Honey


        透明な硝子の中、とろりと落としこんだそれは、たぶん、媚薬。



 気難しい顔をして、書類と睨めっこをしている男を見ていたのは、ほんの一瞬。
 背後のざわついた空気を遮断するように、ドアを閉じた。
 珍しく仕事に集中している男は、エドワードが入ってきたことにも気づいていないようだった。
 そう言えば、ノックに対する応えもなかったなと、思い出す。珍しい。
 預けられたものを零さないように気をつけながら、エドワードは男が座っているデスクに近づいた。
 必要もないので、気配は殺さず隣に立つ。が、厳しい眼差しは書面に落とされたまま、エドワードに気づくことはない。
 少し、面白くない。
 面白くないけれど、わざわざ声をかけて意識をこちらに向けさせるのも、嫌だ。エドワードに気づきもしない態度に、拗ねているように思われるのが癪だ。
 だからエドワードは、ホークアイ中尉に預けられたカップを、黙ってデスクの上に置いた。
 耐熱硝子の中の液体は、柔らかな黄色。
 カモミールティーなのだと、中尉が教えてくれた。
 ハーブティーは飲んだことがなかったから、どんな味なのかと興味津々でいると、中尉が
「飲んでみる? カモミールティーはリラックス効果があるから」
 とそう言って淹れてくれたけれど、癖のある味に、エドワードは顔を顰めてしまった。
 眉根を寄せたエドワードに気分を害することもなく、小さく笑った中尉は小さなビンを取り出して、なんだろうと首を傾げるエドワードの持っているカップの中に、とろりとしたそれを落とし込み、「飲んでみて」と柔らかな笑顔を浮かべてそう言った。
 スプーンでかき混ぜられて、熱い液体に溶け込んでいく、不思議な液体。
 中尉に言われるままに飲んでみると、さっき飲んだときとは味が変わっていた。
 少しだけ甘くて、柔らかく、飲みやすい味だ。
 眼を瞬きながら、エドワードはホークアイ中尉を見て、言った。
「ホークアイ中尉、いまの、なに?」
「ティーハニーと言って、蜂蜜と紅茶をブレンドしてあるのよ。ハーブティーが飲みやすくなったでしょう?」
「うん」
「紅茶にも入れられるわよ。良かったら、もらってちょうだい。頂き物なのだけれど、わたしひとりでは使いきれそうにないから。……あ、でも、エドワードくんはコーヒー派だったかしら?」
「コーヒーを飲むことが多いけど、紅茶を飲まないわけじゃないから。もらっていい?」
「ええ、どうぞ」
 好きなものを持って行ってね、と、小さな籠いっぱいに詰め込まれたビンを差し出され、その中から二瓶ほどもらった。
 缶詰状態になっている上官のためにと、ホークアイ中尉が淹れたハーブティーの中に、エドワードは自分がもらったティーハニーをスプーン一杯分だけ落とし込み、男の執務室に訪れたのだけれど。
 温かな湯気を立ち上らせているカップが、そろそろ中身と共に冷めてしまいそうになっても、肝心の男は気づきもしない。
 これでは中尉の気遣いが無駄になってしまうなぁ、と、嘆息して、エドワードは書類とデート中の男に声をかけることにした。
「大佐」
 一度目。
――聞こえていないらしい。
「おい、大佐」
 二度目。
(……も駄目か)
 溜息を吐き出して、エドワードは三度目に挑戦する。
「おーい、大佐?」
 コンコン、と、デスクの上を叩くオプションつきの声かけも、失敗に終わった。
 エドワードの集中力は並外れている、と、常々揶揄と呆れを込めて言われるけれど、目の前の男の集中力もたいしたものだとエドワードは思う。
 これを日々発揮していれば、切羽詰る状況などそうそう作る必要もないと思うのだが、いかんせん、目の前の男は手を抜きたがる傾向が人一倍強いから、書類に追われる羽目になるのだろう。
「今日できることは明日やる!」と、堂々と中尉に向かってのたまったと聞いた記憶がある。
