残滓 言いたいこと。 言わなくちゃいけないこと。 いろいろ、たくさんある。―――あるのに、言いたいはずの。言わなくちゃいけないはずの言葉は、一言も出てこなかった。 三年前の別れ際、一瞬触れた掌の熱。その熱さを、思い出した。 「鋼の」 久しぶりに呼ばれた銘は、ずっと聞きたいと思っていた声が紡ぎ出していた。 条件反射で声の主へと視線を向けて、不覚にも、視界が歪みそうになった。 この非常事態の真っ最中に再会なんて、あまりにもオレたちらしくて、笑い出したいはずなのに、笑顔さえ浮かべられない。 「会いたかったんだ」 そんな一言が浮かんだけれど、そんなこと、素直に言えるわけがない。 かわりに口をついて出たのは、相変わらず、悪態だった。まあ、でも、どうせ向こうも再会したとたん嫌味を言ったんだから、お互い様ってやつだ。 「それにしても、それ、似合わねぇな」 三年前にはなかった眼帯を指摘すると、苦笑する気配が伝わってきた。 隣を走るアルが、呆れたように息をついている。 「もう、兄さん」 小声で窘められて、思わず、笑ってしまった。 懐かしいやり取りだ。 三年前の、あの、決別を決めた日まで当たり前だったこと。 他愛ないことでオレと大佐が言い合いをして、傍にいるアルがオレを窘めつつ、「すみません。大佐」って、心底申し訳なさそうに頭を下げて……。 もう二度と、取り戻せないと諦めていた時間。 ああ、オレは錬金術が使える、オレの世界にいるんだと、急に実感が湧いた。 目の前で、鮮やかな炎が空を舞う。 きれいだと思った。 久しぶりに見た、大佐の生み出す炎を、本当に綺麗だと思った。 大佐が生み出す炎より綺麗な炎を、オレは知らない。 三年前、賢者の石を消滅させること。ホムンクルスを封印することを決めたときには、目の前を走る人の背中について行けなかったけれど。 あの時は一緒に戦うという道は、選べなかった。 アルが賢者の石になっていたこと、親父のこと。なにひとつ、大佐には言っていなかったから。 ああ、そうだ。もうひとつ言ってなかったことがあった。 言えずに、別離を選んだけど。 本当は、一緒に行きたかった。ずっと、憧れていて、ずっと好きだった大佐について行きたかったけれど、大佐について行くっていうことは、それは『守られる』ことを前提にしているんだと思っていた。 対等でありたかった。 大佐に助けを求めて、守られて、安全な場所――大佐の背中に庇われていちゃいけないと思った。 隣に立ちたかった。 認められたかった。 庇護する存在じゃなくて、背中を預けて大丈夫だと思われる存在になりたかった。 そうして、オレのことを好きになって欲しいと思った。 大佐に、特別に思って欲しかった。 オレの前を走る背中を、見つめる。 「好きだな」と、思って、一瞬だけ目を伏せた。 いまも、大佐を好きだと思い知る。 帰ることを諦めたときに、大佐への思いも吹っ切ったつもりでいたんだけど、本当に、それは『つもり』であって、『吹っ切った』わけじゃなかったんだと、こんなときなのに思い知った。 どうしたって、吹っ切ることのできない思いなんだと知った。 まあ、そんなに簡単に吹っ切れる程度の思いなら、最初から大佐のことを好きになったりしないだろう。 この思いは、ずっと、心の中に抱え込んで生きて行くものだ。 だって、言えない。 来るもの拒まず、去るもの追わず。女性限定でそれを信条にしている大佐が、男のオレなんか相手にするはずない。 軽蔑されて、嫌われてしまうくらいなら、嫌味を言い合えるそんな距離関係のままでいい。 オレは自分の女々しい思考に、思わず笑ってしまう。 好きなんだって自覚したときから、進歩しないまま、足踏み状態の気持ち。 一歩も踏み出せていない。我ながら情けないなと思うけど、こればっかりは玉砕覚悟を決められるようなことじゃない。 大佐の炎が生み出されるたびに、熱風が頬を撫でる。 温かな体温に似た、熱。