いったい、どこで、なにを間違ってしまったのだろうか、と、ロイ・マスタングは夜の闇を凝視しながら考えていた。
有能な錬金術師をスカウトする、そんな些細な命令を受けたことか? 書類不備に気づかずにあの辺境の村に向かって、出会い、可能性を、道を提示したことだろうか? あるいはそうしたことによって、死に掛けた魂と瞳に焔を点けたこと? そして、ロイを訪ねてきた彼をセントラルへと導き、試験を受けさせ、最年少国家錬金術師になった彼の、後見役のような立場になったことか?
その後、決して多くはない時間を共有することになり、いつのまにか、惹かれていたことだろうか?
惹かれて、しかしそれを認めることがなかなかできず、……しかし、どうしても、なにをしていても思考を奪われてしまうから、受け入れようと思いはじめた。けれど、彼の心を手に入れることができない現実に気づかされ、本心を偽って、嘘をついて、体を繋げる関係を作り上げたことだろうか。
どれもこれも的を射ているようで、射ていない。合っているようで、合っていない気がして仕方がない。
「――ああ、嘘をついたことは間違っているか」
本心を偽ったこと。嘘をつき続けていること。そんなことからはじめてしまったのは確かに、間違いだった、と言い切れるだろう。
では、最初の間違いは嘘をついたことなのだ。
そこから、すべてが違う方向に進みはじめた。
自嘲の笑みを浮かべて、ロイはグラスの中に残っていた酒を煽った。
苦味が口の中に広がる。
いつもは美味いと思うはずのそれを、今日は美味いとは思えない。
思えない理由は簡単だ。
ちらりと、ベッドのある方向に視線をやった。
小柄な山が、ひとつ。
耳を澄ませば、規則正しい寝息が聞こえる。シーツの隙間から覗くのは、ハニーブロンドの髪。
闇の中、それは淡く滲んで見える。
「鋼の……」
呼んでも返る声はない。ついさっきまでロイに貪るように抱かれて疲れ果てた体を、睡眠によって休ませているのだから。
グラスをサイドテーブルに置き、体を凭れかけさせていた窓枠から離れて、近づく。
少年の域を出ない、丸みを帯びた頬に手を伸ばして触れた。
肌理細かい感触が、指先に伝わる。
愛しむように撫でると、ロイの指先から逃げるように寝返りを打つ。
苦々しく、ロイは笑った。
眠っていてさえ、捕まえられない。
「いまさら好きだと言っても、どうせ信じてはくれないだろうな」
最初に抱いたとき、ロイは言ったのだ。
求めて、狂いそうになる心を押し殺して、言った。
『退屈しのぎに抱くだけだ。君のことが好きなわけではないよ、鋼の』
言えば、傷つけることは解っていた。実際、彼は少しだけ傷ついた表情を見せた。それでも――傷つけると解っていてもそう言ったのは、自分が傷つかないよう、防衛線を張ったからに過ぎない。
少年の視線の先、思いの先には、常に弟がいた。
どんなときでも、最優先される存在。エドワードの心を独占している、鎧の子供。
エドワードの、弟に向ける気持ちが家族としてのものなのか、家族を超えたものなのかは、ロイには判断がつけられない。つけられないけれど、エドワードの心を占めている存在であることには変わりない。
ロイがエドワードの心を独占できるとは思えなかった。
欲しいものを手に入れられないことで、傷つくことを恐れた。
打算が、働いたのだ。
アルフォンスという存在に、完全な負けを思い知らされないように、と。
嘘をついて、本心を隠して、リスクも傷も大きくて――深くて。最良の方法を取れたとは思えないし、思わないが、少なくともエドワードの心の中にロイの存在を刻み付けることはできた。
ふとした瞬間――それは一秒にも満たないような時間だろうが、弟ではなくロイを思い出す。その程度だろうけれど、エドワードの心の中に隙間を作らせ、侵入することはできた。
