幸福の不在



 気が狂いそうだ。



 ジ……リリン。
 甲高く鳴り響くベルの音に、ロイはハッとなった。
 名残雪の降り続ける外から、台の上の電話に視線を移動させ、鳴り続ける電話をしばし見つめる。
 やがて、震える手で受話器を持ち上げた。
 大きく深呼吸をして、受話器を耳に当てる。
 受話器を通して聴きなれた声が聞こえて、今日もまた、期待の後に必ず訪れる、失望を繰り返したなと自嘲する。
『……聞いてますか、大佐?』
「ハボック、私はもう大佐ではないんだが……」
 つい先日、申請していた降格願いが受理され、ロイは伍長へと降格が決まった。
 それを暗に含ませて言うと、電話の向こう側の元部下が、気まずそうに沈黙した。
 きっかり三十秒黙り込んだハボックは、気を取り直したように口を開く。
『……あ。あー、わかってるんスけどねぇ、長年呼びなれた階級なんで、すぐには無理っすよ』
 おどけた口調で言って、ハボックが笑った。
『それに、まだ、大佐は療養休暇中でしょうが。オレも今日は休暇なんで、細かいことは無しにしてください』
 軍務に復帰されたら、おいおい新しい階級で呼んで差し上げますよ、と、楽しげに言ったハボックに、ロイは見えないとわかっていながら、苦虫を噛み潰した顔をした。
 軍に残るロイを。ロイの目指したものを、階級の上下など関係なく一緒に目指す準備はあるのだと、言外に言われて、ロイは苦笑した。
 まったく、自分の人選の確かさをこのときばかりは呪ってしまう。
 うっかり、一瞬、降格願いの申請したことを、後悔してしまった。
 彼らに支えられていた日々は、そう遠い日のことではなかったけれど、ずいぶん昔のことのように思えるほど、時間は確実に経過してしまった。
 嫌なことも多かったけれど、充実した毎日があった。それは彼らがいてくれたからだ。
 彼らはロイを信頼してくれていたし、ロイもまた、彼らを信頼していた。
 階級に縛られない、確かな絆。
 それでも、楽しげな部下の言いように多少腹が立ったのも確かで、「覚えていろよ、ハボック」と心の中で毒づきつつ、ロイは「そうだな」と頷いておいた。
 いつか意趣返しはしてやるからな、などと、いま怯えさせても面白くもなんともない。
 楽しみは先に取っておくことも、ときには必要だ。
 そんなロイの心の中の呟きに気づくことなく、ハボックが言った。
 続けられた言葉は、それまでの軽い口調から一変していた。
「――大将の行方なんですけどね」
 重たげな口調に、ロイは表情を改める。
 ゆっくりと、瞳を閉じた。
 幾度となく、他人から聞かされた言葉を聞く。
『……やっぱり、大将の行方は掴めません。最後に大将と一緒にいたっていうロゼって娘にも会ってきましたけど、手がかりなしです』
 ハボック自身も落胆した様子で、溜息をついている。
 セントラルの地下に隠されたように存在していた、地下都市。
 そこがホムンクルスたちと、そのホムンクルスを操っていた人物の隠れ家だったらしい。
 賢者の石の精製場所とも言うべきそこを、エドワードは破壊するんだと言った、と、ロゼという少女は語ったという。
 壊すから早く逃げろ、とロゼに言ったエドワードは、しかし、どれだけ待ってもセントラルの街に戻ってこなかった。
 不安に思い、ロゼという少女は恐々ながらも地下都市へと戻り、そこで呆然と佇んでいるアルフォンス・エルリックを見つけたらしい。
 複雑な錬成陣の上に立っていたのは、エドワードの弟のみ。
 彼は――鋼の錬金術師と呼ばれたエドワード・エルリックは、どこにもいなかった。
 呼んでも、叫んでも返る声はなく、ロゼは、エドワードがアルフォンスを錬成して――消えたのだと言った。
「エドは、自分の体が元に戻ることより、アルが生きていることを望んだんです」
 そう言ったロゼの声は泣き声に近かった、と、ハボックは締めくくった。
 ロイもハボックも黙り込んでしまうと、重い沈黙だけが残る。
 受話器越しに、街の喧騒が届く。
 しばらく後に、ハボックがためらいを残したまま口を開いた。
『大佐、大将は……』
「せっかくの休日に無駄足を踏ませて、すまなかったな」
 ハボックが言おうとしていることを遮るように、ロイは口早にそう言った。
 ロイの拒絶を汲み取って、電話の向こう側で、ハボックが黙り込む。
『……いえ……無駄足だとは思っていませんよ。オレも大将の行方は気になってますから』
 無事だといいんですけどね、と、まるで祈るような声で言って、ハボックが電話を切った。
 急激に重くなったような受話器を戻し、ロイは、体を支えるようにして電話台に手をつく。
 気が狂いそうになる。
 ホムンクルスだったキング・ブラッドレイを倒し、フランク・アーチャーの放った弾で重症を負い、長い入院生活を経て退院したロイに報告された現実は、素直に喜べないものばかりだった。
