Love sick


 ひんやりとした資料室の一角。
 換気用の窓の真下。壁に凭れて、エドワードが座っていた。
 無造作に投げ出された足の上に、さきほどロイが手渡した資料を広げている。
 視線は資料に落とされたままで、ロイをちらりとも見ない。
 見ないというより、資料を読むことに集中しているから、ロイが入ってきたことに気づいていないのだろう。
 いつものことと思いつつ、苦笑を禁じえない。
 さてどうしようかと思いながら、ロイは足音を消したままエドワードに近づいた。
「足音くらい立てろよ、大佐」
 すぐ傍に立ったところでそんな声を投げかけられて、ロイは驚きに軽く目を見張った。
「気づいていたのか?」
 珍しい、と言うと、エドワードが眉を顰めながら顔を上げ、ロイを見上げた。
「馬鹿にするなよ。どれだけ集中していても、気配くらい判っているさ。でなきゃいまごろ、のんびり錬金術の資料なんて読めてねぇよ」
「たしかにな」
 テロリストだ、なんだと妙な連中が多い中、トラブル体質―自ら事件を引き寄せているとしか思えないほど―のエルリック兄弟が無事な理由は、子供といえども侮れないくらい彼らが体術に長けているからだが、彼の言うとおり、気配くらい読めていないと、どれだけ体術が優れていようと話にならない。
 まだまだ不穏なご時世。命がいくつあっても足りないだろう。
「本や文献を読んでいるときに返事をしないのは、集中力を乱したくないから、というところか」
「それもあるけど、正直、返事をする余裕がない。どうしても、知識を吸収することを優先しちまうんだよなぁ。……悪いとは思ってるんだけど」
 敵意や害意は無視できないからしないけどと、言いながら、エドワードが立ち上がり、ぱんぱんと服についた埃をはたいて、ロイを仰ぎ見た。
 途中で資料を読むのをやめるなんて、本当に珍しいと、ロイは僅かに眉を跳ね上げた。
 ロイの様子に気づくことなく、エドワードが口を開いた。
「――で、何の用?」
「用というか……様子を見に来ただけなんだが」
 ロイがそう言うと、エドワードが目をまたたいた。
 そして、「しょうがねぇなぁ」というように苦笑する。
 こういうときのエドワードは、面倒見のいい長男の顔になっていて、そうすることが当然のようにロイの手を取って、傍にいてくれる。付き合ってくれる。
 ロイの不安だらけの心を、埋めようとするように。
 ロイにむかって伸ばされたエドワードの手を掴み、引き寄せた。そして、急に引っ張られて体制を崩した体を抱きとめる。
 腕の中で、「まったく」と溜息混じりに小さく呟いた声が聞こえたが、ロイは、それを無視した。
 布越しに伝わる体温。
 いったいどれくらいぶりだろう、エドワードに触れるのは。
 触れて、やっと、安心できた。
「鋼の」
 いつもの呼び方。
 けれど、特別なトーンで呼びかければ、そっと背中に回された両腕。
 耳が拾った小さく乾いた音は、エドワードが手に持っていた紙が床に落ちた音だろう。
「鋼の」
 甘えるように名を呼べば、あやすように何度か背中を軽く叩かれて、ロイを抱きしめ返す手に力が篭った。
 ロイ自身でもセーブできない愛しさが、溢れてくる。
 伝えても、伝えても、伝えきれていない気がして、同じ言葉を、想いを、繰り返し言葉にする。
「鋼の、キミが、好きだ」
 泣き出しそうな気持ちになりながら、掠れた声で想いを告げた。
 本当は最高の笑顔と声で伝えたいと思うのに、いつも失敗してしまって、ロイとしては不満が残るところだが、エドワードは気にならないらしい。
 気にするだけの余裕が残っていないというほうが、案外、正しいのかもしれないけれど。
 ロイの腕の中で、エドワードが微かに身じろいだ。
 そっと視線を落とすと、目に映るのはハニーブロンドの髪。
 少しだけ――怯えるように震えている体を、ロイは強く、強く抱きしめる。
「好きだよ」
 もう一度言うと、エドワードの体の震えが止まった。
「どうして……」
「うん?」
 くぐもった声のトーンが、微かに震えているような気がした。けれど気づかないふりで、ロイは問いかけた。
「なんだい、鋼の?」
 身を捩って顔を上げようとしていることに気づいて、ロイは抱きしめる力を弱めた。
 本人は気づいていないかもしれないが、エドワードが泣き出しそうに顔を歪めて、ロイを見上げている。
 金色の瞳も、潤んでいるような気がした。
 彼はロイの告白を聞いたあと、いつも、こんな顔をする。
 そうっと。壊れ物に触れるような慎重さで、ロイはエドワードの頬に指を伸ばして、触れる。
 指先に伝わる、少しだけひんやりとした体温。
 エドワードの、熱。
 しばらく視線を絡ませたまま見つめあっていると、エドワードの顔が歪んだ。
 戸惑いを隠すように、ゆっくりと伏せられる瞼。
「どうして、オレなんかに躓くんだよ」
「鋼の?」
「大佐なら他に……、きれいな人と一般的な幸せってやつを掴めるだろ。オレじゃなくていいはずだろ?」
「でも、キミはそう言うけれど、鋼の。私が好きになったのは、他の誰でもないキミなんだ」
 エドワードの存在がロイの心をすっかり占拠してしまって、ほかの誰も入り込む隙間はない。
 他の誰かでは、もう、この心は満たされない。満足しない。動くこともない。