 それを聞いたときは、なんて命知らずな、とエドワードは笑った。
「嫌なことも面倒なことも、さっさと終わらせてしまえば、楽ができるのに」
 そう呟いたエドワードも、ときおり、面倒なことを後回しにしてしまうけれど、ロイほど切羽詰った状況に陥ることはない。ちゃんと計算している。が、それでも弟に言わせれば、「兄さんはどうしてすぐに面倒なことを後回しにしてしまうんだよ。さっさと片付けてしまえば、もっと楽ができるのに」らしいから、要領が悪い部類なのだろう。
 もっとも、アルフォンスと比べれば、大抵の人間が要領の悪い人間になると思うけれど。
「どうするかなぁ」
 そろそろ冷めてしまった気がするカップと、書類に目を落としたままの男を、交互に見つめた。
「中尉の気遣いが、無駄になっちまうよな」
 溜息をついて、さて、どうしようかと首を捻ったエドワードは、ふと思いついた方法に頬を引き攣らせてしまった。
「阿呆すぎるだろ、いくらなんでも……」
 呟きつつ、でもちょっと試してみたいかなぁ〜、なんて思ってみたりする。
 昔から好奇心は旺盛だった。
「試してみるか……」
 反応を返すのか、返さないのか。
 誰か女性の名前でも呼べば、それをネタにしばらくからかえるよなぁ、なんてことも考えながら、エドワードは思いついたそれを実行に移した。
 男の傍に身を寄せ、耳元に顔を近づける。
 耳に唇が触れるか触れないか。そんなぎりぎりのところで、エドワードは呼んだこともない男のファーストネームを口にした。
 なぜだか、とてもドキドキした。
「ロイ」
 呼んだ本人にも聞き取れないほどの、小さな囁き。だから、呼ばれた当人が聞こえなくても、それは当然――――のはず、だった。
 放り出すようにしてペンがデスクに置かれるのを、エドワードは目の端で捕らえていた。
 なにが起こったのか認識できないまま、強引な力で体を攫われて、
「え? え? なんだよ……?」
 戸惑った声を上げたときには、ロイ・マスタングを見下ろしていた。
「え、大佐……?」
 なんでオレの視点は高いんだ? 疑問に思ったエドワードは、自分が座らされている場所に気づいてぎょっとなる。
「うわっ、なんだよ、なんてところに座らせてんだよ、あんたはっ!?」
 エドワードが座らされていたのは、ついさっきまでロイが執務をこなしていたデスクの上、だった。
「やあ、鋼の」
 にっこりと、甘い笑みを浮かべてロイはエドワードの銘を呼ぶ。
 それが胸に痛い気がするのは、どうしてだろう?
 思考の隅でそんなことを考えながら、エドワードは居心地悪い思いをしながら「よう」と返した。
 デスクの上から降りたくても降りられない。
 エドワードを阻むように、ロイは椅子に座ったままだし、その上、どういう意図があるのか解らないけれど、エドワードの両手首はロイに掴まれてしまっている。
「大佐、手を放してくれよ」
 顔を顰めて言うと、
「断る」
 にっこり笑顔で拒否された。
「は?」
 断る? なんで? 断られる理由がエドワードには解らない。理解できない。
 怪訝な顔をしていると、ロイが首を傾げた。
 少し困ったような、自嘲しているような、そんな仕草だった。
 じっとエドワードを見上げる瞳の色は、漆黒。
 黒曜石と呼ばれる石を、エドワードは連想した。
「なぁ、大佐」
 困りきった声を上げると、ロイの瞳が細められた。
 どうということはない仕草。けれど、どうしてか、その仕草が艶かしく思えて、エドワードは見返していられなかった。
 そっと視線を外そうとしたけれど、
「エドワード」
 不意打ちで名前を呼ばれて、行動を阻まれた。
 どきどきと、鼓動が早打ち始めて、どうしてだか、顔に血液が集まる。全身がかっと熱くなった。
 恥ずかしい。
 名前なんて、いつだって、誰にだって呼ばれている。けれど、こんなに恥ずかしい気持ちになったのは、初めてだ。
(うわ……っ、もう、なんだよこれ!?)