たとえそれが悪感情であったとしても、なんの感情も向けられないよりはマシだと思う。
そんなふうに思う自分は、病んでいるのかもしれないな、と自嘲する。
まったく、救いがたい。
「鋼の」
呼びかけて、髪に唇を寄せた。
ロイの髪と同じ香りが鼻腔を擽る。
この香りに、彼の弟が気づくことはない。
そんなことで優越を感じる自分は、どうしようもない愚か者だと思う。思うけれど、こんなことぐらいしか、共有できる秘密を持ち得ないのだ。
最初についた嘘のために、自分で自分の首を絞めてしまっている、この現状では。
「情けない限りだな……」
自嘲しかこもっていない呟きにも当然返る声はなく、穏やかな、規則正しい寝息が続くだけ。
いっそ、このまま。
時々、そう思うことがある。
そして、いまも、思った。
馬鹿げている。そうしたとして、いったい、どんな満足が得られるというのか、と、自分を嘲笑ってしまう。でも、思ってしまう。考えてしまうのだ。
このまま、この子供を閉じ込めてしまえたら、と。
ロイ以外を見ないように、ここに。籠の中の鳥のように、と。
それは、子供の道を閉ざす行為だと判っていても、思わずにはいられない。
「閉じ込めてしまえば、キミは私を見てくれるのかな?」
弟ではなく、ロイを。
弟のことよりも、ロイのことを優先してくれるだろうか? 考えてくれるのだろうか……。
いつでも、どんなときでも?
「――ありえないな」
馬鹿馬鹿しい、と、ロイは嘆息した。
ありえない。
なぜなら、この子供は。エドワードは、ロイのことなど心にもとどめていない。
最初のロイの言葉を真に受けて、退屈しのぎに抱いているのだと信じているのだろう。
エドワードがロイからの、屈辱的でしかない行為を甘んじて受けている理由は判らないが。
「等価交換か?」
情報を回してもらっていることへの、変なところで律儀な、彼なりの返し方であろうか。……そう考えれば、なるほど、納得がいく。
「キミは私が誰といても、誰を抱いても、気にもしない」
我儘で、身勝手な言い分だと理解している。しているけれど、感情は別だ。
「私を見て欲しい。思いを受け取って欲しい、それだけなのだがね」
今となっては言い訳でしかない、そして、言えない言葉だ。
「鋼の……」
名前を呼ぶ勇気すらない自分が、憐れだと思う。
知って欲しいのに、知られてはいけない想いがこもってしまいそうで、名前だけはどうしても呼べない。
知られてしまえば……知ってしまえば。
「キミは離れて行くのだろう?」
他からの真剣な想いなどいらない。必要はないから、と、そう言って、ロイの傍から去り、二度と近づかないだろう。
弟の傍でだけ、生きてゆく未来を選ぶのだろう。今までと変わらず。それまで以上に閉塞的な世界で、ふたりきりで。
誰の――ロイの手の届かない、場所で。
「それは、嫌だな」
抱いていてさえ、捕まえられたという実感をもてないのに。逃げられてしまえば、二度と触れることもできない。
探し出す術を、見出せない。
「鋼の」
狂おしく呼んで、ロイは眠るエドワードの左手を取った。
安眠妨害だと喚くだろうが、無視してしまえばいい。
こんなに飢えている心を静められるのは、エドワードしかいないのだから。
掴んだ左手の手首に唇を寄せた。
さきほどの行為の最中につけた痕が目に付いて、ロイは目を細める。
熱に浮かされながら、それでも行為に流されずに、ロイを睨みつけた琥珀色の瞳。その瞳に強く非難の色を乗せて、エドワードは言ったのだ。
「痕をつけるな」
と。
そんなことを言い出した理由は、すぐに判った。
弟に見咎められるからだ。知られたくないからだ。
ロイは荒れ狂う嫉妬心を押さえつけ、わざと愉しんでいる表情を浮かべて見せながら痕をつけた。