 望むのは、たったひとりの心。
「好きだよ。それとも、迷惑かい?」
「……そうじゃねぇよ」
「だったら、良かった」
 否定の言葉に心底、安心して、ロイは小さく笑った。
 そして、逃すつもりはないと教えるように、エドワードを抱きしめる手に力を込める。
「大佐は馬鹿だよな……」
 ぽつりとエドワードが呟いた。
 ロイは小さく笑んで、エドワードの髪を撫でる。
「知らなかったのか? 私は馬鹿だよ。だから大総統になろうなどという野望を抱いているんだ」
「そっか……」
 頷いて、小さく笑う気配。けれどすぐにそれも消えて、やはり、呟くような声音でエドワードが言った。
「いくら馬鹿でもさ、オレなんか好きになることはなかったのに」
「鋼の、言葉を間違えないでくれたまえ」
「え?」
「キミ『なんか』じゃない。『キミだから』好きになったんだ、私は」
 素直に受け入れてくれないエドワードに、ロイは溜息まじりにそう言った。
 数秒の沈黙の後、
「そっか」
 と、もう一度エドワードが頷く。
 そして小声で、「やっぱり馬鹿」と呟いた。
「なぁ、大佐。オレに甘やかされに来たくせに、なんでオレを甘やかしてるんだよ」
 笑いを含んだ問いかけに、ロイは肩を竦めた。
「キミが」
「オレ?」
「そう。キミが先に声をかけてくれたから、かな」
 ことん、と、エドワードが不思議そうに首を傾けたから、ロイはそっと笑った。
 本当は、甘やかされにきたわけじゃなかった。
 挨拶もそこそこに執務室を辞したエドワードの表情が、いつもと違って、曇って見えたから心配になったのだ。
 頼りない印象を抱かせた背中に、不安を覚えた。
 渡した資料を読むために、人気の少ない資料保管庫を選んだだろうと当たりをつけて様子を見に行ってみれば、案の定だった。
 エドワードは空虚な表情で資料を見つめていた。
 まるで、すべての希望を打ち砕かれたように。
 見つめているものの先に繋がる未来はないのだというように。
 ひとり、この世界に取り残されたような危うい雰囲気に、眉を顰める。
 もっと、頼ってくれればいいのにと思う。
 頼るのが嫌なら、利用されるのでも良いとロイは思っている。
 だけどエドワードは弱音をなかなか口にしてくれないから、いつかその心ごと壊れてしまうんじゃないかという危惧が、ロイの中にいつもある。
 それがエドワードの表情を見たとたんに強くなった。
 しかし、気休めの言葉を口にして、慰めるつもりはなかった。
 エドワードがそんなものを必要としていないのは、十分承知している。
 それでも、なにかしたくて。でも、なにもできない自分がいることも十分に判っていたから、傍にいるくらいはしようと思って近づいたところで、珍しく、エドワードから声がかけられたのだ。
 エドワードから話しかけられたことで、相当、参っているんだと察しがついた。
 察しはついたが、あからさまな慰めの態度をとれば、エドワードは反発するだけだ。
 ロイの言葉を誤解して受け止めたのを幸いに、甘えるふりで抱きしめた。
 告白という言葉で、エドワードを必要としている人間がいることを伝えた。
 何回絶望を経験しても、一筋の光が細くなっても、未来への道を見失いかけても、それでも命が続いている限り、可能性は消えないことを思い出して欲しかった。
 帰る場所。
 待っていてくれる人がいることを。
 ひとりじゃないこと。
 差し伸べられる手があることを。
「……本当に、大佐は馬鹿だな」
 ロイの笑みと言葉から読み取ったのだろう。エドワードが呆れたように言った。
「でも……そういう損していそうに思える馬鹿なところ、嫌じゃねぇよ。サンキュ」
 こつん、と、ロイの胸に預けられる額。
 大切な、大切な人の体温を腕の中に抱いたまま、ロイは言った。
「損などしていないよ。むしろ役得だね」
「役得?」
 怪訝そうなエドワードの問いかけに、大きく頷いた。
「こうしてキミを抱きしめられる」
 エドワードを見下ろすように見つめ、気障っぽい仕草でウインクをひとつ。
 ロイの視線の先でエドワードが呆れたように眉を顰めた後、小さく噴出した。
「安上がりの幸せってやつか?」
「何ものにも代えがたい幸せだよ」
 本心からの言葉に、エドワードの表情がさらに呆れたものになったけれど、それはすぐに別の表情に摩り替わった。
 少しずつ戻る、本来の彼へと。
 生意気そうな光が、金色の瞳に宿る。
 生意気そうにつり上がった口元。
 悪戯を思いついたように、生き生きとした顔で、エドワードがロイを見つめた。
 形の良い唇が、ゆっくりと動いて、開かれた。
「オレ、大佐に甘やかされるの嫌いじゃねぇよ?」
 甘えるような口調でそう言って、ロイの腕の中でしなやかな肢体が僅かに伸び上がった。
 するりと首に回される両手。
 ロイは瞠目した。
 本当に、珍しい。
 成長途中の細い腰を抱き寄せて、ロイは苦笑を浮かべた。
「後が怖そうだな」
「対価は要求したりしねぇから、安心しろよ」
 悪戯っぽく告げられる悪態にもう一度苦笑って、ロイはエドワードの唇に口づけた。
 言葉で伝えきれない想いを、伝えるように。
「愛している」と、いまはまだ伝えることができないかわりに。




                           END