 ほとんどパニック状態になりながら、エドワードは恥ずかしさに耐え切れず、目を瞑った。
 くすりと笑う気配に、「笑うな!」と怒鳴りたいけれど、そんな余裕はない。
 心臓が早鐘を打ち、全身が火照っているこの状態を、なんとかしたい。とにかく、落ち着きたい。平静を取り戻したい。けれどなかなか上手くいかない。
 だから、焦りばかりが生まれる。
 追い詰められたような気持ちになってきて、エドワードが泣きたい気分になったときだった。
 ふっと、ロイが苦笑を零した気配がした。
 エドワードの左手を握っていた手が離れて、すぐに、頬に触れる温かな指先。
 労わりを込め、慈しむように頬を撫でる指先。
「エドワード、瞳を開けなさい」
 優しい、優しい命令形の声。だから、逆らえない。
「目を開けて、私を見なさい」
「……うん」
「怖がらなくてもいいから」
「別に怖がってなんて……!」
「そうか」
 あっさりと頷いた声の優しさにつられるように、エドワードは閉じた瞼を開いた。
 エドワードを見つめている柔らかな笑顔に、エドワードの鼓動がまた跳ねた。
「久しぶりだね、鋼の」
 大人の顔で笑って、ロイがエドワードにそう言った。
 呼ばれた銘に、胸がまた痛む。
 どうして名前を呼んでくれないのだろう、と、我儘にも思う。
 名前を呼ばれたら、きっと、また、平静を失ってしまうと解っているのに、名前を呼んで欲しいと思う矛盾。
 本気で、自分でも訳が判らないとエドワードは軽く唇を噛み締めた。
 それを咎めるように、ロイの指先が唇に触れて、噛み締めた唇を解くように指先を動かした。
「唇が傷つくから、噛むのは止めなさい」
「あ……うん」
 反発心を起こさせない口調を不思議に思いつつ、エドワードは頷いた。
 エドワードが頷くとロイが満足そうに笑って、エドワードの頬をまた撫でる。
 それがくすぐったくて、エドワードは首を竦めた。
「鋼の」
「うん、なんだよ?」
「私になにか用があって来たのではないのか?」
「あっ!」
 ロイに言われて、エドワードはホークアイ中尉から預かったハーブティーの存在を思い出した。
 きっと、もう、すっかり冷めてしまっているだろう。
 ホークアイ中尉にも、ロイにも悪いことをしたなと思いつつ、エドワードは体を捩って、デスクの端に置いたカップを振り返った。
 案の定、カップから湯気は立ち上っていなかった。
「それ」
 解放された左手で、エドワードはカップを指差した。
「うん? なんだ?」
 ロイがエドワードの体越しにカップを覗き見た。
「ハーブティー?」
「うん、ホークアイ中尉が大佐にって」
「そうか。悪いことをしたな」
 冷めたカップを見つめたまま、ロイが残念そうに嘆息した。
 温かいうちに飲みたかったのだろう。
「鋼の、キミにも悪いことをしてしまったな」
「オレ? オレは中尉の代わりに……」
「ここまで運んでくれただろう? すまなかったね。珍しく、うっかり、仕事に集中してしまったから、中尉とキミの厚意を台無しにしてしまった」
「オレはともかく、そうだな、ホークアイ中尉には悪いことをしたんじゃないの」
 珍しく素直に謝罪の言葉を述べるロイを意外に思いながら、エドワードはそう言った。
 その言葉にロイが「そうだな」と溜息混じりに呟きながら、カップへと手を伸ばした。
「冷めちゃってるぜ」
「ああ、わかっているが、二人の厚意を無駄にしたくないじゃないか。せっかく、キミたちが私のためにと用意してくれたものだしね」
「……ホークアイ中尉は、大佐のためにそれを淹れただろうけれど、オレは頼まれて持ってきただけだ。それだって、別にあんたのためじゃないぜ。ホークアイ中尉の仕事をひとつ減らすためだし?」
「かわいくないことを言うな」
 カップを手元に引き寄せて、ロイは冷めたハーブティーを一口飲んでそう言った。
 嬉しそうに緩んだロイの頬を、エドワードは見つめる。
 上官らしくなく、また、厭味な表情もしていないロイを見るのは初めてで、それだけでなにかが確実に、「いつも」と違っていた。
 それが何なのか解らないまま、エドワードは口を開いた。
「オレがあんたの前で可愛らしい態度を取ったことがあったかよ?」
「ないね。生意気な態度ばかりだ」
 さらりと肯定して、ロイはカップを置いた。
 そして、エドワードを見上げるように見つめる。
 その一連の動作を、エドワードは目で追っていた。
 ロイから目が離せない。気になって仕方がない。こんなこと、今まで一度だってなかったことだ。
「だから、さっきはなかなか新鮮で、……思わず期待してしまったよ」
「さっき? 期待したって……」
 なにを? と問いかけようとしたエドワードは、ロイのファーストネームを呼んだことを思い出し、瞬時に全身の血が沸騰するのがわかった。
「あれは……何度呼んでも大佐、気がつかなかったから。名前を呼んだらどんな反応を返すのかな、って思って呼んだだけで……期待されるようなことねぇし。つーか、期待ってなんだよ?」
「解らない?」
「解っていたら、聞かねぇよ」
 顔を顰めて反論すると、「それもそうだな」と肩を竦められた。
「名前を呼んでくれただろう?」
 微笑を浮べたロイに言われて、エドワードは頷いた。
「声は小さかったけれど、キミが私の名前を呼んでくれたから、もしかしたらと思ったんだよ」
 自嘲を含んだような表情で、ロイが言った。
 エドワードはなにを言われているのか見当もつかず、首を捻るしかない。
 エドワードに名前を呼ばれたから、期待しただとか、もしかしたらだとか、ロイはなにを言いたいのだろう。
 さっぱり解らない、と、表情に表れていたのだろうか。ロイが小さな苦笑を頬に浮かべた。
 そっと、壊れ物を扱うような慎重さで伸ばされた指先。
 頬に触れる、熱。
 大人の体温に、エドワードの鼓動がまた早まった。
 エドワードの鼓動の速さを知ってか知らずか、ロイが真剣な顔で続きの言葉を口にした。
「単刀直入に言ってしまうと、キミも私を好きでいてくれたのかと、そう思ったのだよ」
「え?」
 エドワードは首を傾げた。
「好きって……大佐がオレを?」
 そしてオレが、大佐を?
