優しい手までの距離



 ああ、やっと逢えた。
 そっと頬に触れて、けれどすぐに遠ざかった体温に、うさぎはそう思った。思った瞬間に涙が溢れて、こぼれて、離れて行く懐かしくも温かな体温に手を伸ばしたくなる。
「はるかさん」
 囁くように唇に乗せた名前が愛しい。切ない。
 ぽろぽろ、ぽろぽろ。
 うさぎの丸みの残る頬の上を、涙が転がる。
 うさぎから一歩半離れたその人は、困ったように首を傾げた。そしてためらい、ためらい手を伸ばして涙を拭ってくれる。
 どこか遠慮がちでいて怯えたようなその仕草が、愛おしくも物足りない思いをかきたてる。ずいぶんと欲張りな自分に、うさぎは内心で呆れた。
 感情の制御はもともと上手くはないけれど、今日はいつも以上だ。
「そんな風に泣かれると、困る」
 心底困った声でそう言ったはるかは、次の行動を決めかねているようだった。自分の意思をきちんと持っているはるかにしては珍しい逡巡だ。
「はるかさんが離れて行くから、泣きたくなくても泣いちゃうんだよ」
「僕たちの使命は戦うこと。プリンセス、君を守ることだ。害意を持つものを近づけるわけにはいかない。僕が君を傷つけてしまう存在だから、なおさら。これ以上近づくわけにはいかない」
「はるかさんはわたしを傷つけるような人じゃないよ」
「タリスマンを見つけるため、散々君たちを──君を傷つけて泣かせた。泣かされた過去のことは忘れたのかな? お人好しのプリンセス」
「忘れてないよ」
 そう言い放ち、でも、とうさぎは続ける。
「でもやっぱりはるかさんはわたしを傷つけない」
「呆れたな。ベストとは言い切れない戦いを経験したっていうのに、君はとんだ甘ちゃんのまま……」
「ウラヌスなら! きっと使命のため、この宇宙を守るために、セーラームーンのことを傷つけてしまう決断をするかもしれない。けど、はるかさんはわたしを傷つけない人だよ」
 はるかの言葉を強い口調で遮って、うさぎはキッパリと言った。
 はるかが目を見張ってうさぎを見つめている。驚きを隠せない表情。信じられない言葉を聞いたと言いたげな、その顔。──ああ、本当に珍しい顔をする。その表情を引き出したのが自分だということに、うさぎは少し嬉しくなった。
「君は……」
 小さく唸るようにはるかが声を出した。が、続ける言葉を見つけられないのか口籠り、怜悧に見えがちな眼差しを伏せた。
 逡巡。戸惑い。反発。きっとはるかの心の中で様々な感情が渦巻いているのだろう。それをうさぎに悟られないよう、はるかは目を伏せたのではないだろうか。
 はるかの様子をそっと伺いながら、うさぎはそんな風に思う。
 どこまでも心を許してくれない人だ。
 悔しいな、寂しいな、と、はるかの心に近づけないままの自分が、うさぎには情けない。
 守られるばかりで、助けられるばかりで、支えられてばかりで。
 やっと出逢えた人の役に立てない自分がもどかしい。
 守りたくても、その孤高の心を守りきれない自分が情けない。
 どうして目の前の人はいつもいつも遠いのだろう。自分から遠ざかってばかりゆくのだろう。守らせてくれないのだろう。
 うさぎが近づいた倍以上の距離を置いて、離れてしまう人。
 やっと逢えたのに。
 本当はずっと焦がれていた人だった。
 それこそ生まれ変わる前から、武装を解いたウラヌスに、画面越しながら初恋にもなりきれない淡い想いを抱いていた。憧れてさえいた。
 はるかはそんなことさえ知らない。知ろうともしてくれないまま、ただ距離をとることばかりを選び取ろうとする。悔しいから、自分から手を伸ばして──はるかが逃げる間もない早さで捕まえてしまおうかと考えたところで、はるかが長く息を吐き出した。
「あぁ、まったく」
「はるかさ──」
「降参」
「え?」
「僕の負け」
 参った、と、ホールドアップの仕草で両手を上げたはるかを、うさぎはきょとんと見返した。
「負けたよ。逃げ切れる気がしない」
「はるかさん?」
「泣き虫でそこ抜けにお人好しのお姫さま、──君が好きだよ」
 はるかの手がためらいなくうさぎに伸ばされる。さっきすぐに離れていった手は、けれど今度は優しく慰撫するように頬に触れている。
 うさぎの頬の温度を確かめるように触れる温かな、はるかの手。そのやさしい温度。
 さっきと違って愛しさだけでいっぱいになって、また、涙がこぼれた。そのとたん、はるかの眼差しが仕方がないなと言うように、けれど甘く細められた。
 隠されることなく向けられる感情。その心地良さがうさぎの心をふわふわとした幸せな気分で満たしていく。
 ためらいも遠慮もなにもなく、素直に手を伸ばして良いのだ。
 うさぎはそう理解して、愛しさを押し隠さずに頬を包む手に、自分の手を重ねた。うさぎの指よりも大きくて長くて、骨張った手。ひんやりとした印象だった手は、想像よりもずっと熱かった。
 互いの熱が手を通して溶ける──錯覚。
 幸福がうさぎを満たしていく──現実。
「はるかさん、大好き!」
 やっと聞けたはるかの素直な気持ち。その言葉に、うさぎはとびっきりの笑顔で応えた。




                                                                   END