きつく睨みつける瞳に、さて、どんな反応を返すだろうかと、興味と期待とを込めて、
「独占宣言だよ」
言ってみた。
エドワードは一瞬大きく目を見開いて、ロイを凝視した。
信じられない言葉を聞いたように、呆然としていた。
そして、ほんの一瞬、顔が歪んだ。
嫌悪感でないそれは、泣き出す寸前のそれに似ていた、と、そう思うのはロイの勝手な想像でしかないのだろう。
「ぅ……ん、なに? 大佐?」
行為の余韻の消え去らない肢体への刺激に、エドワードの意識が覚醒されたようだった。
眠り足りていない、舌足らずな口調でロイを呼ぶ。
無防備で幼い子供のような口調は、普段の生意気ばかりが目立つ態度とのギャップを感じさせ、ロイを苦笑させる。
「……もう少し、付き合いたまえよ」
囁くように言って、華奢な首筋にキスを仕掛ける。
「あ……っ、……冗談、やめろよ! さっき、散々しただろうがっ!」
点された熱をなんとか静めようとするエドワードの努力を、ロイは端から崩してゆく。
「大佐っ!」
悲鳴と喘ぎの混じった非難の声を綺麗に無視して、ロイは快楽の熱に飲み込まれようとしているエドワードを煽りたてる。
「いい加減にしろよ、大佐っ!」
「足りないんだよ、鋼の」
「オレは、明日も、読まなくちゃダメな本があるんだよ、あんたに付き合っていられないんだ」
愛撫に喘ぎながら、そんなことをエドワードは言った。
ロイは嘆息する。
また、文献か。弟を元の体に戻すことに繋がるもの。
こんなときでさえ、ロイの前に立ちはだかる。
どんな時でも、エドワードの心の中から弟のために繋がるものは消えないらしい。
興醒めして、エドワードの肢体を辿っていた指先を離す。
「あ……」
ロイが体を離すと、名残惜しむような声をエドワードが出した。
それに気づかぬ振りで、ロイはサイドテーブルに置いたグラスに手を伸ばす。
残りを、一気に煽る。
喉を焼くような熱さに、少しだけ眉を寄せた。
「……休みなさい」
何か言いたそうなエドワードの表情に、しかし、なにを言う暇も与えずに、ロイは先手を打ってそう言うと、ドアに向かった。
「大佐?」
どこに行くつもりだと問いかけるような声に、振り返らないままロイは答えた。
「ゆっくり休みたまえ。目が覚めたら、好きなときに、勝手に帰ってくれればいい」
挨拶はいらない。
ロイの言葉にエドワードが息を飲んだような気配がしたが、ロイは振り返らなかった。
いま振り返れば、取り返しのつかないことをしてしまいそうだった。
閉じ込めてしまいそうだった。
弟の元になど帰さない、と、そう口走ってしまいそうだった。
勝ち目などないのに。
リビングに行き、ソファに体を投げ出すように寝転んだ。
硬いスプリングに眉を寄せる。
転寝するときには気にはならないが、体を休めたいときには向かないな、と、内心で大きく息をついて目を閉じる。
「鋼の……ときどき、本気でキミを嫌いになれたらと思うよ」
ロイの想いにも気づかず、ロイが望むままに体を差し出すエドワードを、嫌いになれたらどんなにいいだろう、と、考えた。
考えて、けれど、決して嫌いにはなれない自分に苦笑する。
「まったく、自分の嘘がこんなにも苦しい現実を作り出すとは……因果だな」
溜息をつくべきか、苦笑するべきか。
いまの状況ではどちらが相応しいのだろうと、どうでもいいようなことを思う。
思いながら、
「素直に、君のことが好きだと言っていれば良かったな……」
ロイは呟いた。
「エドワード、君のことを、とても好きだよ」
これから先も口にすることのない言葉を、ロイは、気紛れで唇に乗せてみた。
一番聞いて欲しい人に聞かれることのない、最初で最後の告白の言葉は、リビングの闇に溶けて、――消えた。
END
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