Antinomy〜Another World 2





 いったい、どこで、なにを間違ってしまったのだろうか、と、ロイ・マスタングは夜の闇を凝視しながら考えていた。
 有能な錬金術師をスカウトする、そんな些細な命令を受けたことか? 書類不備に気づかずにあの辺境の村に向かって、出会い、可能性を、道を提示したことだろうか? あるいはそうしたことによって、死に掛けた魂と瞳に焔を点けたこと? そして、ロイを訪ねてきた彼をセントラルへと導き、試験を受けさせ、最年少国家錬金術師になった彼の、後見役のような立場になったことか?
 その後、決して多くはない時間を共有することになり、いつのまにか、惹かれていたことだろうか?
 惹かれて、しかしそれを認めることがなかなかできず、……しかし、どうしても、なにをしていても思考を奪われてしまうから、受け入れようと思いはじめた。けれど、彼の心を手に入れることができない現実に気づかされ、本心を偽って、嘘をついて、体を繋げる関係を作り上げたことだろうか。
 どれもこれも的を射ているようで、射ていない。合っているようで、合っていない気がして仕方がない。
「――ああ、嘘をついたことは間違っているか」
 本心を偽ったこと。嘘をつき続けていること。そんなことからはじめてしまったのは確かに、間違いだった、と言い切れるだろう。
 では、最初の間違いは嘘をついたことなのだ。
 そこから、すべてが違う方向に進みはじめた。
 自嘲の笑みを浮かべて、ロイはグラスの中に残っていた酒を煽った。
 苦味が口の中に広がる。
 いつもは美味いと思うはずのそれを、今日は美味いとは思えない。
 思えない理由は簡単だ。
 ちらりと、ベッドのある方向に視線をやった。
 小柄な山が、ひとつ。
 耳を澄ませば、規則正しい寝息が聞こえる。シーツの隙間から覗くのは、ハニーブロンドの髪。
 闇の中、それは淡く滲んで見える。
「鋼の……」
 呼んでも返る声はない。ついさっきまでロイに貪るように抱かれて疲れ果てた体を、睡眠によって休ませているのだから。
 グラスをサイドテーブルに置き、体を凭れかけさせていた窓枠から離れて、近づく。
 少年の域を出ない、丸みを帯びた頬に手を伸ばして触れた。
 肌理細かい感触が、指先に伝わる。
 愛しむように撫でると、ロイの指先から逃げるように寝返りを打つ。
 苦々しく、ロイは笑った。
 眠っていてさえ、捕まえられない。
「いまさら好きだと言っても、どうせ信じてはくれないだろうな」
 最初に抱いたとき、ロイは言ったのだ。
 求めて、狂いそうになる心を押し殺して、言った。
『退屈しのぎに抱くだけだ。君のことが好きなわけではないよ、鋼の』
 言えば、傷つけることは解っていた。実際、彼は少しだけ傷ついた表情を見せた。それでも――傷つけると解っていてもそう言ったのは、自分が傷つかないよう、防衛線を張ったからに過ぎない。
 少年の視線の先、思いの先には、常に弟がいた。
 どんなときでも、最優先される存在。エドワードの心を独占している、鎧の子供。
 エドワードの、弟に向ける気持ちが家族としてのものなのか、家族を超えたものなのかは、ロイには判断がつけられない。つけられないけれど、エドワードの心を占めている存在であることには変わりない。
 ロイがエドワードの心を独占できるとは思えなかった。
 欲しいものを手に入れられないことで、傷つくことを恐れた。
 打算が、働いたのだ。
 アルフォンスという存在に、完全な負けを思い知らされないように、と。
 嘘をついて、本心を隠して、リスクも傷も大きくて――深くて。最良の方法を取れたとは思えないし、思わないが、少なくともエドワードの心の中にロイの存在を刻み付けることはできた。
 ふとした瞬間――それは一秒にも満たないような時間だろうが、弟ではなくロイを思い出す。その程度だろうけれど、エドワードの心の中に隙間を作らせ、侵入することはできた。