 ぼんやりと呟いたエドワードは、自身が呟いた内容にぎょっとして、マジマジとロイを見返した。
 今度はロイが、居心地悪そうにエドワードを見返している。
「たい……」
「ああ、いや、すまない。おかしなことを言った」
 慌てて、ロイが自らの言葉を撤回しようとした。
「仕事に追われて、疲れているんだろうな、私は」
 消えない自嘲。
 否定する自らの滑稽を嘲笑っているのだと、エドワードには判ったけれど、ロイがなかったことにしようとする理由が、エドワードには判らない。
 どうして否定しようとするのだろう。
 エドワードは、驚きはしたけれども嫌悪感など抱かなかった。
 嬉しいと思ったのに。こんなにもドキドキしているのに。
 早まった鼓動のわけが解って、ほっとしたくらいなのに。
 エドワードもロイに告白されて、さっき自覚したばかりだけれど、ロイのことが好きだったのに。
 でなければ、このドキドキの理由がつかない。嬉しいと思った理由が、消えてなくなってしまう。
「カモミールティーって、リラックス効果があるんだって、ホークアイ中尉が言ってた」
「鋼の?」
「大佐、気が緩んだんだろ? だから、本心を言葉にしたんだ」
 それは決して疲れているからじゃないはずだ。
 エドワードは、そう思った。……思いたかったのかもしれない。
 どちらにしても、否定されたくなかった。なかったことになんてさせるもんかと、思った。
「中尉が淹れてくれたお茶の中に、オレ、ティーハニーを入れたんだ。自業自得だけど、でもここ最近ずっと大佐が仕事に追われているって聞いたからさ」
「ああ、どうりで飲みやすいと思った。ありがとう」
「うん……疲れているときは甘いものがいいって聞いたことがあったから」
「そうか」
 気にかけてもらえて嬉しいよ、と、本当に嬉しそうな笑顔を向けられて、エドワードは嬉しくなる。
「なぁ、大佐、言えよ」
「鋼の?」
「オレのことを好きだって言えよ」
 エドワードがそう言うと、ロイの瞳が見開かれた。
 思ってもみなかった言葉だったのだろうなと思いながら、エドワードは続けた。
「大佐が言ってくれたら、オレは頷けるんだ」
「――キミからは言ってくれないのか?」
 少し残念そうに言ったロイに、エドワードはにやりと笑った。
「冗談。オレはそう簡単に言ってやらねぇよ。もったいない」
「では、いつ言ってくれるんだ?」
「どうしようもなく、言いたいと思ったとき」
「だから、それはいつ?」
「さぁな。オレにも判らねぇよ」
 ひょい、とエドワードが肩を竦めると、ロイはそっと嘆息した。
「キミらしいね」
 仕方がないな、と諦めを含んだ口調に、エドワードは「悪いね」と悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
 そっとロイに向かって手を差し出す。
 エドワードが差し伸べた手を、立ち上がったロイが取った。
 ぐいっと力強く引き寄せられ、気づいたときにはロイの胸の中に抱きしめられていた。
「エドワード、キミが好きだよ」
「うん」
 こくりと頷いて、エドワードはそっとロイを見上げた。
 綺麗な漆黒の瞳と視線が絡まる。
 見れないのは残念だなと思いながら、エドワードはそっと瞳を伏せた。
 たぶん、それでエドワードの意図はロイに伝わっただろう。
 驚いたような気配は、一瞬だけだった。
 そっと。
 まるで怯えたようにエドワードの唇に触れる、ロイの唇。
 その温かく、柔らかな感触を受け止めながら、エドワードはそっとロイの背中に回した手に力を込めた。




                                  END