それよりも少し熱めの温度。 炎が生まれると同時に聞こえる爆音。その音に紛れさせて、一度だけ、前を行く背中に向かって「好きだ」と呟いてみた。 答える声はないと知っていたけれど、一度だけ、言いたかった。 言っておきたかった。 ただの自己満足だとわかっていたけれど、言えなかったと後悔したくなかったんだ。 もう、二度と。 穏やかとは言えない上空の風に、声が攫われてしまいそうな気がした。 「鋼の?」 問いかけるような声の穏やかさに、微かな笑顔を返した。 ゆっくりと開いていく距離。 淋しいと思ったけど、不思議と心は穏やかだった。 悲痛なアルの声さえ、穏やかに受け止められた。 もう二度と、会えないとわかっているのに。 「鋼の。お前は、どこへ行く?」 静かに問いかける声から、この人はオレの答えを解っているんだと思った。 解っていて聞くのは、場合によっては、けっこう残酷なことだと知っているだろうか。 オレがここを捨てて行くことを、暗に責められているような気分になってくる。 「こいつらを連れて、戻るよ」 ちらりと背後を一瞥してそう言うと、仕方がなさそうに大佐が苦笑した。 最初から全部わかっている。そんな顔で、笑って頷かないで欲しいと思う。 そう言う余裕ぶったところ、実は好きじゃないんだ。 どうしても、反発したくなる。 何かを言ってやろうと口を開きかけたけれど、うっかり、言わなくていいことを言い出してしまうような気がして、オレは口を閉じた。 深く息を吸って、吐き出す。 そんな行為でも、案外、少しざわつき出した気持ちを落ち着かせるのに役に立った。 気持ちが落ち着くと同時に、大佐とアルに背中を向けた。 責めたてるようなアルの声に、顔が歪んだ。 ずっと一緒にいた姉のような存在。 ずっと、一緒にいるんだろうと、以前は漠然と思っていたけど。 好きなんだと、思ったこともあったけど。 なにも言わずに行くことを、あの優しい幼馴染みは「しょうがないわね!」って怒りながらも許してくれると思うから。 だから、一度だけアルを振り返って、ウィンリィがくれた機械鎧を胸の前で掲げた。 「これ、ありがとうって伝えてくれよ」 一言だけそう言って、今度こそ、オレは背中を向けた。 大佐は、なにも言わないままだった。 だけど、背中に突き刺さる視線を、痛いほど感じた。 振り返って、声の限りに「大佐が好きだ」って叫びたくなるほど、執拗な視線だと思った。 でも、言い逃げはできないよな。 扉のこちら側と、向こう側。 隔たれる世界。 もう二度と、交じり合うことはない世界。 大佐とアルからは姿が見えないだろう壁際に、背中を預けた。 込み上げるものを耐えさせる理由は、もうなかった。 声を殺して、少しだけ、泣く。 辛い。 本当は、ずっと、ここにいたい。 優しい人たちのいる、オレが生まれた世界。 好きな人のいる世界で、生きて行きたい。この思いを伝えることができなくても、本当は傍にいたい。 傍にいてなにも伝えられない辛さと、違う世界で、二度と会うことなく生きて行く辛さと、どっちがより辛いのかはわからない。 でも、選べる道はひとつしかない。 まだ溢れそうな涙を手の甲で拭って、背中を預けていた壁から身を起こす。 もう、時間はない。ぐずぐずしていられない。 「さようなら」 本人には言えなかった言葉を、呟いてみた。そのとき、だった。 目の前で、小さな炎が生まれて、消えた。 大佐の炎だと、すぐにわかった。 炎が生まれて、消えた場所に左手を伸ばす。 熱の、残滓。その温度が、指先を温めた。 「……クソ大佐。オレが火傷するとか、考えなかったのかよ……」 二度と会うことができない人からの別れの餞の、焔。 最後に見るのが大佐の生み出した綺麗な焔なんて、ちょっとできすぎだ。 残滓をまとわりつかせた指先を、ぎゅっと握りこんだ。 薄れてゆく熱。三年前に一瞬触れた熱に似た、温かさ。その名残を、体の中に取り込むような気持ちで。 END |