 たとえそれが悪感情であったとしても、なんの感情も向けられないよりはマシだと思う。
 そんなふうに思う自分は、病んでいるのかもしれないな、と自嘲する。
 まったく、救いがたい。
「鋼の」
 呼びかけて、髪に唇を寄せた。
 ロイの髪と同じ香りが鼻腔を擽る。
 この香りに、彼の弟が気づくことはない。
 そんなことで優越を感じる自分は、どうしようもない愚か者だと思う。思うけれど、こんなことぐらいしか、共有できる秘密を持ち得ないのだ。
 最初についた嘘のために、自分で自分の首を絞めてしまっている、この現状では。
「情けない限りだな……」
 自嘲しかこもっていない呟きにも当然返る声はなく、穏やかな、規則正しい寝息が続くだけ。
 いっそ、このまま。
 時々、そう思うことがある。
 そして、いまも、思った。
 馬鹿げている。そうしたとして、いったい、どんな満足が得られるというのか、と、自分を嘲笑ってしまう。でも、思ってしまう。考えてしまうのだ。
 このまま、この子供を閉じ込めてしまえたら、と。
 ロイ以外を見ないように、ここに。籠の中の鳥のように、と。
 それは、子供の道を閉ざす行為だと判っていても、思わずにはいられない。
「閉じ込めてしまえば、キミは私を見てくれるのかな?」
 弟ではなく、ロイを。
 弟のことよりも、ロイのことを優先してくれるだろうか? 考えてくれるのだろうか……。
 いつでも、どんなときでも?
「――ありえないな」
 馬鹿馬鹿しい、と、ロイは嘆息した。
 ありえない。
 なぜなら、この子供は。エドワードは、ロイのことなど心にもとどめていない。
 最初のロイの言葉を真に受けて、退屈しのぎに抱いているのだと信じているのだろう。
 エドワードがロイからの、屈辱的でしかない行為を甘んじて受けている理由は判らないが。
「等価交換か?」
 情報を回してもらっていることへの、変なところで律儀な、彼なりの返し方であろうか。……そう考えれば、なるほど、納得がいく。
「キミは私が誰といても、誰を抱いても、気にもしない」
 我儘で、身勝手な言い分だと理解している。しているけれど、感情は別だ。
「私を見て欲しい。思いを受け取って欲しい、それだけなのだがね」
 今となっては言い訳でしかない、そして、言えない言葉だ。
「鋼の……」
 名前を呼ぶ勇気すらない自分が、憐れだと思う。
 知って欲しいのに、知られてはいけない想いがこもってしまいそうで、名前だけはどうしても呼べない。
 知られてしまえば……知ってしまえば。
「キミは離れて行くのだろう?」
 他からの真剣な想いなどいらない。必要はないから、と、そう言って、ロイの傍から去り、二度と近づかないだろう。
 弟の傍でだけ、生きてゆく未来を選ぶのだろう。今までと変わらず。それまで以上に閉塞的な世界で、ふたりきりで。
 誰の――ロイの手の届かない、場所で。
「それは、嫌だな」
 抱いていてさえ、捕まえられたという実感をもてないのに。逃げられてしまえば、二度と触れることもできない。
 探し出す術を、見出せない。
「鋼の」
 狂おしく呼んで、ロイは眠るエドワードの左手を取った。
 安眠妨害だと喚くだろうが、無視してしまえばいい。
 こんなに飢えている心を静められるのは、エドワードしかいないのだから。
 掴んだ左手の手首に唇を寄せた。
 さきほどの行為の最中につけた痕が目に付いて、ロイは目を細める。
 熱に浮かされながら、それでも行為に流されずに、ロイを睨みつけた琥珀色の瞳。その瞳に強く非難の色を乗せて、エドワードは言ったのだ。
「痕をつけるな」
 と。
 そんなことを言い出した理由は、すぐに判った。
 弟に見咎められるからだ。知られたくないからだ。
 ロイは荒れ狂う嫉妬心を押さえつけ、わざと愉しんでいる表情を浮かべて見せながら痕をつけた。
