定だけどね」
 そして、やっぱり気障で、格好いいウインクつき。
「ほら、せっかくのバレンタインに、拗ねた顔していないで、笑って。それからそのチョコレートも食べさせてよ」
 うさぎの傍らの箱を指差し、楽しみにしていたんだ、と、蕩けるような笑顔つきの言葉に、うさぎは白旗を上げるようにそっと吐息を零して、傍らの箱を手に取った。
「はるかさん、ほどいて?」
 手の平に載せた箱を差し出す。
 はるかはうさぎの言葉に優しく目を細め、テーブルの上にグラスを置くと、うさぎが差し出した箱へと指を伸ばした。
 細くて綺麗な指先が、箱を飾るリボンをほどく。
 息を潜めるようにしながら、うさぎはその動きを見つめていた。
 リボンがほどかれて、箱を止めるシールが剥がされて。
「うさぎ」
 はるかだけが呼ぶ。愛称ではなく、名前で。
 甘えているサイン。
「食べさせてよ」
 にっこりと、はるかの優しくて甘い笑顔と声が、言った。
「もう、はるかさんってば」
 困ったようなふりをしながら、うさぎは箱の中からスティック状に作られたオランジェットを一本取り出した。
 それから、それを、はるかの口元に運ぶ。
「ハッピーバレンタイン、はるかさん。チョコレートを受け取ってくれて、ありがとう」
「おだんごこそ、今年も僕にチョコレートをありがとう」
 お返し、期待してて。
 その言葉が終わると同時に、うさぎが用意したチョコレートを、はるかは食べた。
 満足そうに細められる目。
 今年のチョコレートも、アイスワイン同様、はるかのお気に召したらしい。
 うさぎはチョコレートもはるかの口に合ったのだと、安心した。
「美味しいな、これも」
 はるかが嬉しそうに笑った顔に、うさぎもはるかに負けないくらいの笑顔を返した。

                                     終

はるうさが好きな皆様へvv
微妙な仕上がりですみません。