漆黒の、いろ。


回帰


 闇よりもなお濃いその色は、エドワードを捕らえている。
 捕らえて、放さない。
 放してくれない。
 もっとも、エドワード自身もそれから逃げようとは思っていないのだから、「放してくれない」というには語弊があるだろうけれど。
 夜闇に溶け込んだ漆黒色の髪に、エドワードはそっと指先を伸ばした。
 さらりと。そして冷たい感触が指先に触れると、なぜか安堵の吐息が零れた。
 軍人らしくなく、すっかり熟睡している男は、穏やかな寝息を立てている。
「ロイ・マスタング」
 音にはしないまま、唇の動きだけで男を呼んでみる。
 当然返事はなく、あいかわらず穏やかな寝息がエドワードの耳に届くだけだ。
 髪に触れている指を、エドワードは離した。
 ぱさりと、小さく乾いた音が耳に届く。
 静寂は、嫌いだ。
 軽く眉根を寄せながら、エドワードはそう思った。
 拾わなくてもいい小さな音まで、拾ってしまう。
 そう、たとえば、軋む音。
 そっと目を閉じると、瞼に浮かんだのは、鎧姿の弟の後ろ姿だった。
 よみがえる、幻聴。
 鎧の身体が立てる、軋んだ音。
 自分の右手と左足が立てる、音。
 真夜中に響く音は、昼間よりも耳につく。強く、胸を抉る現実を知らしめるように。あるいは、過去と罪と無知を思い出させるように。
 だから夜の静寂は、エドワードに焦燥と罪を感じさせるばかりだ。
 もう、ずっと、あの日から。
 ぎゅっと、目を閉じる。
 だからかもしれない。静かすぎる静寂を生み出す夜の色は、大嫌いな色だった。
 それなのに。
 そっと瞼を押し上げて、気持ち良さそうに眠る男の表情を、闇に慣れた眼で見つめた。
 普段から室内に篭っていることが多いからか、色素が抜けて白くなっている顔が、夜闇のせいで疲れているように思える。
 少しばかり憔悴したようにも思える頬に、エドワードは触れてみた。
 触れてから、起こしてしまうかもしれないという危惧を抱いたが、後の祭りだ。――が、エドワードの不安をよそに、男はいっかな目覚める様子をみせない。
 安堵半分、怒り半分(理不尽だとわかっているけれど)。
 さっきよりも深い皺を眉間に刻んで、エドワードは唇を尖らせた。
 ムカツク、と小さく零したエドワードは、触れている頬を引っ張ってやろうかとも思ったが、後々、面倒なことになると思い直して、八つ当たりでしかない悪戯をしかけることはやめにした。
 明日の午後には、出発するのだ。
 これ以上、自分に負担がかかるような真似を、進んで招き入れてどうするというのか。
 それに、あの優しくも愛しい弟が、心配する。
 それは、もう、エドワードが居た堪れなくなるほどに。
 弟のことを思い出して、エドワードは表情を翳らせた。
 どうしているだろう。
 この長い夜を、たったひとりで過ごさせてしまったことを、今さらながらに悔やんでしまう。
「行っておいでよ」
 そう言って送り出してくれた、優しい声。
「アル……」
 どうしているだろう。
 なにをしているだろう。
 ひとりぼっちの夜を、どんな気持ちで過ごしているのか。
 気になりだすと、そわそわと落ち着かない。
 目の前の男のことより、弟のことで頭が一杯になった。
 男の頬に触れていた指先を離し、エドワードは起き上がろうとした。
 が。
 温かな腕が、エドワードの動きを、阻んだ。
 強く、抱き寄せられてしまう。
「大佐?」
 起こしてしまったのだろうか。
 そう思いながらそっと呼びかけるものの、返事はない。
 きょとん、と目を見開いて、エドワードは苦笑した。
 無意識、なのだ。
 くうくうと、規則正しい寝息が聞こえて、エドワードは忍び笑った。
 まったく。この漆黒の色を持つ男は、眠っていてなお、エドワードを放してはくれないらしい。
「逃げるわけじゃないんだぜ?」
 ただ、ひとりにしてきた弟のことが気になっただけだ。
 それでも、きっと、エドワードを捕らえ続ける男は納得などしないのだろう。
 許しもしない。
 この男以外の、誰かの元へ帰ることなど。
 たとえ、それが、血縁者であろうとも。
 以前から、なんども、なんども言われ続けている言葉を、エドワードは思いだす。
 まるで命令するように。
「なにがあろうと、最後の最後は、弟の傍でも、故郷の幼馴染みの傍でも、まして天国とやらにいるだろうキミの母親の元でもなく、私の元に戻ってきなさい」
 傲慢に言われ続ける言葉は、束縛を意味している。
 エドワードが厭う、それ。
 しかし、目の前の男限定で、エドワードはそれを許している。受け入れた。
 この先、命があっても、なくなっても、帰る場所はこの男の傍にしよう、と。
 いつのまにか、嫌いだったはずの色から安堵と安定を見出すようになってしまうほど、エドワードの心に侵食した漆黒の色の傍こそが、回帰する場所だと……そう決めた。
 さらに強く抱き寄せられるままに、エドワードは体を摺り寄せた。
 目を閉じる一瞬、弟のことが頭を掠めたけれど、素肌に触れる体温の温かさに、それは霧散してしまった。
 男の、穏やかな寝息に引きずり込まれるように、睡魔が襲い掛かってくる。
 眠りに落ちる一瞬に、優しく呼ばれたような気がしたけれど、エドワードは漆黒の夜闇に身を委ねるように、瞼を落とした。

                                    END