 きつく睨みつける瞳に、さて、どんな反応を返すだろうかと、興味と期待とを込めて、
「独占宣言だよ」
 言ってみた。
 エドワードは一瞬大きく目を見開いて、ロイを凝視した。
 信じられない言葉を聞いたように、呆然としていた。
 そして、ほんの一瞬、顔が歪んだ。
 嫌悪感でないそれは、泣き出す寸前のそれに似ていた、と、そう思うのはロイの勝手な想像でしかないのだろう。
「ぅ……ん、なに? 大佐?」
 行為の余韻の消え去らない肢体への刺激に、エドワードの意識が覚醒されたようだった。
 眠り足りていない、舌足らずな口調でロイを呼ぶ。
 無防備で幼い子供のような口調は、普段の生意気ばかりが目立つ態度とのギャップを感じさせ、ロイを苦笑させる。
「……もう少し、付き合いたまえよ」
 囁くように言って、華奢な首筋にキスを仕掛ける。
「あ……っ、……冗談、やめろよ! さっき、散々しただろうがっ!」
 点された熱をなんとか静めようとするエドワードの努力を、ロイは端から崩してゆく。
「大佐っ!」
 悲鳴と喘ぎの混じった非難の声を綺麗に無視して、ロイは快楽の熱に飲み込まれようとしているエドワードを煽りたてる。
「いい加減にしろよ、大佐っ!」
「足りないんだよ、鋼の」
「オレは、明日も、読まなくちゃダメな本があるんだよ、あんたに付き合っていられないんだ」
 愛撫に喘ぎながら、そんなことをエドワードは言った。
 ロイは嘆息する。
 また、文献か。弟を元の体に戻すことに繋がるもの。
 こんなときでさえ、ロイの前に立ちはだかる。
 どんな時でも、エドワードの心の中から弟のために繋がるものは消えないらしい。
 興醒めして、エドワードの肢体を辿っていた指先を離す。
「あ……」
 ロイが体を離すと、名残惜しむような声をエドワードが出した。
 それに気づかぬ振りで、ロイはサイドテーブルに置いたグラスに手を伸ばす。
 残りを、一気に煽る。
 喉を焼くような熱さに、少しだけ眉を寄せた。
「……休みなさい」
 何か言いたそうなエドワードの表情に、しかし、なにを言う暇も与えずに、ロイは先手を打ってそう言うと、ドアに向かった。
「大佐?」
 どこに行くつもりだと問いかけるような声に、振り返らないままロイは答えた。
「ゆっくり休みたまえ。目が覚めたら、好きなときに、勝手に帰ってくれればいい」
 挨拶はいらない。
 ロイの言葉にエドワードが息を飲んだような気配がしたが、ロイは振り返らなかった。
 いま振り返れば、取り返しのつかないことをしてしまいそうだった。
 閉じ込めてしまいそうだった。
 弟の元になど帰さない、と、そう口走ってしまいそうだった。
 勝ち目などないのに。
 リビングに行き、ソファに体を投げ出すように寝転んだ。
 硬いスプリングに眉を寄せる。
 転寝するときには気にはならないが、体を休めたいときには向かないな、と、内心で大きく息をついて目を閉じる。
「鋼の……ときどき、本気でキミを嫌いになれたらと思うよ」
 ロイの想いにも気づかず、ロイが望むままに体を差し出すエドワードを、嫌いになれたらどんなにいいだろう、と、考えた。
 考えて、けれど、決して嫌いにはなれない自分に苦笑する。
「まったく、自分の嘘がこんなにも苦しい現実を作り出すとは……因果だな」
 溜息をつくべきか、苦笑するべきか。
 いまの状況ではどちらが相応しいのだろうと、どうでもいいようなことを思う。
 思いながら、
「素直に、君のことが好きだと言っていれば良かったな……」
 ロイは呟いた。
「エドワード、君のことを、とても好きだよ」
 これから先も口にすることのない言葉を、ロイは、気紛れで唇に乗せてみた。
 一番聞いて欲しい人に聞かれることのない、最初で最後の告白の言葉は、リビングの闇に溶けて、――消えた。




                                   END