 アルフォンス・エルリックが、念願かなって、元の体を取り戻した。が、彼は、兄と共に母親を錬成した日を含め、それ以降の四年間の記憶を失っていた。
 そして、弟の錬成を成功させたはずの兄、エドワード・エルリックは行方不明。いや、より正確に言うなら、生死不明。
 その話を聞いたとき、ロイは一瞬、本気で呼吸の仕方を忘れた。
 呆然と、その情報を齎したシェスカを凝視した。
 シェスカの後方で、所在なさげに佇むアルフォンスは、ときおりロイに視線を向けるものの、ロイと目が合うとすぐに視線を逸らしてしまう。
 そして、エドワードを探すように視線をさ迷わせては、溜息をついていた。
 見知らぬ人間を前に緊張しているのと、やはり、自分の傍にエドワードがいない不安に落ち着かないのだろう。
 アルフォンスは、始終、居心地が悪そうにしていた。
 ときおり、誰かが投げかけるエドワードに対する質問にも、「わからないです」と首を振るばかりで、なんの手がかりも得られなかった。
 ロイも、たくさん聞きたいことがあったが、アルフォンスの様子を見る限り、欲しい情報はひとつも得られないと悟るしかなかった。
 あれから、ずいぶんの時間が流れたけれど、エドワードの行方の手がかりはようとして知れない。
 唯一の手がかりを残している場所は、軍部の決定により封鎖されてしまった。
 探す手立てを封じられたようなものだと、ロイは苦く思った。
 けれど、軍の決定はある意味、妥当だ。
 あの巨大な地下都市の存在を、民衆に知られるわけにはいかない。
 エドワードも、あの別れの日に言っていた。
 もう誰も賢者の石の存在を思い出さないようにするのだと。そのために消滅させるのだと……。
 彼が選んだものは、これで叶ったことになる。
 賢者の石の消滅。
 弟の肉体を戻すための、人体錬成。
 けれど。
 けれど、鋼の。
「鋼の」
 呼びなれた名を、ロイは口にした。
 ずいぶんと長い間、呼んでいなかった銘だった。
 意識して呼んでいなかったように思う。
 呼んでも――何度呼んでも、その呼びかけに応える声はない。
 電話が鳴るたびに、期待して、その期待を裏切られる。
 もう、ずっと、声を聞いていない。姿を見ていない。
(キミに、会っていない)
 以前は当たり前だったなにもかもが、不意に、当たり前じゃなくなってしまった。
(鋼の。どれだけの時間が流れても、月日が流れても、必ず会えていたキミに、どれだけ待っても会えない。声が聞けない)
―――抱きしめられない。
「まったく。鋼の。キミはいつだって面倒なことは全部私に押し付けて、勝手に旅に出てしまう……」
 生意気な、けれど憎めない笑顔を思い出す。
 愛しい人の、姿。
 じわりと滲んだ涙を堪えるように、ロイは強く目を瞑った。
 泣いてしまいそうだった。
 かつての彼がそうだったように、ロイは、いま、自分に泣くことを許していない。
 自分で自分を許せていないのに、泣くことはできない。そう思っているからだ。
 失った、多くのもの。二度と会えない人たち。
 ロイの傍らをすり抜けていった、かけがえのないすべて。
 手が届かない。
「……旅に出てしまうのは勝手だが、鋼の。キミが遠くにいってしまうことを、誰も望んでいなかった。許してもいない」
 エドワードのいない日々を。時間を、誰も望んでなどいなかった。
 虫のいい話だけれど、最後は、みんなで笑い合えるのだと思っていた。
 そんなことはないと理解していても、そうであればいいと希望を抱いた。――いや、心のどこかで信じていたのだ。必ずそうなるはずだと。
 なのに。
「鋼の。キミがいなくなって悲しむ人間がたくさんいることを、キミは少しも考えなかったのかっ!?」
 力強く言うはずだった言葉は、意に反して掠れたものになった。
 自らが吐き出した言葉に、ロイは、苦く顔を歪めた。
 きっと、考えなかった。
 何があったのか、ロイには判らない。
 弟が――賢者の石になっていたという弟が、その身を犠牲にして、一度は命を失いかけたエドワードの命を錬成し、消えたと、ロゼという娘は言った。
 それを知ったエドワードが、弟以外のことを思い出したとは思えない。
 きっと、誰のことも、あとのことも考えなかっただろう。
 この世のなによりも大切で、愛しく思っている弟以外のことなど。
 ロイのことなど、ちらりとも思い出してくれなかったに違いない。
 自分の一番の望みを叶えるために必死で。
 弟のことだけに、必死で。
「嫌いじゃないぜ」と、実に天邪鬼な言い方で、ロイへの好意を示したことなど、きっと忘れてしまったに違いない。
 ぎこちなくくれたキスも、挑発めいた誘惑も。甘い時間も、ぜんぶ、弟の前では無意味になっていたのだろう?
「……薄情者」
 力なく、ロイはエドワードを罵った。
 その言葉に返る声のないことが、悲しかった。





                                   END